ガラスの扉と煙管の煙

第1話

その、小さな古本屋は、通学路にあった。


誰も自分のことを知らない高校生活はある意味快適だった。

新しい人間関係、新しい環境。

当時のオレは新しいものや知らないものに対して恐れを知らない若造だった。

そんな新しいものに囲まれた生活の中で、オレはある日、毎日歩いている通学路の片隅に小さな古本屋があることに気づいた。

それは、いくつかの店舗が一つの建物に長屋のように入っている中の一軒だった。

田舎育ちだったのもあるが、オレが記憶する限りそれが初めての古書店だ。

古いけれど、オレにとっては新しいもの。

オレはその新しいものへの扉をそっと開いた。

細長い通路の両脇に本棚があり、そこに本が並んでいる。

奥に進むと旧式のレジスターがあるが、店員の姿はなかった。

奥の方にも細い通路と本棚が続いている。

オレは本棚から本を取り出し、その場で読み始めた。

お金が惜しいとか、手持ちがないとかそういうことではない。

当時のオレは、少しばかり内気で、店員をわざわざ呼びつけて会計をする、ということができなかったのだ。

かと言って長時間そこに居続けることも出来ず、数ページを読んでオレは店を出た。


それから、時々オレはその店に行った。

そうそう代わり映えのしない本屋の棚を、どこか懐かしく眺めていた。

目に映る光景と、もう一つ、オレの中のノスタルジーを掻き立てたものがある。

古い本独特の香りだ。

オレの家には古い本がたくさんあった。

父が本好きであり、若い時分に集めた本が並べられていた。

それを読んでいたことを思い出す。

並んでいる本の年代的には、その時に読んでいたものと大差ないように思う。

古い本の匂い。

それは、オレにとっては家の匂いとイコールなのかもしれないと思った。


「おーや、見ない顔だねぇ」

ある日、オレがいつものようにその店の扉を開けると、奥の方からつやっぽい女の声がした。

声の方へ目を向けると、レジの横に髪の長い女が一人座っている。

店員、というにはあまりにもそぐわなかった。

洗いざらしの髪にわざと着くずしたような着物、濃いめの化粧、そして、煙管。

女はふぅっと長く細く煙を吐いた。

オレは反射的に本棚の隙間に張られている紙に目をやった。

禁煙、と書かれ、ご丁寧にもその脇に赤い丸が添えられている。

いちいち書かれなくても、これだけの紙が積まれているのだから、火の気があってはならないというのは理屈としても合っている。

「何をお求めだい?」

言葉選びもどこか古めかしい。

そこだけはなんだかこの店に会っているような気がして笑えた。

「いえ、特には」

オレがそう答えると、目を細めて唇の端を上げた。

「なあんだ。ひやかしかい」

くっくっと喉の奥で笑い、もうひと吸いして煙を吐いた。

その様子に、なんだか馬鹿にされたような気持にもなり、どこか申し訳ないような気持にもなった。

「今度、今度は買います。その、今日は手持ちがなくて、」

嘘ではないが、そもそもお金が無いのに入るな、と、言われたらどうしようと思った。

が、予想に反して女は頬杖をついて柔和に微笑んだ。

「待ってる。約束だよ」

そう言って白い小指を立てている。

オレはそれに吸い寄せられるように奥へ足を運び、自分の野太い小指をその白魚の指に絡めた。

なめらかな肌の感触。

ほんのりと温かく、どこか冷たい。

女は一度絡めた指をどこか名残惜しそうに離した。

そして、その小指に赤い唇を寄せた。

流し目で微笑む。

それだけで、心臓が跳ねあがる思いがした。


それから数日後、オレはもらったばかりの小遣いを持って店に走った。

だが、そこにいたのは知らない年配の男性だった。

メガネをかけて小太りで、天頂の艶もよろしい彼が、あの日の彼女であるわけもなかった。

かといって、彼女のことを聞くわけにもいかず、オレの足は店から遠のいてしまった。


あれから、どれほどの時が流れたことだろう。

オレは高校を卒業するとともにその街を離れ、世の中の生きづらさを存分に味わった。

年を取るごとに新しい何かを楽しむという気持ちはただの恐怖に代わり、瞬く間に変わっていく世の中にただただ置き去りにされていく。

人の中にあればあるほど孤独を感じ、かといって軋轢を恐れるあまり、愛想笑いだけがうまくなった。

笑えば笑うほど空っぽになっていく自分に愛想が尽きて、ほとんど衝動的にこの街へ舞い戻った。

だからといって何が在るわけでもない。

ここにはあの当時の面影を残すものなどほとんど残っていない。

当時通った高校ですら、校舎を立て替えていて、元の姿ではなかった。


オレの足は無意識にあの本屋のあった場所へと向かっていた。

あの建物自体、残っていないかもしれないと思いながら。

あれは小さな店だった。

とうてい残って居ようもあるまいと思い、それでも足を進める。

そんなオレの目に、おかしな光景が飛び込んできた。

あの店の入っていた建物はすでに存在しなかった。

そこは駐車場へと姿を変えていた。

だが、その駐車場の、おそらくはその店のあった場所に、あのガラスの扉が立っている。

オレはその扉に引き寄せられるように進み、開けた。

「おーや、見ない顔だねぇ」

奥の方から女の声がする。

あの時の、そのままの姿で、女がそこにたたずんでいた。

「それで?何をお求めだい?」

女がそう言って、白い小指を立てた。

オレの、滲んだ視界の中で、その指がゆらゆらと揺れる。

オレは、その指に手を伸ばし、両手で包み込んだ。

オレの手にはしわが寄り、染みが浮き、あの当時の張りも艶もない。

その手で、それでもしっかり、その手を包んだ。

「あなたを」

そう言うと、女はオレの目をまっすぐに見つめた。

彼女の目の黒曜石に、白髪の混じったくたびれた初老の男が映る。

「はは、」

オレの口から笑いがこぼれた。

過ぎ去った時間はあまりにも明確で残酷だ。

その中に在る何もかもが虚しいもののように感じていた。

けれど、彼女は変わらない。

変わらない何かを思い出させてくれる。

それは、あの日の約束と共に、オレがあの日に残してきたもの。

変わっていくものの中で見つけた変わらないものは、仄かな希望の光を感じさせる。

何もかも虚しくなったのなら、そこからやり直せばいい。

何度でも。

何度でも。

「一緒に、来てくれますか?」

オレは改めてそう言った。

彼女は、少女のように微笑んで頷いた。

まるでプロポーズのようだと、オレは思った。


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ガラスの扉と煙管の煙 @reimitsuki

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