第二集:毒素

「まずは小さな村落から巡って行こうか」

「はい、師匠」

 悠青ゆうせい改め、桂甜けいてん杏憂きょうゆうは、薬術師としての評判を広めるため、様々な場所へ問診に向かった。

 薬は貴重だ。

 そのため、医師くすしに診てもらうことは出来ても、薬が買えない家も多い。

 そんな人々のために、二人は無償で薬の提供を行うのだ。

 生薬の多くは鳳琅閣ほうろうかくの薬草畑で栽培しているため、懐が痛くなることもない。

 もちろん、街の薬舗やくほからはとても恨まれるだろうが。

 今は目先の評判の方が大事なのだ。

「では診ていきますね」

 村にある集会所や村長の家を借り、診察を繰り返していく。

 顔色、姿勢、舌の色、白目の色、脈を確認し、次に症状を聞いていく。

「なるほど。では、酸棗仁サンソウニンを主体とした薬をご用意しますね。寝る前に飲んでください。続けていくうちに、寝付きやすくなりますよ」

 使う生薬について不安がある人には実物を見せ、可能なものは目の前で齧って見せるなどして安心するよう促した。

「そうですか、吐き気はつらいですよね。緊張しやすいと、特に。わかります。わたしも人前に出るのがあまり得意ではないので。では、人参ニンジン白朮ビャクジュツ茯苓ブクリョウ半夏ハンゲ陳皮チンピ大棗タイソウ甘草カンゾウ生姜ショウキョウ……、柴胡サイコ芍薬シャクヤクも足しておきましょう。では、調剤が終わり次第、お渡ししますね」

 診療と調剤を二人でこなすのはかなりの体力がいる。

 一日で二つの村落を巡った二人は、今日は一先ず休むことにした。

「師匠はすごいですね。こういったことを、もう二十年以上お一人で続けてきたんですもんね。いつも怒ってばかりですみません」

「いやいや。まぁ、旅に出るのも好きだしな。君が修行に来てからは一緒に回ることも多いから、気楽なもんだよ。ただ、鳳琅閣ほうろうかく内での仕事をなまけているのは事実だから、謝られると心が痛い」

