第十六集:雷鳴
馬で
「師匠、一旦、空に逃げましょう」
「……承知した」
馬を金剛領域の中に隠し、
二人の行動を目にした
その数分後、眼下を瓏国の兵が通った。
「あれは?」
「皇宮から派遣されて来た、わたしを護衛するための兵だと思います。ただ、その中の一人に見覚えがあります」
「なんだ、知り合いを送ってきてくれたということか?」
「いえ。あれは
以前の
確実に、
「……君に父上のご遺体を見られたら困る理由でもあるのだろうな」
「おそらくは。だから、きっとわたしを自邸に軟禁するつもりで彼らを派遣したのでしょう。何が起きたのか、正確には知られないために」
限りなく冷静。
動揺すら見られない。
父親を失った悲しみに浸る感傷的な同情心すら、もう
「急がなくてはならないな」
「はい。でも、馬以上の速さで戻れば怪しまれます」
「権力が絡むと人間はなんとも疑り深くなるものだ。仕方がないな」
「最速の馬でも、十五日はかかる距離です」
「……そうか、星王殿下からの早馬がすでに十五日かけて来ていることを考えると……」
「父上を殺害するために使用したであろう毒物などの証拠は、すでに破棄されている可能性があります」
「葬儀は?」
「すでにいろいろと儀式が行われて始めているでしょうが、陵墓への納棺は崩御してからおよそ一月半後です。今帰れば、父上の遺体の検死は可能です」
それでも、身内の身体に刃を入れるのは、躊躇があってもいいと
「急ごう」
「はい!
二人は兵たちがはるか遠くへと走り去ったのを確認すると、陽炎の術を解きながら地上へ降り立ち、再び金剛領域から馬を出して乗ると駆けだした。
時間がない。
こうしている間にも、いくら寝台の下に敷いた氷で冷やされているとはいえ、皇帝の身体は腐敗していく。
「太医は検視するのか?」
「皇宮で起こったことなので、
湿った風が袖の中を通り抜けていく。
また、雨が降るのかもしれない。
「吐瀉物など簡単に用意できるからな。それに、窒息でも証拠を残さずに殺すことは可能だ。枕のような柔らかなもので口と鼻を塞ぐだけでいい。泥酔していた、または泥酔のような状態になる毒物を使用されていたのなら、簡単だったろう」
「皇太子という身分ならば、皇帝の看病のために側にいることも可能ですからね」
耳のそばを、枝が触れ合う音が通り過ぎていく。
「枕で窒息させた後、あらかじめ吐かせておいた吐瀉物を口につめ、慌てているふりをしながら太医を呼ぶよう、叫ぶだけでいい」
「でも、なぜ父上を? 皇太子で、他に争うような兄弟もいないのだから、次期皇帝になることは確実なのに……」
少しだけ、視界が戻ってきたように感じた。
馬に触れると、その温かさを感じる。
「……露見したのかもな。我らが行おうとしていることが」
「そんな! でも、どうやって……」
指先が熱を持つ。
それはもう、
「十中八九、あの闇の魔法使いだろう。君を誘拐し、
「……あの手紙の後も、
怒りすらわかない。
あるのはただ、使命にも似た殺意だけ。
「おそらくは。……心配なのはそれだけではない」
「なんですか?」
「親殺しは大罪だ。魂魄が著しく穢れ、理由によっては二度と人間に転生することは出来ない」
「じゃ、じゃぁ、なんで……」
「
「え! ど、どうして……」
手綱を握る手に力が入る。
「私の専門ではないので儀式の内容まではわからないが、西洋諸国の魔法使いは〈悪魔〉を作り出すことが出来るらしい。それに必要なのは、両親を殺した穢れた魂魄を持つ人間だ」
「あ、悪魔……?」
「中原でいう所の、
「そんな……」
わずかに残る
「
「わかっています」
「いや、君はまだ何もわかっていない。悪魔というのは、後天的になれる種族の中では唯一、
