第一章
第一集:皇子
人間は悲しい生き物だ。
欲に溺れるあまり、時に大胆に間違いを犯す。
わたしも、その「間違い」とやらの被害者なのかもしれない。
あわただしい日々の中、それなりに頑張っていた。
市井の人々からの反応も、悪くはなかったと思う。
一年、二年、三年と、
そして五年目を迎えようとしていた春、わたしは貴太妃の長子である弟の勢力にまんまと嵌められ、皇位を簒奪されたのち、すぐに殺されてしまった。
あっけなかった。
でも、少しだけ、ホッとした部分もある。
わたしには、皇帝など向いていない。
殺されたくはなかったが、あの玉座に座り続けることを考えたら、死んでよかったのかも、とも思う。
太皇后である母には申し訳ないが、わたしは国父の器ではなかったのだ。
次に生まれ変わるときには、ぜひとも庶民として生まれたい。
贅沢な言い方だということは重々承知している。
それでも、願わずにはいられない。
平穏で、代わり映えのしない、小さな幸せを見つける毎日を。
☆
簫皇八十年、皇帝と
それまで、皇帝には六人の子供が生まれているが、すべては女児。
皇太子のみならず、親王や郡王すらもいなかったのである。
皇帝は男児に
しかし、三年後、皇后が産んだのは男児だった。
皇宮は波乱の予感を孕みつつ、
なぜなら、皇后が産んだ子供は
つまり、正統なる血統ということになるからだ。
その地位はいくらでも揺らぎえるのだ。
その後は堰を切ったように男児が生まれ続けた。
合計で八人。
皇帝は成長し自分に似てくる
ただ一人を除いて。
「
皇宮内にある皇帝の自室に呼び出された
「陛下、わたしには学ぶ時間が必要なのです」
「顔を上げよ、
「陛下は少々お身体の調子がすぐれないことが増えてまいりました。わたしはその原因を突き止め、癒して差し上げたいのです。優秀な世継ぎならば、弟たちがおります。どうか、どうかわたしに薬術を学ぶ機会をお与えくださいませ」
皇帝は
「……朕をそれほどに想ってくれているのだな。わかった。気の済むまで学んでくると良い。たしか、お前の母である賢妃には
「ありがとうございます! 必ずや立派な薬術師となり、父上……、あっ、失礼いたしました。陛下のお役に立ってみせます」
「期待しておるぞ。……たまには父上と呼ぶと言い。お前は親王なのだから」
「はい!」
皇帝は
「身体に気を付けるのだぞ。いつでも帰ってくるといい。お前の家はここなのだから」
「はい、父上」
こうして、
「
険しい山岳を大伯父、
皇帝や賢妃は護衛をつけることを望んだが、
これから
「は、はい大伯父上。大丈夫です。あ、あの、
「ふふふ。
「そ、そうでしょうか」
息が上がる。
道なき道を進み、なんとか大伯父について行く。
もう手足は棒のようだし、着ている服もところどころ破れてしまっている。
「ええ。姪に紹介されたときは、大人と話しているような気分でした。だから、殿下の修業場所にここを選んだのです」
そう言って凛津が指し示したのは、雲の上まで続くほどの高い建物だった。
「あちらがこの江湖最大の勢力を誇る知恵と武術の最高峰、
「ほあぁ!」
屋根がいくつも連なり、いったい何重の塔なのだというほどの立派な木族建築。
うっすらと立ち込めていた霧が晴れると、さらにその荘厳さが目を引き付けた。
「現在の閣主は
「そうなのですね……。はやくお会いしてみたいです」
「おっ! お前が放蕩息子か?」
突然、頭の上から声が降ってきた。
「おお、噂をすれば。お久しぶりです、閣主」
「お久しぶりですね、梅盟主。お変わりないようで安心しました」
「いやいや、若い人たちには負けますよ」
「またご謙遜を」
純白の
「ご紹介します。我が姪の長子にして将来は瓏国の国父とも名高い簫
「ほうほう。小僧、残念だが私は君の大伯父上のように優しくはないぞ。それに、市井の人々のように君の肩書にひれ伏したりもしない。私から学びたいなら、必死で食らいつくことだ。いいかな?」
「も、もちろんです! どうぞ、雑用でも何でもお申し付けください! 学ぶに値する人間だと証明して見せます!」
「……いいね。気に入った。さっそく書物を五冊貸し出そう。明後日までに読んで内容をまとめて提出したまえ」
「は、はい!」
「うわああああ!」
「おいおい。こんなことで驚いていたら修業なんて進まないぞ」
「ひ、ひえええ!」
武術大会で幾度となく遥か上空へと跳躍する武人を見てきたが、
飛んでいる。
これはもう、浮遊、いや、飛行なのではないだろうか。
そうこうしているうちに、窓から
「ほら、五冊。君の部屋は当分私の隣だ。さぁ、あの緑色の暖簾がかかっている部屋を使うといい」
「あ、ありがとうございます……」
木のにおいがとても心地いい。