「あ、じゃぁ、取り消します」

「それはそれで悲しい……」

 悠青ゆうせい杏憂きょうゆうのわざとらしい悲しそうな顔を無視し、村近くの森の中で土の柔らかい場所を探りながら歩いた。

「どこで寝ましょうか。この辺りなら、葉を集めて敷けば眠れそうですけど」

「ふふふん! 桂甜けいてんよ。私が仙子せんしだということを忘れたのかね」

「……忘れてはいませんけど、それが何か寝ることと関係あるんですか?」

「まぁ、見ていたまえ」

 そう言うと、杏憂きょうゆうは何もないくうから身長ほどの杖を取り出し、空間を切り裂いた。

「え……。えええ!」

「入っていいぞ。中は快適だ」

「ど、どういうことですか⁉」

仙子せんし族には各個人に領域が与えられていてな。それを碧霄領域へきしょうりょういきというのだ。中には素敵な屋敷を建ててある。好きにくつろぐと良い」

「あ、ありがとうございます。では、失礼して……。おおお!」

 花々の豊かな香りに交じる薬草のさわやかな匂い。

 優しく照らす夕陽は、あたたかく、世界を包んでいるようだった。

「季節や時間も連動しているんですか?」

「ああ。今は初夏だから、この中も初夏で、夕方だから、同じ夕方だ」

「素晴らしいですね……」

「気に入ってもらえて嬉しいよ。桂甜けいてんも仙術を学べば使えるようになるかもしれないぞ」

「ううん、どうでしょうか。そういった才能は無いと思います。だって幽霊とか見たことありませんし」

「霊能力と仙力は似て非なるものなんだぞ? まあ、気が向いたらいつでも言うといい。教えてやる」

 杏憂きょうゆうはどこか嬉しそうだった。

 何かを教えるとそれを海綿のようにすぐに吸収してしまう悠青ゆうせいのことが、たまらなく面白いのだ。

 次は何を教えよう。何を学ばせよう。何を経験させよう。

 見せたい景色は尽きない。

「ほら、簡単に夕飯でも食べて風呂に入って寝るとしよう。自分たちが健康でなくては、病人など治せないからな」

「はい、師匠!」

 刻々と時間は進んでいく。

 夏は秋冬に向けて生薬の確保に重点を置いて畑仕事を増やし、秋は季節の変わり目にやってくる流感に備えて専用の薬を多めに調剤。

 気温がどんどん低く凍てついていく。

 それに合わせるように、患者も増えていった。

 そして冬。

 瓏国全体に雪がちらつき始めた。

 土には霜が降り、歩くたびに氷が弾ける音がする。

 ここまでくるのに半年かかったが、桂甜けいてんの名は瓏国だけでなく、その周辺国にまで噂が流れ始めていた。

「うんうん! 我らの作戦も順調そのものだな!」

「そうですね。この間皇宮へ行った時には、仲の良い太医にこう聞かれました。『殿下、最近噂になっている優秀な薬術師をご存知ですか? どこの国にも従属していないそうなんです。たしか、鳳琅閣ほうろうかくの出身だと聞いたのですが……。どうも、その、不思議な姿をしているらしい、とか』と」

「おうおう! いいじゃないか! なんて答えたんだ?」

「知っていますよ、実は兄弟子なんです、って答えました」

「いいねぇ、いいねぇ!」

「頑張ってきた甲斐がありますね、師匠。市井の人々を病から助けることもできるし、評判も広がっていくし……」

 ただ、悠青ゆうせいの表情には少し曇りが見えた。

「どうした?」

「今までに訪れたどの村も、とても疲弊していました。いるのは女性と子供だけ。わずかな男性たちは老人か怪我人です」

「皆、戦地へと赴いているからな」

「御林軍や禁軍はその性質上、皇宮や首都黎安れいあんにいるのは仕方のないことでしょう。ですが、他の軍は? 現在、軍としてまともに稼働しているのは、陛下が冷遇している紫董しとう軍や雅黄がおう軍だけ……。多くの士族たちは武功が望める戦にのみ臨み、国境防衛軍への人員補充は貧困にあえぐ村々から徴兵した農家の次男以降の人々です。なぜ貧しい者たちばかりを過酷な地へ送り、作戦上の『死』に最初から数えられているのでしょうか!」

 悠青ゆうせいは頭では「仕方のないこと」と文字列が浮かんでも、それを心が拒否する。

 相反する言葉の波が、叫びにも似た苦悩へ変わっていくのに、自分ではどうすることもできない。

 そんな経験を、前の人生で何度も経験してきた。

 非情になることの義務と罪悪感が精神を蝕んでいく音が、たまらなく怖いのだ。

「……国民とはそういうものだ。うえに立つ者の采配で、自由に見えていた人生が実は鎖につながれていることを知る。愛国心は名前と同じくのろいだ。護りたい、大切な者が増えるたびに、その鎖も重く強固なものになっていく。厄介なことに、人間はそののろいがないと生きていけないよう幼い頃から教え込まれている。愛すること自体が人質なのだ。お互いにとってな」

