第2話

 フィオの生活は不規則と不健康で成り立っていました。太陽の目覚めと同時に眠り、それまでの間、口にしたのはドライフルーツだけです。


 シーツしか掛けていない木のベッドからモソモソと起き上がるも、今が何時なのかすら解っていません。それどころか、眠った時のことすら覚えていない有様でした。


 どうやら錬金術の探究に明け暮れているうちに、自然と夢の中へ沈んでしまったようです。睡眠と気絶の線引きが曖昧なのは、もはや日常でした。


 ベッドの縁に腰を掛け、しょぼしょぼと近くの作業台に置いてある灯光水晶ライト・ラクリマのカンテラを見つめます。それは指先などでコツコツと叩くことで、水晶が蓄えた光を出させる仕組みとなっていました。


 けれど、寝起きの錬金術師にはそれすら億劫でたまりません。腰を上げずに手を伸ばしたところで、ひ弱な二の腕がプルプルと震えるだけです。


 なのでフィオは、やっぱりいつもどおりに目でながら、吐息で明かりを灯すことにしました。


 フィオの視界に浮かび上がった小アルカナのカード。錬金術師だけが持つ神託の眼オラクルは、ライト・ラクリマが持つ機能を顕とします。


 勿論、このアルカナは普通の人に見ることはできません。世界の理を探究する錬金術師達が、沢山の知識によって会得する神秘の形──それが見えざるヴェリティ・アルカナでした。


 ライト・ラクリマから現れたカードのスート絵柄ワンド。記された数字はエース。特性としてスートが持つ火の属性は、シンプルに松明としての役割を意味しています。


 逆位置になっているそれに向けて、フィオは細く吐息を吹きかけました。四元素の関わりから火を助ける風の属性を吹き込んだのです。


 すると、位置を正されたワンドのカードは、望み通りの明かりを灯しました。海に降り注ぐ月光のような、青白くも優しい輝きが、部屋全体に広がっていきます。


 目にしたものが持つ可能性に触れる秘技。錬金術師は世界に存在するあらゆる物質や現象の機能を見て、触れることができました。世界の理を解き明かすという使命のもとに。


 けれど、そんな高度な認識の知恵を『面倒くさい』とか『億劫』で扱うのは、錬金術の長い歴史のなかでも、きっとフィオだけです。


「……ふわぁ……」


 気の抜けたあくびを溢し、むにゃむにゃと口を波打たせる姿は、いかにもまだまだ眠たげです。起きている時はいつまでも起きているくせに、一度眠ってしまうといつまでも眠たいのが、彼女のだらしないところでした。


(……も狭くなっちゃったなぁ……)


 青い光に満ちていく研究室の中、天井まで背伸びしている本棚をぼぉっと仰ぎます。フィオを囲うようにぎっしりと詰まった本は、全て彼女が書き記した錬金術の叡知でした。


(……『プリアム・アジェンス唯一のもの』の表現を新しくするにはどうすれば良いんだろう……? ……『ドラゴンのプリマ・マテリア第一物質』をもう少し解りやすく纏められないかな……。……それとも逆説的に『十二宮の双魚』から書いてみる……? ああ……でもそれだと『二羽の鷲』はどうしよう……? 硫黄と水銀……足りないかなぁ……)


 ようやく覚めてきた意識の片隅で、ぼんやりと今の研究を思います。見上げるほど知識を積み上げても、まだまだ足りないという自覚がありました。それどころか、研究すればするほどに、頂の高さを痛感するのです。


(……そういえば、硝石って岩の塩サル・ペトラとも呼ばれてるよね……それってプリマム・エンズ第一存在の定義に当て嵌められないかな……? 霊薬エリクシルのプロセスを大きく省けるとしたら、白華はっかはアルベドを示して──あ……! そういえば私……エリクシルの製作過程を小説にした『白銀の女王と狂える赤の王』どこに置いたっけ……!?)