最後に残っていた心の何かが、音を立てて割れた。
「わたしが血を流すのを見たはずなのに!」
「他にも何か試すようなものを使っていたのだろう。魔法使いが入れ知恵したに違いない。とにかく、
可能な限り夜中も走り続けた二人と二羽は、十三日で黎安に到着することが出来た。
「
すると、皇宮から来たと思しき馬車が止まっていた。
「ま、まさか……」
しかし、誰もいない。
焦り始めたその時、「
急いで声の方へと駆け寄り、部屋へ入った。
「おかえり、
「お久しぶりですね」
「は、母上⁉ 大伯父上も!」
なんと、
「
「
思わず、抱きしめていた。
強く、強く。
「大丈夫ですよ。邸の者たちは全員、江湖へ逃がしました。私は賢妃様と
「ありがとう、
「あら、いいんですよ。
胸に、あたたかな
「……愛してる。心から」
「私もです。愛しています、
身体を離すと、
「本当は一緒に戦いたい。でも、それは賢明とは言えません。
「さぁ、そろそろ行きますよ。私の部隊では
「わかりました。母上、大伯父上、
「まかせてください。いざとなれば、江湖の盟主と呼ばれている理由を示しましょう」
その周囲には視認できるだけでも十二人、江湖の猛者たちが民のふりをして歩いている。
「さすが、大伯父上の配下の皆さんですね」
「師匠、すみません」
「
「母上が味方で本当に良かったです」
「我々も味方ですよ!」
「仲良しですねぇ、奥方と」
「……見てたの?」
「もちろんです!」
「
「ぐぬぬ」
今更だが、とても顔が熱い。
どういうわけだが、
心の奥底から正直に。
「さ、私たちも急ごう。
「そうですね。急ぎましょう」
四人は屋根から降りると、
「あ、着替えておかないとな」
「そうでした」
二人は仙術で、染められていない生成り色の麻生地で作られた装束を出し、身に羽織った。
弔意を表す喪服の一種だ。
皇宮の門まで来ると、そこには
同じように、喪服を身にまとって。
「来たか」
「遺体は……」
「まだ棺にも入っていない、が、そのそばにはずっと
「検死が必要です」
「だろうと思った。だが、さすがの私でも、あの泣きじゃくる皇后を押しのける力はなくてな。どうする?」
「今まで逃げて来たわたしがこの立場を使うのは卑怯ですが……、皇位継承権のある
「……巻き込まれるぞ。今でも、お前に皇位を継いでほしいと願う者は多い。私もその一人だし。担ぎ上げられる前にすべてを終わらせる必要がある」
真剣な
「わかっています」
「まあ、もちろん手は貸す。お前を慕う太監は賢妃様がすでにご自身の
「はい」
「先生は
「承知いたしました」
「私は
「あまり危険なことはしないでくださいね、叔父上」
「危険だから楽しいんだ。まかせとけ。
そう言うと、
「私たちも行こう」
「はい。師匠、よろしくお願いいたします」
「
これから行く場所は、ついこの間までいた戦場よりも醜悪で、悍ましい場所だ。
「
太陽の光が当たった角度が悪かったのかもしれない、と、そう思うことにした。
一瞬、
――強き願いは
心に浮かんだ悲しい古歌は、初夏の風に流されて行った。
皇帝の寝殿前には、案の定、禁軍が立っていた。
「恵王殿下! ……ここへは何をしに?」
「父上が崩御したのはすでに知っている。一目会いたい。大統領はどこだ」
「……大統領は自宅にて謹慎中です」
「なぜ?」
「……皇太子殿下の意に背き、貴方へ早馬を出そうとなさったからです」
「謹慎を解き、大統領の指示に従え」
「ですが……」
「わたしは長皇子だ。争うのならば、受けてたとう」
禁軍の兵士たちは困ったように狼狽え始めたが、その中の一人が前へ進み出てきた。
「すぐに大統領を解放してまいります」
「なっ! 待て!」
他の兵士が止めようと手を伸ばしたが、
「で、殿下……」