 限りなく善良。それなのに、その善良さが悠青ゆうせい自身を脅かしている。

 杏憂きょうゆうはたまにどうしようもないほど悠青ゆうせいという人間が哀しくて仕方なくなる。

 なぜ神々は彼に強靭な精神を与えなかったのか。

 大海のように広く深い心に見合う頑丈な器を与えなかったのか、と。

 あまりにも脆く、自身を肯定できずにいる。

 無情の悪意に弓を弾く強ささえあれば、世界を救える〈王〉となれただろうに。

「……だからわたしには向いていないのです。何かを想うたびに、身動きが取れなくなっていく。取りこぼしてしまう恐ろしさに耐えられない」

 少しだけ、本当に少しだけ、期待していた。

 悠青ゆうせいが〈皇帝〉になることを選んでくれることを。

 でも、それは絶対にないのだと、やっと杏憂きょうゆうは理解した。

 そして、この世界から彼を失わないためには、絶対に〈皇帝〉にしてはいけないのだ、とも。

「さぁ、行こう。今日も患者たちが待っているぞ」

「はい。どこへでも、参ります」

 山を越え、谷を渡り、時折海風に吹かれながら、二人は村を巡り続けた。

 時には、出会いが遅く、本当は治るはずの病が手遅れなほど悪化していて、救えなかった命に手を合わせることもあった。

 それでもくじけずにやってこられたのは、病を克服した人々の笑顔に救われたから。

 ひどい凍傷で足を切断することになったのに、「お二人のおかげで、これからも子供の成長を見ることが出来ます」と、前向きに頑張る姿を見ることも出来た。

 村に建てられた産屋にて、出産に立ち会うたびに、すべての子供が見る世界が限りなく美しければいいのに、と、祈った。

 一歩ずつ、一歩ずつ。

 歩くたびに、風に花の香りが混ざり始め、足元から雪が溶けていく。

 太陽が空に輝いている時間も長くなり、動物たちが野山を駆け始めた。

 季節はゆっくりと、でも、着実に、命が芽吹くあたたかさへと変化している。

 春になると、親王としての仕事のために皇宮へ通うことも増え、その際に何度か恒青こうせいを見かけた。

 未来の皇帝に取り入ろうと、連日多くの貴族や商人が訪れているようだった。

 そして、身体が陽気に慣れ、ついうとうとしながら迎えた、桜舞い散る晩春。

 ついに、その日は訪れた。

 望んではいない形で。

「父上⁉」

 本日の午前中は太常寺が選んだ最も縁起のいい日時ということで、恒青こうせいが皇太子に冊封さくほうされる儀式が行われた。

 何か月も前から準備が進められてきたとあってとても豪華で荘厳だった。

 皇后は感極まって涙を流し、皇帝も跡継ぎを指名出来てどこかホッとした表情をしていた。

 そんな矢先、午後から始まった宴席で、皇帝が突然痙攣し始め、床をのたうち回りながら食べたものを吐き出したのだ。

「へ、陛下!」

「太医を! はやく!」

 悠青ゆうせいはすぐに駆け寄り、皇帝の食事を確認した。

(毒物のにおいはしない。食器の変色もなく……、ん⁉)

 水菓子くだものが乗っている皿に、貿易路に乗ってやってきた西南諸国の果実、鳳梨パイナップルによく似た朱色の実が乗っていた。

(これは鳳梨じゃない……。蘇鉄ソテツだ)

 蘇鉄は食料や生薬としても利用される植物だが、しっかりと下処理してからでないとその毒素が身体を巡り、頭痛、眩暈、嘔吐、下痢などを引き起こす。

 繰り返し摂取を続けると、進行性麻痺や筋萎縮性側索硬化症パーキンソン様症状を引き起こすこともある。

悠青ゆうせい、どうなの⁉ 陛下は助かるの⁉」

 皇后が取り乱しながら肩をゆすってきた。

「陛下、息子にまかせましょう」

 賢妃が気丈にふるまいながら、皇后の肩を抱きしめた。

「賢妃……。わ、わかったわ。けい王は薬術を学んできたんだものね……」

悠青ゆうせい、頑張るのよ。陛下を助けなさい」

「はい、母上」

 たくさんの来賓や皇子、公主たちが怯えている。

 しかし、その中で一人、口元を隠し、それでもわらっているのが隠せていない者がいた。

(こ、恒青……)

 悠青ゆうせいは絶句した。

 恒青は蘇鉄の実を拾い上げ、指で潰し、たった一瞬だったが、笑ったのだ。

 まるで悪戯に成功した子供のように。

(……わたしが治療しては、恒青の敵意が後々邪魔になる。桂甜けいてんの出番だ)