 書き上げた本のほとんどは既に古く、数百年以上も前に書いた物だってありました。どれもこれも懐かしいと感じられる知識ばかりで、中には赤面してしまうぐらい雑な記述だってあります。フィオは五百歳を越えた今、百年以上も前の若気で書き上げた小説の存在に気付き、身悶えしました。


 そんなこんなで苦しんでいるうちに、お腹が立てたグゥっという獰猛な音を耳にします。自分がドライフルーツしか口にしていなかったのを思い出すと、普段から低血圧なのも相まって、視界は回る流星群みたいになりました。


 不老不死も案外不便なもので、本能的な欲求まではどうにもしてくれません。勿論、食べなくても飲まなくても、フィオが死んでしまうということはないのですが、常に不満な感覚に苛むのは辛いのでした。


 何か食べよう。そう決めて、雑多な研究室を後にします。カンテラを片手に出た暗い廊下は、壁も床も白い大理石で造られていて、荘厳ながらも自分しかいないという寂しさに充ちていました。


 フィオは生来の小心っぷりから、住まいであるにも関わらず、恐る恐る猫背で歩きます。その度に床を打つブーツの音は甲高く、お屋敷を目覚めさせる鐘となって響くのでした。


 音という振動。風の囁き。それに触れられた床や壁は、暖かな光の葉脈を浮かばせて、どこまでも広がっていきます。


 これがお屋敷の灯り。陽の光をたっぷりと吸い込んだライト・ラクリマと、大きな大理石に標本化した葉っぱを掛け合わせた錬成の芸術でした。まるで木漏れ日のような暖かさが、お屋敷の全体を包んでいきます。


 光る葉脈の壁に導かれるまま、フィオはダイニングキッチンにたどり着きました。テーブルの上にカンテラを乗せて、大きなかまどへと向かいます。


 平たいかまどの上には、精霊であるサラマンダーがたくさん寝そべっていました。それぞれ炭を枕にしたり、灰を毛布代わりに埋もれたりして、思い思いに休んでいます。


 フィオはこの子達を火種代わりに、薪を並べて火を熾しました。そこへ足の高い鍋置きを用意して、作り置きにしていた野菜スープの鍋を乗せます。


 温めている間に壁面から流れる水道で顔を洗い、眠気を弾き飛ばしました。セフィロトが濾過して汲み上げる水は清潔で冷たく、洗面台に沈めたレモングラスの香りも相まって気分がスッキリします。


 フィオはようやく目が覚めた気持ちでスープをよそい、硬くなったパンを沈めると、贅沢にチーズまで乗せてしまいました。自分が少食なのを解っているくせに、食欲の向くまま、あれこれと手を加えてしまうのは悪い習慣です。


 ゴロゴロに切ったニンジン、ジャガイモ、タマネギ。自然な甘さを引き立てる味付けは、塩とちょっぴり刺激的な白胡椒だけ。ハーブを束ねたブーケガルニが豊かな香り付けをして、パンの味わいがそれらをしっかり支えます。とろけたアウズンブラ豊かなる角なし牛のチーズなんて、コクを出す役割以上に、見た目として嬉しいものがありました。


 まるで飾り気のない素朴な一品ですが、フィオにはそれで充分でした。優しい香りに鼻をくすぐられていると食欲だけでなく、何だか気持ちまで弾んできます。


 久しぶりにルーフバルコニーで食べようかな、なんて珍しい気持ちで、ウキウキと彼女は石階段を上がっていきます。


 半月が浮かぶ夜の風は涼しく、穏やかで、ちょっぴり潮の匂いがしました。お屋敷を支えてくれているセフィロトは、崖を谷間とした河川の中に聳えていて、海が近いのです。


 もともとフィオが住んでいた小屋も、そんな谷間に建てられていました。しかし、長い月日は山の水を少しずつ呼び込み、このような形となっていったのです。


 滋養の水に育まれたセフィロトは、根付いた大地を島として盛り上げ、風の旅路にある種子をここに迎えました。ほんの少しだった緑はいつしか草原となり、森を経て、やがて精霊が宿るまでの生態へと変わっていきました。


 それがフィオの育てたセフィロト。数百年に渡って引きこもっている大きな揺り篭を、居心地良い環境として調えることが、彼女にとっての探究でした。


 そう、フィオにとって錬金術とは、自分が永久にストレスなく暮らしていくための知恵なのです。卑金属を貴金属に変えたり、あらゆる病気を治す霊薬など、穏やかな生活をするための一端でしかありません。それに、世界の理が云々といった大きな使命など、胃が痛くなるだけでした。