「わたしに向かって剣が抜けるか?」
禁軍兵士たちは苦々しい顔をしながら引き下がった。
「な! わあっ」
寝所の前に立っていた禁軍兵士に剣を向け、扉を開けさせる。
すると、中には変わり果てた姿の父親と、そのそばで泣き崩れる皇后。
そして、読み取ることのできない表情をした
「……兄上」
「ああ、
皇后は
「兄上、ここは陛下の……、父上の寝所です。どうか、剣は外の兵士にお預けください」
うまい演技だと思った。
「父上はなぜ崩御なさったのです」
「陛下はね、珍しくお酒を多く召し上がって……。きっと、たまにはいいかと思ったのね。それで……、うっ、うっ……」
「母上、私がお話ししましょう」
「うっ、ううっ、た、頼むわ、
皇后は再び皇帝の亡骸に顔を戻すと、泣き始めてしまった。
「父上は泥酔し、仰向けに寝転がりながら嘔吐してしまったようで……。吐瀉物が喉に詰まり、窒息を」
「本当か?」
「本当か、とは?」
「検視した者から話を聞きたいのだが」
「申し訳ありません。検視に立ち会った者はあまりのことに憔悴し、それぞれ故郷で休養しております」
殺したな、と
「では、改めて検視させてくれないか」
「な、何をおっしゃるのですか! もう寝所も清掃してしまいましたし、父上がその時使っていた食器類や寝具は不吉なのですべて燃やしてしまいました。検視は無理でしょう」
「では、検死は?」
「け、検死ですって? 兄上、何を冗談を……」
「このような時に冗談など言わない」
「ち、父上の身体を切り刻むというのですか!」
「や、やめてちょうだい。陛下を切るなんて……、ねぇ、
「父上の検死をさせてください。もしかしたら、また誰かに狙われたのかもしれないのですよ? 犯人を捕らえ、罰しなければ!」
「兄上には人の心がないのですか。そういえば、兄上はよく父上に楯突いていましたね……。
やられた。
太医と央廠の検視の結果、何の不審点もない死。
遺体を調べる確固たる理由がない。
「兄上……」
「兄上、私のために、諦めてくださいませ」
皇后からは見えない角度で、
「陛下、恐れながら申し上げます」
その時だった。
「もしよろしければ、身体を傷つけない方法での検死を許可いただけませんか? 人間の身体の表面には、様々な情報が眠っております。私が診れば、せめて、事故か他殺かはわかるはずです。愛する
「兄弟で話している途中だろ?」
憎しみと、苛立ちと、他に何か、感じ取れない感情を浮かべている。
「……先生、お願いいたします。夫を、陛下を先生の方法で
「かしこまりました。丁重に執り行わせていただきます」
てっきり、腕を振りほどかれると思ったが、
「……何か言いたいことがあるのか、
その瞬間、
「何もありません、兄上」
「……な、なんなんだろう」
「
いや、改めて見ると、それは年をとったかつての弟だった。
「大丈夫か?」
皇后に聞こえないほどの囁き声――
「大丈夫です。始めましょう」
氷が敷かれているとはいえ、亡くなってからすでに
季節は初夏。
部屋中に焚かれた香とは違う、腐敗臭が鼻を突く。
「……眼球に
「胸部……、ほう。死後時間が経ったおかげで、
「それに、
身体中に痛みを伴う閃光が走り抜けたような気分だった。
目の前がチカチカと光り、弾けた。
「陛下……」
「くそ! やられた。魔法使いだ」
「そんな……」
抑えられなかった。
気付いた時にはもう、変幻は始まっていた。
「ああ、
紅蓮華のような髪に、月夜に張る薄氷のような目。
「わたしと戦いたいのなら、それに応えるまでです」
もうそこに、かつての
どこまでも、味方であり続けるために。
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