迷子の雛は羽ばたいて

うたた寝

第1話


 顧客との打ち合わせが終わったので、彼は会社に帰る前に一服しようと外の自販機で缶コーヒーを買って飲んでいた。この後会社に帰ってまた仕事か、だるいな……、と彼は目の前でタクシーの運転席で豪快に寝てサボっていそうな(休憩時間だったら申し訳ない)タクシー運転手を羨ましそうに見つめながらコーヒーを飲んでいると、

「ん?」

 コーヒーを飲んでいる彼の横に小さな女の子が寄って来た。何だ? どうした? と思ったが目線は彼の方を向いていない。気になって女の子の視線を追ってみるとそこには地図があった。

 スマホやブラウザの地図などが主流になっているこの時代で、この旧式の地図を見る人なんて居るのかと思っていたが居るらしい。地図に寄り掛かっていたので、女の子の邪魔にならないように横にずれ、地図の全体が見えるようにすると、

「ふぇ……っ」

 嗚咽が聞こえたので横をチラ見してみると、女の子が泣き出していた。え? 何? と思ったが、どうやら地図を見てもよく分からなかったらしい。顔をしわくちゃにして泣いている。

 別に彼が泣かしたわけでも何でもないのだが、こうすぐそばで泣かれるとまるで彼が泣かしたかのように周りには映るだろう。ひそひそ話をしている婦人たちはともかく、スマホを向けようとしている若者がチラホラ居る。

 お前らこんな平日から学校はどうした、というクレームはあるが、このままではSNSで悪者にされそうなのでそっと距離を取ろうとすると、その気配に気付いたのか、女の子はじっとこちらを見つめてきた。何だその顔は? どうしろって言うんだ?

 泣き顔で見つめられて数秒。彼は根負けし、

「どしたの?」

 目線を合わせて聞いてみると、ひっくひっく、と嗚咽しながら何かを一生懸命話し掛けてくるが申し訳ない。何を言っているのかさっぱり分からない。

 弱ったな……、と彼が思っていると、女の子が力いっぱい握り締めてぐしゃぐしゃになっている何かの紙が気になった。

「ちょっとそれ、見せてもらってもいい?」

 聞くと女の子はグーで握り締めたそれを突き出してくる。いや渡し方よ、と思わんでもなかったが、まぁ泣いているので大目に見ることに。

 手を解いて紙を受け取ってみると、その紙には『最終オーディションのお知らせ』と書いてある。どうやら何かのオーディションを受けるらしい。どれくらい選考があったのかは知らないが、最終選考まで残っているくらいなのだからきっと凄い子なのだろう。

 紙には最寄り駅からオーディション会場への地図が載っている。見てすぐ分かった。いやこれ反対方向じゃん、と。ちゃんと何口から出なさい、という指示も書いてあるのだが、電車に乗り慣れてないのか、出てくる出口を間違えたらしい。で、迷子になっていた、というところだろうか。

 彼は腕時計を見て時間を確認する。紙にはオーディションの時間も書いてある。道案内してあげてもいいはいいが、歩いて行ったら開始時間に間に合わなそうである。問い合わせ先の電話番号に事情でも説明しようかと彼は思ったが、

「………………」

 これ見よがしに目の前で停まっているタクシーが目に入る。乗せろってか? 乗せろってか? 距離は大したことないが、タクシー代って高いんだぞ? それを見知らぬ女の子のために払えってか? おいおいおい、俺はそんなにお人好しじゃないぞ。

 の、ハズなのだが、気付いたらタクシーの窓をノックしているのだから、人生とは不思議なものである。

 これが一次、二次の選考なら道に迷って受けられなくてもまだ諦めがつくかもしれないが、最終選考まで行って道に迷って受けられません、は可哀そう過ぎる。受けてダメだったならいざ知らず、受けられなかったのであれば一生後悔しそうなものである。

 ノックの音で目を覚ました運転手はまだ寝ぼけているようで目を擦っている。起きろ、客だぞ、仕事しろ、と彼は運転手を起こすように再度ノックする。そこでようやく運転手も外の様子に気付いたらしく手で謝ってから後ろのドアを開ける。