 小さくても、完璧と思える世界を創ってみせるというフィオの探究。なので、他所で知識の探究をする必要なんて無く、外に出るなどもっての他でした。もしもそんなことをしていたら、きっと今頃『お家に帰りたい……』と大きな世界の片隅で半べそかいていたに決まっています。


 ブランケットを敷いたベンチに座り、フーフーとスープを冷ましながら少しずつ口に運びます。ほっこりとした野菜と、スープの染みたパン、そして、すくうたびにトロリと絡むチーズの味。一匙をゆっくりと味わう平穏な時間が、フィオのささやかな幸せでした。


 しかし、幸福とはとても短い猶予のことを指すものです。フィオが何気なく向いたセフィロトの枝に、大きな熊が歩いていました。匂いにつられるまま鼻をヒクつかせ、足取りはまっすぐここを目指しています。


「……は、〝腹ペコ・ジャック〟……」


 ぽつりと呟いた名前には因縁めいた響きがありました。フィオがスープの器をちょっと遠ざけるのと同時に、ジャックは幹を滑り下り、手摺を跨いできます。


 大きくて丸っこい見た目と茶色の毛並み。ヨダレを垂らしながら、のそのそと近づいてくる目的はフィオが抱えるスープでした。


「……だ、ダメ……これ……私の……」


 そうは言っても、ジャックは聞く耳を持ってくれません。ピスピスと寄せた鼻は、ほとんどスープの水面で、身体も伸し掛かってきているぐらいでした。器を渡さなければ、フィオが潰されてしまうのは時間の問題です。


 ジャックは野生の獣ではありません。ましてや、ペットという訳でも。この腹減らしの熊は、フィオが創り出したセフィロトの成長に欠かせない〝ホムンクルス〟なのでした。


 造られた生物と言われれば、少しだけ不気味な印象は付き物。けれど、人類はより綺麗な花や甘い果実を求めて、色んな種に手を加えてきました。フィオのしていることは根幹でそれと変わらず、より良い生活を望んでの創造なのです。


 ジャックに見える小アルカナは、正位置でカップ聖杯の三。暗示は〝歓楽〟。つまり飲み食いが大好きだということです。


 そんなキャラで、ジャック騎士だなんて不釣り合いな呼ばれ方をされているのは、何もフィオが皮肉めいた意地悪をしている訳ではありません。単純に〝腹ペコジャック〟だからです。セフィロトによる影響で実りすぎた恵みを食べて貰うために創造したは良いものの、ジャックは少々働き者が過ぎるのでした。


「……ち、近いよぉ……ううっ……わかった……わかったからぁ……」


 弱々な創造主は日頃からぎみな眉をもっと下げて、器を献上しました。ジャックはそれを奪い取る形で手にすると、ランランとした目で木のスプーンを使い始めます。愉快にもこの熊は一口で飲み干してしまったりせず、食べるという楽しみを知っていました。


 ベンチに腰掛ける少女と熊。なんとも奇妙な光景ですが、フィオのセフィロトでは当たり前の世界観でした。神話や童話にほど近い幻想郷は、畑を耕す角兎アルミラージや、飲み干したワイングラスの中でうたた寝する妖精フェアリーなどが、まだまだいます。


 そんな森の主人はすっかり手持ち無沙汰になってしまい、ローブのポケットから実物の大アルカナのカードを取り出しました。直近の運勢を占い、日々の変化を捉えるための試し。それは気ままに暮らす彼女にとって、唯一ともいえる日課でした。


 占い方はワン・オラクル。テーブルの上で適当にシャッフルした後、横一列に広げた中から一枚だけ抜き出すという、とっても簡単な方法です。フィオは気楽にできるこの占いを一番好んでいました。


 引いたカードは〝太陽〟。正位置の暗示は〝快活な明るさ〟や〝願望の実現〟。絵柄として太陽が描かれているのは勿論、芽吹いた花々に囲まれた子供までいます。


 そこからハッと思い浮かんだのは、もう数百年と帰ってきていない師でした。二百年ばかりという期待が過ぎてしまったのは、もう遠い過去のことです。


 それでも帰ってきてくれるのなら、喜びのあまりに言葉もありません。もしかしたらと、ついソワソワしてしまうフィオは、自分の空腹だったことなどすっかり忘れてしまいました。