部屋の中はこざっぱりとしており、調度品も家具も、必要最低限といった感じだ。
ただ、文房具だけは山と用意されていた。
墨、筆、
「な、なんて贅沢な!」
貸し出された本を開き、一行ずつ読んでいく。
三冊目を読み終えるころには、すでに陽が落ち、
「
「はい。肝に銘じておきます」
「よし。じゃぁ、行こうか。食堂は二階だ。ちなみに、ここが何階かわかるか?」
「……七階だったと思います」
「おお、正解。あんなに騒いでいたのに、よく見ていたな」
「え、えへへ」
「さすがは元皇帝だな」
「……え」
耳鳴りがした。
息が荒くなっていく。
「まさか自身を殺し、皇位を簒奪した弟の子供として生まれてくるとは思わなかっただろう」
「な、なんのことだか……」
「隠しても無駄だ。言ってなかったが……、私は人間ではない。
「せ、
「その話は夕飯の後にでもゆっくりしてやろう。さぁ、行くぞ」
汗が止まらない。いや、その汗が冷えて寒気が止まらない。
どうして知っているのだろうか。
なぜ露見してしまったのだろうか。
何度思考を巡らせてもわからない。
食堂に着いてから、一時間ほど経っただろうか。
味のわからない食事を終え、部屋へと帰ってきた
向かい合って座っているが、
その中にいる、簒奪された皇帝を見ているのだ。
「あの……」
沈黙に耐えきれず、
「あはははは! 何も取って食おうってわけじゃないんだし、誰にも告げ口する気も毛頭ない。なぜそんなに怯えているんだ」
「わ、わたしは……」
正直に言っても良いものなのだろうか。
しかし、正体を見破られたのだから、何を隠しても無意味だろう。
「わたしは、先生のお察しの通り、廃帝です。どういうわけか、弟の子として生まれてきてしまいました。それも、間の悪いことに、長子として。わたしはもう二度と皇帝になどなりたくないのです! 皇太子すら嫌です。親王でも苦しいのに……。だから、こうして修業に出してもらえるよう画策し、皇宮から離れたのです。お願いします。わたしはただ平穏に生きていきたいのです。どうか、皇位に関わらないようにうまく立ち回れる知恵をお授けください……」
「ふむ。そういうことか……。私は君の短くも美しい治世が好きだったがね」
「え?」
「君が皇位について二年目のことだった。大規模な飢饉で村々が疲弊し、民は飢え、明日の命もわからなくなりそうだったとき、君はすぐに国庫を開いた。自身も粗食を貫き、民と痛みをわかちあった。翌年の税金は徹底して安く設定し、他国や他民族との積極的な貿易で財を潤わせ、国が力を失わないよう努めていた。そして何より、一度も紛争すら起こらなかった。この乱世において、君は素晴らしい手腕をみせていたんだよ」
「……それがすべきことだったからです。わたしでなくとも、皇帝の地位と民を想う心さえあれば、誰にでも出来ることです」
「ずいぶんと謙遜するんだな」
「当然のことをしていただけですから」
「ふむ。……もしかして、殺された恨みが無いのか?」
「はい。皇帝でい続けるよりはマシかな、と」
「君の皇后だった
「それが彼女の運命だったのでしょう。優しく、好奇心旺盛で、美しい人でした。きっと今度は素晴らしい人生に生まれ変われるはずです」
「達観しているんだな」
「いえ。誰を恨んでも、時間は巻き戻せませんし、戻す必要もありませんから」
「ほう。だから薬術を学ぶという名目で逃げ回っているのか」
「そうです。それに、薬術には生前から……、いや、前世? から興味がありました。学びたい気持ちは本物です」
「ならいい。なんでも教えてやろうじゃないか」
「ありがとうございます!」
やっと始まるのだ。
望んできた人生が。
江湖の生活に慣れるのは大変そうだと思う間もなく、一年、二年、三年と、濃厚な月日は過ぎていった。
始めは雑用も含めて薬草畑の手入れや、基本的な武術の型を使いながらの掃除を教え込まれた。
母からの手紙を読み、申し訳ないと思いつつも、一度も皇宮へは帰らなかった。
四年、五年、六年経つと、知識と共に身体も成長してくる。
だんだんと高度なことも教えてもらえるようになってきた。
それぞれの薬草が持つ特徴や、性質、副作用や毒性について教わり、実際に齧ってみるなどして時折のたうち回ったり、吐き戻したり、寝込みながら身体で覚えていく。
武術は対人戦へと移行し、武器も持たせてもらえるようになった。
この頃になると、一年に一度、一週間程は母の元へと帰るようになっていた。
七年、八年、九年になると、
一年に数回、皇宮へ戻ると必ず太医院に寄り、身につけた技術を共有していくようになった。
親王としての仕事も積極的にこなし、得た報酬で国中の薬舗への支援も開始。
そして十年が経った日、突然
無事に帰還し、十一年が過ぎ、十二年後。
「
