第十六集:雷鳴

 馬でろう黎安れいあんまでの道のりを駆けている途中、突然、嫌な予感がした悠青ゆうせい

 桂甜けいてんと繋がり始めたのは思考だけではなく、感覚も共有しているのかもしれない。

「師匠、一旦、空に逃げましょう」

「……承知した」

 馬を金剛領域の中に隠し、桂甜けいてんの木人形を壊すと、二人は杖を羽衣に変えて陽炎かげろうの術をかけてから空へと飛びあがった。

 二人の行動を目にした璆琳きゅうりん瑾瑜きんゆは目を見合わせると、林の中の木に止まった。

 その数分後、眼下を瓏国の兵が通った。

「あれは?」

「皇宮から派遣されて来た、わたしを護衛するための兵だと思います。ただ、その中の一人に見覚えがあります」

「なんだ、知り合いを送ってきてくれたということか?」

「いえ。あれは恒青こうせいの配下です」

 杏憂きょうゆう悠青ゆうせいの変わらない表情に、少しだけ、哀しくなった。

 以前の悠青ゆうせいならば、弟を疑いたくない気持ちと、それでも疑ってしまう罪悪感で苦しんでいるはずだからだ。

 確実に、桂甜けいてんとの精神的な融合が深まっているのだろう。

「……君に父上のご遺体を見られたら困る理由でもあるのだろうな」

「おそらくは。だから、きっとわたしを自邸に軟禁するつもりで彼らを派遣したのでしょう。何が起きたのか、正確には知られないために」

 限りなく冷静。

 動揺すら見られない。

 父親を失った悲しみに浸る感傷的な同情心すら、もう悠青ゆうせいの中にはないのかもしれない。

「急がなくてはならないな」

「はい。でも、馬以上の速さで戻れば怪しまれます」

「権力が絡むと人間はなんとも疑り深くなるものだ。仕方がないな」

「最速の馬でも、十五日はかかる距離です」

「……そうか、星王殿下からの早馬がすでに十五日かけて来ていることを考えると……」

「父上を殺害するために使用したであろう毒物などの証拠は、すでに破棄されている可能性があります」

 杏憂きょうゆうは舌打ちしたい衝動をこらえ、溜息をついた。

「葬儀は?」

「すでにいろいろと儀式が行われて始めているでしょうが、陵墓への納棺は崩御してからおよそ一月半後です。今帰れば、父上の遺体の検死は可能です」

 悠青ゆうせい鳳琅閣ほうろうかくで薬術師としての修業を積んできた。

 それでも、身内の身体に刃を入れるのは、躊躇があってもいいと杏憂きょうゆうは思っていたが、もう、それすらも思考には入っていないのだろう。

「急ごう」

「はい! 璆琳きゅうりん瑾瑜きんゆ、行くぞ!」

 二人は兵たちがはるか遠くへと走り去ったのを確認すると、陽炎の術を解きながら地上へ降り立ち、再び金剛領域から馬を出して乗ると駆けだした。

 時間がない。

 こうしている間にも、いくら寝台の下に敷いた氷で冷やされているとはいえ、皇帝の身体は腐敗していく。

「太医は検視するのか?」

「皇宮で起こったことなので、央廠おうしょうが検視に立ち会っているかもしれませんが……。恒青こうせいの邪魔が入れば、検死まではしていないと思われます」

 湿った風が袖の中を通り抜けていく。

 また、雨が降るのかもしれない。

「吐瀉物など簡単に用意できるからな。それに、窒息でも証拠を残さずに殺すことは可能だ。枕のような柔らかなもので口と鼻を塞ぐだけでいい。泥酔していた、または泥酔のような状態になる毒物を使用されていたのなら、簡単だったろう」