 すると、チリン、チリン、と呼び鈴を鳴らす音が階下から聴こえてきました。フィオの腰は思わず、勢いよく浮かび上がります。


 もしかしたら、お師匠様かもしれない。占いの成果をこんなにも嬉しく思ったのはいつ以来でしょう。運動が得意ではない足でパタパタと階段を下りて、扉に飛び付きます。ドキドキする思いに口許を緩ませながら深呼吸をすると、敬愛する師を迎えるために一息で開け放ちました。


「……お、お帰りなさい! お師匠様……!」


 それは普段のフィオからはありえない、実に溌剌としたものでした。いまいち普段からどこを見ているのかも判らない曖昧な眼差しも、今では星屑のようにキラキラと輝いています。


「――今晩は、錬金術師殿。初対面での熱烈な歓迎を喜ばしく思います」


 薄桃色に染まっていたフィオの顔色が、すっと青ざめました。目の前にいたのは、やや長めのブロンドを靡かせ、柔和に微笑む長身痩躯の美男子イケメンでした。とても、師とは似ても似つかない明らかな他人様です。


「お、お、お、お家間違えてますよ……!」


 絶対に、間違いではありません。錬金術師が住んでいることを知っていて、その人は訪れたのです。けれど、生来の人見知りと数百年ぶりの来客という非常事態が、神秘を詰め込んだフィオの頭に大混乱の渦を巻き起こしていました。


「驚かせてしまって申し訳ない。だけど、貴女を頼るようにと小さな錬金術師殿から紹介されていてね」


 盾代わりにしつつ、閉じようとしていたドアをピタリと止めます。小さな錬金術師という言葉に思い当たる人を、フィオは一人しか知りません。


「……そ……その人って……?」


 恐る恐るといった上目遣いに返された微笑みは、話の切っ掛けを掴んだという確信がありました。お客さんは一つ頷いて、出会った小さな錬金術師にことを口にします。


「ああ、とても愛らしくて聡明な方だったよ。訊いたお名前はフィオレーナ・フレッチャー──貴女は、お弟子さんであるフィオ・フレッチャー君だね?」


 師の知人だと解って、少しホッとしました。どうやら不審な人ではないようです。小鹿みたいに跳ねていた心臓も、今はだいぶ落ち着いてきました。


「改めまして、錬金術師殿。私はクィンリード・メイヤーズ。どうか気兼ねなく、クィンと呼んで欲しい。子爵として亡き叔父の領地を継いだのだが……少々、困り事があってね……。どうか我が家の問題に助力して頂きたい」


 貴族だと知って、胸の小鹿がまた跳び跳ねました。自分でも心配になるぐらい落ち着きがありません。


 緊張のあまり差し出された手をどうすれば良いのかも判らず、とりあえず伸ばしてはみるものの、それは宙をさ迷うばかりでした。まるで、野生の小動物が与えられたエサを警戒しているみたいな様子です。


「そうか! ありがたく思うよ! 錬金術師殿が救いの手を差し伸べてくれるなら、心強い!」


「ひゃあ……!?」


 向こうから手を握られ、フィオは目も真ん丸に顔を真っ赤に染めました。男性とはロクに話したことはおろか、手を握ったことすらありません。小鹿は元気いっぱいに跳ね回り、今にも胸という柵から飛び出してしまいそうでした。


(わぁああー!! ……ッ! ……? ……あ、あれ……?)