 彼は女の子の背中を押してタクシーの中へ押し込むと、運転手の方に女の子から貰った紙を差し込む。

「ここまでこの子をお願いします」

 紙を受け取って運転手が行き先を確認している間に彼は財布を開く。お札が一万円札1枚と千円札が2枚しかない。二千円で足りるような気はするが、具体的な距離が分からないので断言ができない。微妙な金額を渡して無賃乗車になってしまうと面倒だなと思い、絶対一万も掛からないよな、とは思い葛藤も多少なりあったが、最終選考まで通過したご祝儀だと思うことにした。

「着いたらこれを運転手さんに渡しな。お釣りで何かご褒美に好きな物でも買うといい」

「えっ? あっ? でもっ」

 中々受け取ろうとしない女の子。ええい、時間が無いんだろ、無駄な抵抗をするな、と彼は席にペッとお金を置くと、そのままドアを閉める。

 運転手が『あれ? 一緒に乗らないの?』という顔をしているので、行け行け、というように手で合図をする彼。腑に落ちなそうな顔はしていた運転手だが、運賃が貰えれば問題無いというように走り出した。

 女の子が後部座席の窓からこちらを振り返り、何度も頭を下げてきた。それに彼は手だけで応える。

 たまには人助けも悪くないか、そんな風に思いながら、さて、給料日まで大変だ、と無くなった一万円をコッソリ嘆いていた。



 それからしばらく時が流れ、彼は相変わらず働いていた。働きたくなどないが、働かないとお金が貰えないのだから仕方がない。働かなきゃいけないのは仕方がないとしても、役職も上がり、部下も増え、責任も増えたが給料は上がらないというこの地獄絵図だけは何とかしてほしいものだ。誰かこの会社を潰してくれ。

「先輩、どうしたんですか?」

 彼が自分のデスクでサボり、もとい、休憩していると、後輩が話し掛けてきた。

「こんな会社早く潰れないかなって」

「すげーこと会社の中で言いますね……」

 飲みの席ならいざ知らず、近くに上司が居る席でよく言うものである。まして、下手すれば役員にも聞こえるかもしれないのに。後輩は憧れるような、呆れるような、複雑な心境を抱くが、

「そういうお前だって転職雑誌手に持ってるじゃねーか」

 げっ! と後輩は慌てる。彼がそういう発言をするのは日常茶飯事なので、今更上司も役員も動揺しないが、後輩がこんなことをやり出すのは一大事である。何だ? 何だ? どうゆうことだ? どうゆうことだ? と上司、役員、部下、後輩と、フロアの各所から人が集まってきて揉みくちゃにされている。