「皇太子という身分ならば、皇帝の看病のために側にいることも可能ですからね」

 耳のそばを、枝が触れ合う音が通り過ぎていく。

「枕で窒息させた後、あらかじめ吐かせておいた吐瀉物を口につめ、慌てているふりをしながら太医を呼ぶよう、叫ぶだけでいい」

「でも、なぜ父上を? 皇太子で、他に争うような兄弟もいないのだから、次期皇帝になることは確実なのに……」

 少しだけ、視界が戻ってきたように感じた。

 馬に触れると、その温かさを感じる。

「……露見したのかもな。我らが行おうとしていることが」

「そんな! でも、どうやって……」

 指先が熱を持つ。

 それはもう、悠青ゆうせいのものではなかった。

「十中八九、あの闇の魔法使いだろう。君を誘拐し、のろいをかけた」

「……あの手紙の後も、恒青こうせいはずっと繋がっていたということですね」

 怒りすらわかない。

 あるのはただ、使命にも似た殺意だけ。

「おそらくは。……心配なのはそれだけではない」

「なんですか?」

「親殺しは大罪だ。魂魄が著しく穢れ、理由によっては二度と人間に転生することは出来ない」

「じゃ、じゃぁ、なんで……」

恒青こうせいは皇后陛下も殺す気だ」

「え! ど、どうして……」

 手綱を握る手に力が入る。

「私の専門ではないので儀式の内容まではわからないが、西洋諸国の魔法使いは〈悪魔〉を作り出すことが出来るらしい。それに必要なのは、両親を殺した穢れた魂魄を持つ人間だ」

「あ、悪魔……?」

「中原でいう所の、虚衣きょいのようなものだ。それよりももっと大きな力を持っているがな」

「そんな……」

 わずかに残る親愛しんあいの情が揺れた。

悠青ゆうせい、黎安に着いたら真っ先に瀏亮りゅうりょう妃を保護し、董侯府へ行け」

「わかっています」

「いや、君はまだ何もわかっていない。悪魔というのは、後天的になれる種族の中では唯一、煌仙子こうせんしに対抗できる力を持っているんだぞ。恒青こうせいは君が煌仙子こうせんしだと知っているということだ」

 最後に残っていた心の何かが、音を立てて割れた。

「わたしが血を流すのを見たはずなのに!」

「他にも何か試すようなものを使っていたのだろう。魔法使いが入れ知恵したに違いない。とにかく、瀏亮りゅうりょう妃を保護した後は、皇后陛下を護りに行くんだ。私も同行する」

 杏憂きょうゆうの言葉は理解できたが、なぜかその声は遠く、くぐもって響いた。


 可能な限り夜中も走り続けた二人と二羽は、十三日で黎安に到着することが出来た。

瀏亮りゅうりょう!」

 悠青ゆうせいはそのまま自邸へと駆けた。

 すると、皇宮から来たと思しき馬車が止まっていた。

「ま、まさか……」

 恒青こうせいに先を越されたのか。

 悠青ゆうせいは「瀏亮りゅうりょう!」と名を呼びながら靴を脱ぐのも忘れて自邸の中を走った。

 しかし、誰もいない。

 焦り始めたその時、「悠青ゆうせい様!」と、一番聞きたかった声が聞こえた。

 急いで声の方へと駆け寄り、部屋へ入った。

「おかえり、悠青ゆうせい

「お久しぶりですね」

「は、母上⁉ 大伯父上も!」

 なんと、瀏亮りゅうりょうの側にいたのは、賢妃と大伯父の凛津りんしんだった。

恒青こうせいが動いたわ。ここは危ないから、瀏亮りゅうりょうを連れ出そうとしたの。そうしたら……」

悠青ゆうせい様が私の無事を確認するまではここにいます、と、我儘わがままを言ったのです。だって、悠青ゆうせい様は誰かから聞くよりも、ご自身で私を……」

 思わず、抱きしめていた。

 強く、強く。

「大丈夫ですよ。邸の者たちは全員、江湖へ逃がしました。私は賢妃様と凛津りんしん様と共に父の元へ行きます。安心してください。私は悠青ゆうせい様の足を止めるような女ではありませんから」

「ありがとう、瀏亮りゅうりょう。君のその勇敢さが、今のわたしには眩しいよ」

「あら、いいんですよ。悠青ゆうせい様がどんな暗闇を進もうとも、私が必ず松明をもって迎えに行きます」

 胸に、あたたかなひかりが揺らめき始めた。

「……愛してる。心から」

「私もです。愛しています、悠青ゆうせい様」

 身体を離すと、瀏亮りゅうりょうは鼻を真っ赤にしながら泣いていた。

「本当は一緒に戦いたい。でも、それは賢明とは言えません。悠青ゆうせい様はきっと、私を護ってしまうから。悠青ゆうせい様を大事に想っている、もう一人の悠青ゆうせい様も。だから、私は待ちます。いいですか、よく聞いてください。もし、悠青ゆうせい様に何かあれば、私は未亡人となり、子供もおらず、不幸な一生となるでしょう。だから、必ず生きて戻ってください。私の不幸は望まないでしょう?」