 きょとんと重ねた手の感覚をよく確かめてみると、自分の感触とそんなに変わらない気がします。男性のゴツゴツとしたイメージとあまりにもかけ離れていたので、つい何度も握り返してしまいました。


「……あ、あの……ひょっとして……じょ、女性の方……ですか……?」


 上目遣いに訊ねるフィオに、クィンは微笑みを返しました。確かによくよく顔を会わせてみると、長い睫や細面はあくまでも中性的といった感じで、男性だという確証にはなっていません。気付いてみれば、美男子は女性だったと解りました。


「うん、そうだよ。まぁ、このとおりの見た目だからね、気にしないでくれ。ところで……そろそろ離してくれるかな? あまり握り返されると、くすぐったくてね……」


「……ひゃっ……! ごごご、ごめんなさい……!」


 悲鳴のような声で謝って、パッと手を離します。初対面の、ましてや貴族である人物の手をニギニギするという失礼をてしまい、ますますしどろもどろになってしまいました。クィンが腰に備えているサーベルが、やたらと目について離れません。


「ふふっ、旅の労いだと思うさ。なんせ私のような無知では、ここまで来るのに大変な苦労をしたからね。崖を下れる道筋を見つけ、島へ渡る飛び石が浮かぶ日を待ち──唯一幸運だったのは、宝石を身に付けた可愛らしいネズミの案内人に出逢えたことかな?」


 それを聴いて、フィオはぴくりと顔を上げました。さっきまでの焦りとは違った様子で慌てふためくものですから、クィンもどうしたのかと小首を傾げています。


「……こ、硬貨とか……あげちゃったり……しました……?」


「ん? ああ、何やら目敏くポーチを見ていたのでね。きっと駄賃が欲しいのだろうと金貨を一枚──」


 言い終わる前に、フィオは扉を開け放ち、遠くを眺めて『……ふわわ……』と情けない声を溢しました。クィンからすれば何がどうしたのかといった感じですが、フィオからすれば大問題です。


 なんせ、クィンが出会ったネズミも、フィオが必要だと思って創ったホムンクルスだったからです。あの腹ペコ・ジャックと同じように。


 お屋敷の前に広がる踊り場に向かって、白、黒、茶色の斑模様が階段を昇って来ていました。それはまるで、進軍さながらの大行列で『チューチュー』と鳴きながら食べ物や酒瓶、装飾品を掲げています。


「わぁ、なんだいアレは?」


 さして驚いた様子でもなく、クィンは額に手をかざして楽しそうに眺めています。構築されたセフィロトの環境を知らない人にとって、ここはまさに不思議の国そのものでしょう。けれど、そこを築いた本人からすれば厄介な事態が起きていると解るのでした。


「……た、大変……! 〝ネズミの王国〟から商品を売りつけに来てます……!」


「ネズミの王国だって? ははっ! それはなんともメルヘンだねぇ!」


「……ほ、本当に大変なんですよぉ……! あ、あの子達……なんて言うか……その……と、とってもんです……! 」


 ネズミ達は錬金術に必要な鉱物や薬草を採取してきて貰うために創ったホムンクルスでしたが、それがどうした訳か王国を打ち建て、商売を始めてしまったのです。創造主であるはずのフィオは、あの子達から商品を買い、時に売りつけられているのでした。


 そんな彼らの前に、クィンという客が現れたのです。それも道案内だけで金貨を一枚もくれる太客が。がめついネズミ達が商売をしに来ない筈がありません。


 どうしたものかと迷っているうちに、彼女達の前で『チューチュー』と鳴く小さな行列が横並びになってしまいました。オラクルに映っているのは、ペンタクル硬貨の8。勤勉を象徴する小アルカナは、金銭に関してという意味で堂々と正位置になっています。


「チューチュチュー!」


「やぁ、これはこれは盛大な歓迎をどうもありがとう」


「あぁあ……き、来ちゃった……」


 顔を覆って参った様子のフィオをよそに、クィンは屈み込んでニコニコとネズミに話し掛けています。いっそ奇妙とまでいえる世界への順応もさることながら、彼女は動物であろうと真摯に対応する好人物でした。


「う~ん、これは何を買おうか迷ってしまうね。おススメはあるのかな?」


「か……買うんですか……? ……す、すごいですね……錬金術師でもビックリしちゃう人が多いのに……」


 むしろ、びっくりするのは当然です。宝石や金銀の装飾品を身に着けたネズミに商品を売りつけられれば、誰だって仰天します。世界の理を解く知識の中に、商売人のネズミというものは存在しないのですから。


