晩夏、古本屋
原田ツユスケ
晩夏、古本屋
インクと紙の匂いで満たされた店内は、外の猛暑と喧騒を忘れさせてくれるほどひんやりと涼しい。
今日もカウンターに店番の姿が無いことを確認して、本棚の上から下まで好き勝手に気になった本を漁る。長年改装もしてない寂れた店だ。ひっきりなしに客が押し寄せるわけではないどころか、ほとんど顔見知りしか出入りしないようなローカルな場所なので、店番はベルが鳴るまで普段は奥から出てこない。
誰の目も気にすることはない、僕だけの空間なのだ!
「こんにちは」
そんな僕の妄想は背後からの声にあえなく打ち砕かれた。
振り向くとそこに立っていたのは、端麗な顔をこちらに向けて優しく微笑む女性。彼女は数年前からこの店に通い詰めている常連客で、何度も顔を合わせている内に親しく話すようになった。
「あ……こんにちは」
「お久しぶりだね。忙しかった?」
「まぁ、仕事がちょっと。とは言っても先週来たばっかりですよ」
「あれ、そうだっけ」
二人の間はいつも本に関する話題ばかりで、お互いが普段何をしているのかは全く知らない。名前も知らない。年齢は、彼女の方が三つくらい上だと思って話している。
「そういえば、また良い本見つけたんだよ」
「お、今回はどれですか」
彼女は僕が来ない間に沢山の本を読んでいて、店で会うたびに数冊紹介してくれる。好みも大方把握されているので、最近のおすすめはかなり的確になってきた。
脇に抱えた本の中から一冊選んで開き、わざわざ隣に来てさわりを読ませてくれる。
彼女の華奢な腕と肩が僕に触れ、神経が自分の右腕に集中するのを感じる。どんどん体温も上がっていくが、店の冷房が効いていて助かった。あらすじを解説してくれる彼女の声が自分の心臓の音でかき消されそうになるのを必至に抑え、表情だけは平静を保つ。
我ながら過敏になりすぎだ。
「どう? 気に入った?」
「とても面白そうでした。読んでみますね」
よかった、と言って今度は無邪気に微笑んだ。彼女は笑顔が似合う。
それからしばらくして、彼女が抱えていた全ての本の紹介が終わった。ジャンルこそバラバラだが、どの物語も最初の数文でそれぞれ惹きつけられる魅力があった。彼女の腕の中にこの店がすっぽり収まっているようだ。
再び一人で本棚と向き合う時間が始まる。古本屋で二人熱心に本を漁る男女を横目に、梯子を動かす鈍い音と紙の擦れる乾いた音が、蝉の鳴き声に呑まれていく。
気付かぬ内に鳴く蝉が
「もうこんな時間だけど」
「あっ。本当だ、帰ります」
「私が語りすぎちゃった。ごめんね! またね」
「いえいえ。色々参考になりました。じゃあ、また」
カウンターのベルを鳴らして、選んだ数冊の本を置く。奥から出てきた店番が「いつもありがとう」と言ってゆっくりと会計する。
僕も彼女に今日も楽しかったです、くらい言えればよかった。次来た時まで覚えておこう。
涼しい店から一歩外に出ると、蒸し暑くて太陽の照りつける日本の夏という現実に引き戻される。額に汗が滲んでいくのを感じながら家路を急ぐ。
彼女がこの道で亡くなったのは去年の初秋だった。
もうじき今年の夏も終わる。
晩夏、古本屋 原田ツユスケ @harada_tsuyusuke
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