 悠青ゆうせいは涙を流しながら微笑むと、「もちろんだ」と、瀏亮りゅうりょうの両手をぎゅっと握った。

「さぁ、そろそろ行きますよ。私の部隊では恒青こうせいの私兵はいなせても、禁軍までは難しいでしょう」

「わかりました。母上、大伯父上、瀏亮りゅうりょうを頼みます」

 悠青ゆうせいが包拳礼をすると、凛津が笑顔で応えた。

「まかせてください。いざとなれば、江湖の盟主と呼ばれている理由を示しましょう」

 悠青ゆうせいは門まで見送ると、三人は賢妃の馬車に乗って董侯府へと向かっていった。

 その周囲には視認できるだけでも十二人、江湖の猛者たちが民のふりをして歩いている。

「さすが、大伯父上の配下の皆さんですね」

 悠青ゆうせいは馬車が見えなくなると、庭から屋根に飛び上がった。

「師匠、すみません」

瀏亮りゅうりょう妃が無事だったならいいさ。それにしても、賢妃様は相変わらず聡明でいらっしゃるな」

「母上が味方で本当に良かったです」

「我々も味方ですよ!」

「仲良しですねぇ、奥方と」

 璆琳きゅうりん瑾瑜きんゆはニヤニヤとしながら悠青ゆうせいを見ていた。

「……見てたの?」

「もちろんです!」

悠青ゆうせい様、かっこよかったです」

「ぐぬぬ」

 今更だが、とても顔が熱い。

 どういうわけだが、瀏亮りゅうりょうといるときは、ずっと「悠青ゆうせい」でいられるのだ。

 心の奥底から正直に。

「さ、私たちも急ごう。恒青こうせいの即位が決まったら、すぐに皇后陛下は殺されるぞ」

「そうですね。急ぎましょう」

 四人は屋根から降りると、璆琳きゅうりん瑾瑜きんゆは空から、悠青ゆうせい杏憂きょうゆうは馬で皇宮へと向かった。

「あ、着替えておかないとな」

「そうでした」

 二人は仙術で、染められていない生成り色の麻生地で作られた装束を出し、身に羽織った。

 弔意を表す喪服の一種だ。

 皇宮の門まで来ると、そこには慶睿けいえいと雅黄軍の近衛兵が待っていた。

 同じように、喪服を身にまとって。

「来たか」

「遺体は……」

「まだ棺にも入っていない、が、そのそばにはずっと恒青こうせいと皇后がいる」

 悠青ゆうせい杏憂きょうゆうと顔を見合わせると、馬から降り、慶睿けいえいに向き合った。

「検死が必要です」

「だろうと思った。だが、さすがの私でも、あの泣きじゃくる皇后を押しのける力はなくてな。どうする?」

「今まで逃げて来たわたしがこの立場を使うのは卑怯ですが……、皇位継承権のある長皇子ちょうこうしとして行きます」

「……巻き込まれるぞ。今でも、お前に皇位を継いでほしいと願う者は多い。私もその一人だし。担ぎ上げられる前にすべてを終わらせる必要がある」

 真剣な慶睿けいえいの目を見つめながら、悠青ゆうせいは頷いた。

「わかっています」

「まあ、もちろん手は貸す。お前を慕う太監は賢妃様がすでにご自身のぐうに集め、恒青こうせい派を見張るように指示を出している。兵は雅黄軍を少しだが用意できる。いざという時のために、御林軍の近くに配置しておこう。皇后が錯乱して玉璽ぎょくじ兵符へいふをかざしかねないからな。太医は自分で説得できるな?」