「ちっ、違いますよっ!! これはぁっ」



「アイドル?」

 ようやく人だかりから解放された後輩はぐったりしながら手に持っていた転職雑誌の説明を始めた。

「そうです。表紙が好きなアイドルだったので、つい手に取っちゃったんですよ」

「ほー、上手い言い訳を考えたもんだ」

「だから違いますってばぁっ!!」

「分かった分かった。そういうことにしといてやるから」

「だ~か~らぁっ!!」

 後輩が訴えかけてくるのを『はいはい』と聞き流し、

「ってか、アイドル好きなんだっけ?」

 いい歳こいて、なんて偏見を言うつもり彼は無いが、この後輩がアイドル好き、というのはちょっと意外である。

「アイドルが好き、と言いますか、このグループが好き、と言いますか」

「ほう」

 アイドルが好き、ということを公言するのは恥ずかしいお年頃なのか、本当にそのグループだけ好きなのかは分からないが、とりあえず好きなアイドルグループらしい。

「ライブとか行ったりするの?」

「行ったこと無いんですよー。一回くらい行ってみたいんですけどね。全然チケットが取れないらしいですよ?」

「他人事だな?」

「それ聞いて諦めましたから」

「ファンクラブとか入れば取れるんじゃねーの?」

「それはもう前提条件みたいです。ファンクラブ入ってても全然取れないとかで、そのせいで高額で転売されてたりもするみたいですよ?」

「買えばいいじゃん」

「嫌ですよ、高い。正規価格の何倍だと思ってるんですか」

 何倍なのだろうか? 結構足元を見ている金額、というのはよく聞くが。まぁ、理由はともかく、転売されたチケットを買わない、というのはいい心がけである。

「まぁ、でも、今でこそ超人気グループみたいですけど、下積み時代結構長かったみたいですよ? 最近よーやく芽が出てきたって感じらしく」

「へー。何きっかけで芽が出たわけ?」

「メンバーの一人が出演していたドラマが大ヒットしましてね。主題歌を歌ってたことも相まってそこから一気に人気に火が付いたみたいです。かくいう僕もその一人で」

「ふーん」

 テレビもネットもほとんど見ない彼にとっては正直ドラマもアイドルも全然分からないので適当に返事をしたのだが、

「Blu-rayボックス持っているので今度貸しますね?」

 おい。俺は今明らかに興味無い反応したよな? 何でBlu-rayボックスを貸すって話になるんだ? 無視か? 無視なのか? というか、

「このストリーミング全盛期の時代にBlu-rayボックス買ったわけ?」

「特典が豪華だったんですもん。ブックレットもコメンタリーも入ってますし」

 にわかかと思ったら、結構しっかりしたファンっぽい。いや、なまじ今までそういうものにハマっていなかった分、激ハマりしている、というところだろうか。

 自分の好きな物を普及させたい気持ちも自分の好きな物について語れる仲間を増やしたいのも分かるが、押し付けられる方としては溜まったものではない。何とか回避しようと彼は、

「Blu-ray再生させる機械無いからな~(これはホント)」

「先輩、パソコン持ってますよね?」

「残念。ディスク関連は入れられないタイプのノートパソコンでね~(これもホント)」

「大丈夫です。外付けできますから」

「いや、あの、入力端子一個も付いてないからさ~(これはウソ)」

「じゃあBlu-ray再生できるノートパソコン持ってるんで今度一緒に持ってきますね」

「………………」

 逃げ場を失った彼。これこいつマジで今度持ってくるな。嫌だなぁ~。絶対日ごとにどこまで観た? とか感想とか求められるんだろうなぁ~、と彼が今からでも何とか回避できないかと色々考えていると、何を血迷ったのか後輩が先ほどの、アイドルが表紙の転職雑誌を渡してきた。え? 転職しろと?

「これ、予備用に2冊持ってきたんですけど、先輩にも1冊あげますね」

 要らねー、と思ったのだが、表紙のアイドルはともかく、転職雑誌自体には興味あるな、と思い直し、ありがたく貰うことにした。



 仕事である。嫌である。でも働かないといけないのである。不憫である。

 人使いの荒い会社の指示により、彼は会社がある方とは反対側の駅の出口にやってきていた。取引先の会社がこっちにあるのである。もっと会社に近い所と取引しろよ、と思わんでもない。

 打ち合わせも終わったので駅に戻って来ると、駅周辺ではティッシュやチラシなどを配っている人が居る。いつもの光景なのであまり気にしない。ティッシュは貰いたいところではあるが、以前ティッシュを受け取ろうとしたらそのまま手首を掴まれホールド。小一時間ほど怪しい勧誘を受けたことがあるので、それに懲りてもうティッシュだろうと何だろうと受け取らないことにした。

 色々とこちらに突き出してくる人たちに会釈を返して避けながら進んでいく。向こうも受け取り拒否に慣れているらしく、受け取られなくてもさほど気にせず次の人へと差し出していく。

「あのっ……」

 ティッシュ配りか何かだろうか? 女性に話し掛けられたが彼は会釈してスルーする。このように声を掛けてくる相手も居るがこれは罠だ。立ち止まった瞬間、手首を掴んでくるに違いない。彼は歩みを止めずに歩き去ろうとしたのだが、

「あのっ、あのっ」

 追っかけてくる。何だこの人? なんてガッツだ。受け取ってくれない相手を追いかけるより、受け取ってくれる人に当たるまで配った方が効率いいと思うのだが。とはいえ、ある程度持ち場というのは決まっているだろう。ある程度離れてしまえば追ってもこまい。と、彼は無視してそのままスタスタ歩いていく。

「あのぉ~……っ!!」

 何とも情けない声が後ろから聞こえてくる。流石に気になって振り返って見てみると彼女は今にも泣き出しそうな顔をしていた。いや、ティッシュ受け取ってもらえないくらいで泣くなよ、と彼は思ったが、振り返って固まった。

 この、顔をくしゃくしゃにする泣き顔。彼には覚えがある。大分大人っぽい顔つきにはなっているが、面影も強く残っている。

「あの時の……?」

 彼のその言葉に、彼女は嬉しそうに頷いた。



 立ち話もなんですね、ということで、駅内のカフェに寄ることに。え? 何? 仕事? 知らん知らん。

 コーヒー代くらい奢ろうと思ったのだが、あの時のタクシー代のお礼ということなのか、率先して彼女にレジへ行かれ、先に会計を済まされてしまった。それは素直に感謝するが何故パンが二個ほど付いているランチセットを注文されたのか。お昼もう食べたのですが……、とは思いつつ、残すのもなんなので早めの夕食と割り切って食べることに。一方の彼女はコーヒーが飲めないのか、こっそり頼んだカフェオレを飲みながら、