 その時、駆けつけてきた太医に状況を説明し、悠青ゆうせいは少しだけ声を張って言った。

「今、わたしのやしき桂甜けいてんが宿泊しています。彼ならば、治療できるでしょう。師匠も一緒です」

「それはなんたる僥倖! 禁軍に連れてこさせましょう!」

「いえ、わたしが走っていった方が早いでしょう。みなさんは陛下の喉に吐瀉物が詰まらないよう横向きに寝かせて気道の確保を続けてください」

「わかりました!」

 恒青が一瞬とても邪悪な顔をして誰かに何か指示していたが、気にせずに悠青ゆうせいは厩舎に寄り馬に乗って駆け出した。

 数分後、杏憂きょうゆうとともに現れた桂甜けいてんを見て、皆が絶句した。

 なぜなら、その髪は燃えるように紅く、目は薄灰色。

 雪の中で懸命に咲く白梅のように白い肌は、おおよそ普通の人間には見えなかったからだ。

「恐れながら、陛下。御身に触れさせていただきます」

 杏憂きょうゆうが素早く皇帝の着衣を脱がしていく。

 慌てた太監たちが禁軍に命じ、衝立を用意させた。

「……桂甜けいてん吐根液とこんえき

「はい」

 様々な薬が入っている鞄から茶色の小さな壺を取り出し、杏憂きょうゆうに渡す。

「いったい、なにを……。わああ!」

 太医が驚いたのも無理はない。

 杏憂きょうゆうが皇帝の口に壺の中の液体を数回塗った途端、さらに吐き出したのだ。

「へ、陛下に何を!」

 杏憂きょうゆうを止めようと太医が近づこうとしたので、悠青ゆうせいは手を前に出し、阻止した。

「いいですか、太医殿。今陛下の体内にある蘇鉄という植物をすべて無くそうとしているのです。消化され続ければ、その分、毒素も回っていくんですよ」

「……あ、あなたが、その……」

桂甜けいてんです。それと、悠青ゆうせい殿下は食事後の急激な運動により生じた腹痛で休んでおいでですので、邸には立ち入らないでくださいね」

「え、あ、はい……」

 桂甜けいてん杏憂きょうゆうが皇帝の吐瀉を手伝っている間に、必要な生薬を取り出し、調剤を始めた。

「どなたか、お湯を」

「わ、わかりました。すぐに持ってこさせます」

 太医は給仕をしていた侍女にすぐにお湯を持ってくるよう指示を出した。

「太医殿、陛下の毒味役を呼んでいただいても?」

「はっ、すぐに……」

 その時だった。

 侍女の悲鳴がこだましたのは。

 御林軍の兵士がどこからともなく現れ、侍女に近づいていく。

 彼らは一言も発さないまま、不思議な形に指を組み、太医になにかを知らせた。

「な、なんと……」

「どうしたんです?」

「そ、その、毒味役の宦官が……。な、中庭の茂みで、し、死んで、い、いるようです」

 悠青ゆうせい杏憂きょうゆうと目を合わせると、頷き合い、すぐに宦官の遺体のある方へと向かっていった。

 すると、目の前に恒青が立ちはだかった。

「お前は陛下の治療中なのではないのか? 陛下に穢れが移ったらどうするのだ」

「……見せたくない理由でも?」

「生意気な奴だな」

 見たことの無い顔だった。

 可愛くて、優しくて、穏やかだと思っていた弟はどこにもいない。

 目の前にいるのは、明確な悪意の塊のような人間だった。

「さぁ、桂甜けいてん殿、こちらです」

 いつの間にか禁軍が引き継いだようだ。

 恒青は瞳の奥に邪悪な炎を宿しながら、皇后の側へと歩いて行った。

「陛下と同じでしょうか……」

 禁軍の兵士が口元と鼻を抑えながら言った。

 生前の彼には皇帝と同じ症状はなかったと悠青ゆうせいは記憶している。

 何度かすれ違ったことがある程度だが、もし皇帝と同じ頻度で蘇鉄を毒味していたとしても、その量は限りなく少ない。

 同じ日に死ぬとは考え難い。

 ただ、嘔吐したあとがある。

 悠青ゆうせいは遺体に近づき、その衣服を調べた。

 すると、何か硬いものが入っている袋を見つけた。

 開けてみると、そこに犯人が入っていた。

「彼が摂取した毒は蘇鉄のものではなく、これですね」

 それは古代から地中海付近で食べられてきた白花羽根団扇豆シロバナハウチワマメだった。

「そ、その豆で死んだというのですか⁉」

「瞳孔の散大、嘔吐、水っぽい排泄物……。ええ。この豆の毒素が原因です。通常、甘い豆と苦い豆があるのですが、苦い豆の方は毒抜きをしないで食べると危険なのです。このように」

 禁軍の兵士は驚きのあまり固まっている。

 普段何気なく口にしている植物が、人を殺すかもしれないと認識したからだ。

「詳しくは師匠が検視すればわかるでしょうが……。無理やり食べさせられた跡があるので、毒殺でしょうね」

「え!」

「運がよかったです。彼の上の歯に、彼のものではない血がついています。口の中は切れていないようですから。おそらく、食べさせようとしてくる犯人の手を噛んだのでしょうね。皮膚もあるかもしれません」