「はい」

「先生は悠青ゆうせい恒青こうせいと対峙している間、皇后陛下へのご説明をお願いします。検死の必要性を説いてください」

「承知いたしました」

「私は恒青こうせいが皇宮へ放っている蠅たちを叩き出す」

 慶睿けいえいの瞳が好戦的に光った。

「あまり危険なことはしないでくださいね、叔父上」

「危険だから楽しいんだ。まかせとけ。悠青ゆうせい、一応だが……、帯刀していけ」

 そう言うと、慶睿けいえいは近衛兵たちと共に皇宮内へと入って行った。

 悠青ゆうせい慶睿けいえいの言葉に従い、くうから杖を出すと、剣に変化させ、腰に下げた。

「私たちも行こう」

「はい。師匠、よろしくお願いいたします」

女人にょにんの扱いは得意だ」

 これから行く場所は、ついこの間までいた戦場よりも醜悪で、悍ましい場所だ。

悠青ゆうせい、君……」

 杏憂きょうゆうは言葉を飲み込んだ。

 太陽の光が当たった角度が悪かったのかもしれない、と、そう思うことにした。

 一瞬、悠青ゆうせいの髪があかく、瞳が薄灰色に見えたことを。

――強き願いは赩熾きょくしの炎となりて、その心、溶溶ようようの月のごとく冷え渡る。

 心に浮かんだ悲しい古歌は、初夏の風に流されて行った。


 皇帝の寝殿前には、案の定、禁軍が立っていた。

「恵王殿下! ……ここへは何をしに?」

「父上が崩御したのはすでに知っている。一目会いたい。大統領はどこだ」

「……大統領は自宅にて謹慎中です」

「なぜ?」

「……皇太子殿下の意に背き、貴方へ早馬を出そうとなさったからです」

「謹慎を解き、大統領の指示に従え」

「ですが……」

「わたしは長皇子だ。争うのならば、受けてたとう」

 禁軍の兵士たちは困ったように狼狽え始めたが、その中の一人が前へ進み出てきた。

「すぐに大統領を解放してまいります」

「なっ! 待て!」

 他の兵士が止めようと手を伸ばしたが、悠青ゆうせいが抜いたつるぎにさえぎられた。

「で、殿下……」

「わたしに向かって剣が抜けるか?」

 禁軍兵士たちは苦々しい顔をしながら引き下がった。

 悠青ゆうせい杏憂きょうゆうは階段を上がり、靴を脱いで建物内部へと進んでいった。

「な! わあっ」

 寝所の前に立っていた禁軍兵士に剣を向け、扉を開けさせる。

 すると、中には変わり果てた姿の父親と、そのそばで泣き崩れる皇后。

 そして、読み取ることのできない表情をした恒青こうせいが立っていた。

 悠青ゆうせいは剣を鞘に納めながら、まっすぐと恒青こうせいを見た。

「……兄上」

「ああ、悠青ゆうせい。来てくれたのね」

 皇后は恒青こうせいが足止めをはかっていたことを知らないようだ。

 悠青ゆうせいが来たことを純粋に喜んでいる。

「兄上、ここは陛下の……、父上の寝所です。どうか、剣は外の兵士にお預けください」

 うまい演技だと思った。

 悠青ゆうせいの心が冷えていく。

「父上はなぜ崩御なさったのです」

 悠青ゆうせいの問いに、恒青こうせいが眉をぴくりと動かした。

「陛下はね、珍しくお酒を多く召し上がって……。きっと、たまにはいいかと思ったのね。それで……、うっ、うっ……」

「母上、私がお話ししましょう」

「うっ、ううっ、た、頼むわ、恒青こうせい

 皇后は再び皇帝の亡骸に顔を戻すと、泣き始めてしまった。

「父上は泥酔し、仰向けに寝転がりながら嘔吐してしまったようで……。吐瀉物が喉に詰まり、窒息を」

「本当か?」

 恒青こうせいの顔が歪む。

「本当か、とは?」

「検視した者から話を聞きたいのだが」

「申し訳ありません。検視に立ち会った者はあまりのことに憔悴し、それぞれ故郷で休養しております」

 殺したな、と悠青ゆうせいは思った。

「では、改めて検視させてくれないか」

「な、何をおっしゃるのですか! もう寝所も清掃してしまいましたし、父上がその時使っていた食器類や寝具は不吉なのですべて燃やしてしまいました。検視は無理でしょう」

 杏憂きょうゆうが予想していた通り、証拠はすべて破棄されたようだ。

「では、検死は?」

 恒青こうせいの目がちらりと炎が揺れるようにくらく光った。

「け、検死ですって? 兄上、何を冗談を……」

「このような時に冗談など言わない」

「ち、父上の身体を切り刻むというのですか!」

 恒青こうせいの叫びに我に返ったのか、皇后が悲痛な表情で悠青ゆうせいを見た。

「や、やめてちょうだい。陛下を切るなんて……、ねぇ、悠青ゆうせい、お願いよ。そんなこと言わないで……」

 悠青ゆうせいは皇后に近づき、跪いた。

「父上の検死をさせてください。もしかしたら、また誰かに狙われたのかもしれないのですよ? 犯人を捕らえ、罰しなければ!」

 悠青ゆうせいの真剣な言葉に、皇后が迷い始めると、恒青こうせいが静かに口を開いた。

「兄上には人の心がないのですか。そういえば、兄上はよく父上に楯突いていましたね……。長皇子ちょうこうしという高貴な身にもかかわらず、皇宮を出て修行という名の放蕩を繰り返しておられました。いくら仲が悪いとはいえ、これ以上、父上を辱めるようなことには同意できません。父上のご遺体を切り刻むなど……。許せるわけがないでしょう!」