「あれから時間を見つけてはここに来てたんですけど、全然見つからないんですもん」

 どうやら彼女、あの後何度もお礼を言おうとこの辺りに出没しては彼のことを探していたらしい。しかし残念ながらそれは探し方が悪い。何せ、あの時も今日もたまたま打ち合わせでこちらに来ているだけで、普段は駅の反対側の会社で働いているのだ。見つかるハズもない。

 しかしまぁ大人っぽくなったものである。あの時道に迷って泣いていたような子がもうすっかりと大人の女性になっている。とはいえ、昔の面影もあるからか、そんなに久しぶりに会ったような気もしない。大袈裟に言えばつい最近会ったような気さえする。

「な、何ですか……?」

 ジロジロ見られて居心地が悪かったらしい。彼女は気恥ずかしそうに聞いてくる。

「いや、大人っぽくなったなーっと思って」

「……、えへへ……」

 嬉しそうに照れている。訂正。こういう反応はまだ子供っぽい。

「そういえば、あの後オーディションどうなったの?」

「えっ?」

 その質問は意外でした、というように目を丸くしているが、そんな意外な質問をしただろうか? 君をオーディションに行かせるためにタクシーに乗せたのだが? ああ、それとも聞いてはいけない質問だったか?

「あぁ……、えぇっとぉ……」

 どう説明したものか、みたいな顔をしている。別にそんな答えづらいなら言わなくてもいいのだが、と思っていると、彼女のスマホが鳴った。が、彼女は即座にピッ! と切った。え? いいのか? と彼が思っていると再度すぐスマホが鳴った。彼女は画面を見ながら躊躇しているようだったので、

「出て大丈夫だよ?」

「すみません……、ちょっと出てきます……」

 不承不承という感じで彼女は店の外に出て行く。2回も続けて掛けてくる、ということは急ぎの用事っぽいな、と思いつつ彼がパンを食べていると、ちょうど食べ終わった頃に彼女がしょんぼりとした顔で帰ってきた。

「すみません……、ちょっと行かなくてはいけなくなりまして……」

 まぁ、そんな気はした。家族から、もしくは仕事だろうか? ……仕事? ああ、そういえば仕事中だったな、と思い出した彼は自分も一緒に店を出ようと席を立ち上がろうとすると、

「あの、せめてこれだけ……」

 彼女がおずおずとチケットを入れるような封筒を差し出してくる。何だ? あの時のタクシー代か? ここのコーヒー代でチャラでもいいんだぞ? まぁ、くれるなら貰うが、と思いつつ封筒を受け取り開けてみると、中身はちゃんと封筒通り、チケットが入っていた。

 何か見覚えのあるチケットだなぁ、と考えていると、ふと思い出した。

 これ、後輩が手に入らない、と嘆いていたアイドルのライブのチケットではなかっただろうか? 渡したら喜ぶかな、と彼が考えていることを察したのかは定かではないが、彼女は去り際、釘を刺すように、

「絶対来てくださいね?」

 ……『来てくださいね?』?

 何か言い方が気になったが、その真意を聞く前に彼女は手を振りながら店を出て行ってしまう。大分急ぎの用件だったらしい。一回通話を切っていたし、怒られないといいが、と彼は彼女を気にしつつ、せっかく貰ったチケットが折れないよう、何か挟む物がないかとバッグの中を漁っていると、ちょうど先ほど後輩から貰った転職雑誌があったのでこれに挟めばいいや、と雑誌を取り出した瞬間、彼は固まった。そして理解した。

 彼女と再会した時、彼はそれほど懐かしいと感じなかった。最近会ったような気さえした。以前会ったことがあるからその面影を感じているだけだと思った。それもあるのだろう。だが、もっと最近、ついさっき、彼は彼女の顔を見たのだ。

 後輩から貰った転職雑誌の表紙。そこには見覚えのある、あどけなささえまだ残っていたハズの顔が、見覚えの無い、大人びたクールな表情でこちらを見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

迷子の雛は羽ばたいて うたた寝 @utatanenap

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