「……あなたはいったい、何者なんです……? ただの薬術師ではありませんよね?」

「いえ。仕事柄、他殺体も視ますから」

「そ、それでも……」

「太医殿に頼んで遺体を安置室へ運ぶよう手配してください。わたしは手を洗ってから陛下の治療に戻ります。手洗い場はどこですか?」

 悠青ゆうせい桂甜けいてんを演じながら、心は引き裂かれそうに悲鳴を上げていた。

 毒殺と判断したのにはもう一つ理由がある。

 蘇鉄を皇帝に食べ続けさせることが出来るほど植物の知識がある人間が、そうやすやすと毒素のある豆を食べるはずがない。

 それに、あの毒味役は……。

(恒青が手配した宦官だ)

 以前の毒味役が高齢で退任することになり、新しく選ばれたのは、恒青が推薦したあの宦官だった。

 そのときの恒青の言葉は「彼は悠青ゆうせい兄上のように植物に詳しく、怪しい食べ物があれば必ず気づき、取り除いてくれるでしょう。毒味役にぴったりですよ、父上」だった。

(あの言葉はあの場にいた誰もが覚えている。つまり、父上に毒物を与え続けたのは毒味役の宦官ですよ、と印象付けることも容易い。皇宮内から出ない太医ならば他殺体などそうそう見ないから、状況から『自害』と判断するだろうという予想も込みで仕掛けたんだ……。いったい、どうして……)

 ただ、先ほど悠青ゆうせい桂甜けいてんの姿で禁軍の兵士に「他殺」だと伝えた。

 おそらく、皇宮中が捜索されるだろう。

桂甜けいてんは恒青、いや、瓏国皇太子の恨みを買ったな)

 陽が暮れ始めている。

 もうすぐまた初夏が巡ってくるというのに、晩春の風はひどく冷たかった。

 悠青ゆうせいは手洗い場に着くと、手についている何もかもを洗い流すように冷たい水の中で手を擦った。

 皮膚が赤くなる。

 それでも、まだ悲しくて、洗い続けた。

 宴席の会場へと戻ると、皆がホッとしたような顔をしていた。

 どうやら、皇帝の呼吸が安定し始めたようだ。

桂甜けいてん、帰るぞ。あとは太医殿で十分だ」

「わかりました」

 帰ろうと調剤道具などを片付けていると、皇后が近づいてきた。

 恒青に支えられながら。

「なんと、なんとお礼を申し上げればよいのかわかりません。本当に、安堵と感謝で心が繋ぎ止められた思いです」

「身に余るお言葉です。我らはただの薬術師。仕事をしたまでです」

「ああ、なんと謙虚な……。必ずこのお礼は致します。どうか拒否なさらないで。私の心だと思ってお受け取りくださいませ」

「……では、ありがたく。本日はこれにて失礼いたします」

 杏憂きょうゆうは女性の扱いが上手い。

 感心していると、背筋に冷たい汗が流れた。

 凍てつく殺意。

 恒青の感謝の微笑みだった。

「父上を救ってくださったこと、忘れません。絶対に」

 杏憂きょうゆうも気づいたようだ。

 だが、これでわかった。

 桂甜けいてんの変装は完璧だということが。

 誰も悠青ゆうせいだとは気づかなかった。

 賢妃ははでさえも。

 皇宮を出て、夕飯時でにぎわう街中を歩いて行く。

「……安心しました」

「本当か? まったく笑顔が見えないが」

「不思議なんです」

 悠青ゆうせいは自身の白い腕を見ながら自嘲するようにつぶやいた。

「この桂甜すがたならば、冷徹になれる。……考えてしまったんです。弟を……」

 身体を押すほどの突風が一陣、通り抜けていった。

「恒青を、とめるのではなく……、殺さなければ、と」

 その言葉に、杏憂きょうゆうは心を氷の剣で刺されたような痛みに襲われた。

 愛しい人々を護りきれないことを悔やみ、心を傷つけていた少年が、変わるほどの邪悪な存在。

 それが、実の弟だという悲劇。

 またしても、彼は兄弟と戦うことを強いられた。

 運命なのか、必然なのか。

 これがもし戯曲ならば、なんという歪んだ物語なのだろう。

 杏憂きょうゆうそらを仰ぎ、瞬き始めた星々に願った。

(願わくば、悠青ゆうせいが自由な愛を手に入れることが出来ますように。どこまでも羽ばたいて行けるような、大きな翼と共に)

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