 やられた。

 恒青こうせいはここまで考えて完全な「毒殺」から「窒息死」という手段へ変更したのだろう。

 太医と央廠の検視の結果、何の不審点もない死。

 遺体を調べる確固たる理由がない。

「兄上……」

 恒青こうせいが近づいてきた。

 悠青ゆうせいは立ち上がり、真正面から対峙した。

「兄上、私のために、諦めてくださいませ」

 わらった。

 皇后からは見えない角度で、恒青こうせいはとても嬉しそうに笑って見せた。

「陛下、恐れながら申し上げます」

 その時だった。

 杏憂きょうゆうが口を開き、皇后の側にそっと近づいたのは。

「もしよろしければ、身体を傷つけない方法での検死を許可いただけませんか? 人間の身体の表面には、様々な情報が眠っております。私が診れば、せめて、事故か他殺かはわかるはずです。愛する夫君ふくんの最期の言葉を読み取り、無念を共に晴らしましょう。是非、お立ち合いをお願いいたします」

 恒青こうせいは急いで間に割って入ろうとしたが、悠青ゆうせいがその腕を掴んだ。

「兄弟で話している途中だろ?」

 恒青こうせいの顔がひどく歪んだ。

 憎しみと、苛立ちと、他に何か、感じ取れない感情を浮かべている。

「……先生、お願いいたします。夫を、陛下を先生の方法でとむらってやってくださいませ」

「かしこまりました。丁重に執り行わせていただきます」

 てっきり、腕を振りほどかれると思ったが、恒青こうせい悠青ゆうせいに腕を掴まれたまま、ずっと悠青ゆうせいを見続けた。

「……何か言いたいことがあるのか、恒青こうせい

 その瞬間、恒青こうせいの顔に恍惚の煌めきが浮かび、気味悪いほどに甘い声を出した。

「何もありません、兄上」

 悠青ゆうせいは背筋に冷や汗が流れ、思わず手を離してしまった。

 恒青こうせい悠青ゆうせいに掴まれていた場所を愛おしそうに撫でると、皇后に近づき、「東宮に戻っています」と言い、寝所から出ていってしまった。

「……な、なんなんだろう」

悠青ゆうせい殿下、時間がありません。はやく済ませましょう」

 杏憂きょうゆうに言われ、すぐに父親の遺体と向かい合った。

 いや、改めて見ると、それは年をとったかつての弟だった。

「大丈夫か?」

 皇后に聞こえないほどの囁き声――矢羽やばね杏憂きょうゆうがたずねた。

「大丈夫です。始めましょう」

 悠青ゆうせい杏憂きょうゆうの助手に入った。

 氷が敷かれているとはいえ、亡くなってからすでに一月ひとつき近く経っている。

 季節は初夏。

 部屋中に焚かれた香とは違う、腐敗臭が鼻を突く。

「……眼球に鬱血うっけつ。窒息であることは間違いない。身体が洗浄されているから細かな証拠はないが……」

 杏憂きょうゆうが慣れた手つきで装束をはだけさせていく。

「胸部……、ほう。死後時間が経ったおかげで、あざが浮かんでいるぞ」

 犀睿さいえいの胸部の脇には、誰かが馬乗りになった時に腿で挟んだような圧迫痕が残っていた。

「それに、尺骨しゃっこつが折れているようだ。おそらく、暴れられないように腕に乗ったんだな。これは殺人だ」

 身体中に痛みを伴う閃光が走り抜けたような気分だった。

 目の前がチカチカと光り、弾けた。

「陛下……」

 悠青ゆうせいが皇后の方を振り向いたその時、黒い煙が現れ、皇后を飲み込んで消えてしまった。

「くそ! やられた。魔法使いだ」

「そんな……」

 抑えられなかった。

 気付いた時にはもう、変幻は始まっていた。

「ああ、悠青ゆうせい……」

 紅蓮華のような髪に、月夜に張る薄氷のような目。

「わたしと戦いたいのなら、それに応えるまでです」

 もうそこに、かつての悠青ゆうせいは居なかった。

 杏憂きょうゆうは引き裂かれそうなほど痛む胸を抑えながら、頷いた。

 どこまでも、味方であり続けるために。

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