「チュ? チュチュチュ!」


「そのワインが良いのかい? ではそれを貰おうかな」


 小さなネズミ達が一生懸命に支えていたワインを一本受け取ると、クィンはポーチから取り出した金貨を渡しました。それがネズミ達の想定していた値段よりも遥かに破格だったとは知る由もありません。フィオが『あ……!』と声を上げたのも虚しく、ネズミ達はいっそうに目の色を変えて詰め寄るのでした。


「「「チュー! チュチュチュ! チュチュ―!」」」


「ハハハ! 見てくれ錬金術師殿! すごい人気者になってしまったよ! 商品を買って貰えて嬉しいんだね!」


「た、たかられちゃってるんですよぉ……! うっ……でもこれって、私が好き勝手にさせちゃってたせいなのかなぁ……ううっ……ごめんなさい……ごめんなさいぃい……」


 勝手にネガティブになって俯くフィオに、繊細な刺繍を施したハンカチがネズミから差し出されました。『あ……ありがとう……』と受け取ったものの、どうやら商品のつもりだったらしく『チュー!』と怒られてしまいました。『ぴえっ……!』と情けない声を出してしまうような創造主相手にでも、ネズミ達は厳しい商売をしています。


 いよいよネズミ達は押し合いへし合い、どんどんと詰め寄ってきました。今や目の前の光景は忙しなく揺れる食べ物、お酒、装飾品、雑貨、宝石――さらには嫁入りだか婿入りだかをしようと花を掲げるネズミばかりとなっています。


「――ジャ……ジャック……! ジャックぅ……!」


 ハンカチの代金としてローブを奪われそうになりながら、フィオは涙目で懸命に叫びました。自分が創ったホムンクルスに助けを求めるなんて、初めてのことです。


 しかし、いくら情けなくてもそこは錬金術師。思わず熊にも縋ったという訳でもなく、アルカナの相互関係から良い効果がもたらされると咄嗟に導き出したのです。


 ジャックのカップは水の属性。ネズミ達のペンタクルは土の属性。協調性という面において、水は土に強く影響します。貪欲な歓楽が、きっと実り過ぎた勤勉を打ち負かしてバランスを保ってくれるはずです。大量の水が、時に大地の恵みを流して新たな芽吹きを起こすように。


 そんな祈りが通じたのか、あるいは美味しそうな匂いにつられて来ただけなのか、腹ペコの騎士はのそのそと外階段を下りてきました。綺麗に平らげたスープの器を抱えて。


「チュー!?」


 チョロイ錬金術師のお屋敷から、腹減らしの熊が現れるなんて流石に想定外だったのでしょう。ネズミ達は商品をほっぽり出して、引き波の様に逃げていきました。クィンも突然現れた熊にぎょっと目を丸くしましたが、フィオが微動だにしていないのを見て、驚き顔のまま立ち尽くします。


 ホムンクルス同士は争ったり、ましてや食べたりなんかしません。あくまでも彼らはセフィロトのバランスを保つために存在しているのです。けれど、大きな熊にたかられてしまっては堪ったものではないでしょう。なにせジャックに商売なんてルールは通用せず、お腹が減ったら強引に奪うというだけなのですから。


「……ジャ、ジャック……助けてくれてありがとう……わ、私の言うこと聴いてくれるなんて初め――」


 言い終わる前に空の器を突きつけられました。既にジャックの関心は、足元に散らばった大量の食品とお酒ばかりに移っています。ヨダレを垂らしながら嬉しそうに掻き集めている姿からして、決して主人であるフィオを助けに来た訳ではなさそうでした。


「き……綺麗に食べてくれて……あ、ありが、とう、ね……! ふぐぅっ……!」


 器の中に涙を落としながら、複雑な感謝を口にします。一方でクィンの視線は、地表の木に凭れ掛かって酒盛りを始めた熊と、何やら妙な事情を抱えた錬金術師とで交互に振りまわされていました。


「錬金術師殿は、とても愉快な所に住んでいるのだね!」


 買ったばかりのワインを奪われてしまったというのに、クィンは楽しそうに目を輝かせています。そんな調子に、フィオは返す言葉もありませんでした。


 自分のセフィロトが誰かに褒められている。それを嬉しく思いながらも、空になっている器の中で笑い泣きの雫が弾けていました。

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