「師匠! また調剤をなまけましたね⁉」
身長が伸び、武術の修業もこなしているおかげか、引き締まった体躯になった
黒曜石のように輝く長い黒髪は美しく、触れるとひんやりとした絹のよう。
藍色の深衣がよく似合う、美丈夫へと成長を遂げていた。
「どうせ君がやっておいてくれたんだろう?」
「……やっておきましたけど」
「じゃぁいいじゃないか。さぁ、妓楼へ行こう!」
「あのですね、わたしはまだ今年十九歳。成人していないので同行できません」
「いいではないか! 多少童顔だが、まぁ、着るものによってはなんとかなるなるぅ!」
「なりません! 行きませんからね。行くならお一人でどうぞ」
「かあっ! 可愛くなくなったなあ。初めてここに来たときはあんなにも可愛らしい子供だったのに……」
「どうもすみませんね! 師匠がぐうたらなせいで、仕事が山積みなんです!」
「失礼な! 仕事ならこなしているぞ」
「薬を求めてくるのが
「うんうん。そうだろう、そうだろう」
「いや、褒めていませんからね」
それもそのはず。つい先日、皇宮から使者がやってきたのだ。
もたらされた知らせには、来年、弟である宗室の親王が皇太子に冊封されると記されていた。
皇帝もしびれを切らし、心のどこかで諦めてくれたのだろう。
「あ、また手紙が来ていたぞ」
「ああ、弟からですね」
「本当に、
「弟は優しい子です。民を想う心もありますし、なによりも頭がいい。それにもう十六歳ですからね。次期国父として最適なのではないかと思いますが……、何か問題でも?」
「いや、まだわからないが……」
「私の杞憂ならばいいのだがな」
向かったのは妓楼、ではなく、繁華街の隅にある茶屋。
そこで、ある人物と待ち合わせをしているのだ。
「あ、ああ……。本当に来てくださるとは」
「私も気にかかることがありまして」
「それで、どういうことなのです?」
「
声を潜め、それでも力が入ってしまったのか、太監は震える身体を抱きしめながら話し出した。
「見てしまったのです。最初は六歳の時でした。花壇で何かを埋めていらっしゃったので、球根かなと思い、あとで見に行ってみると……、う、埋められていたのは猫の死骸でした」
その後も、太監はことあるごとに恒青が動物の死骸を埋めているのを目撃したのだという。
「牛車や馬車に轢かれていたのを弔っていた……、とかではないのですね」
「そうです。恒青殿下は皇宮の近くの林に罠を張り、そこで捉えた小動物に……、ご、拷問まがいのことをしてから殺し、埋めているのです!」
「やはり……」
「や、やはりと申されますと?」
「これです」
そう言って
「毎回、
「な、なんということ……」
「今回ご連絡いただいたのは動物への拷問が原因ではないのでしょう?」
「左様です。……殿下は……、殿下は、つ、ついに……、に、人間を……」
太監はそれ以上口にすることが出来なかったのか、泣き出してしまった。
「侍女ですか」
「い、いえ。侍女や宮女の数は皇后陛下が厳しく管理しておいでです。殿下が手を付けたのは……、妓楼の裏口に食料を求めてやってくる、家の無い子供たちです……」
「外道め……」
「どうか、どうか
必死に「皇位には関わりたくない」と懇願していた、幼い子供を。
「他の親王のみなさまや郡王はどうなんですか?」
「何人か、優秀で真心のある皇子様はいらっしゃいますが、恒青殿下と戦うほどの気概は感じられません。将来皇帝を支えるという役割を受け入れているといった印象です」
「そうなのですね……」
後ろ盾という意味で貴妃の子供ならば同格に戦えるのではとも考えたが、残念なことに貴妃には三人の
男児は産んでいないのだ。
淑妃の息子は穏やかで頭もいいが肺を病んでおり身体が弱い。
徳妃の息子は幼少期の事故で聴力を失いかけている。
嬪たちの息子は後ろ盾が弱すぎて宗室と争うには力が足りなすぎる。
そうなると、どう本人が嫌がろうとも、賢妃の嫡子で、皇帝にとっては長子である
「話してはみます。ただ……。殿下は皇位に興味はないようです。時々帰省してはいるものの、十年以上、我が
「承知しております。お願いいたします。では、私はこの辺で失礼いたします……」
太監は肩を落とし、来た時と同じようにそっと繁華街の人混みへと消えていった。
「困ったことになったな。それも、かなり」
一応は話してみるつもりだ。
一応は……。
「申し訳ありませんが、それでも嫌です」
「心配ではないのか?」
「そりゃ、心配ですよ! でも、わたしが皇帝になることはありません」
「じゃぁ、どうすれば……」
しかし、それは国を救うとともに、大きく裏切ることにもなる。
「話してみろ」
「……一人、とても素晴らしい人物を知っています。勇敢で思慮深く、民を、国を愛し、戦でも神のごとく戦場を駆け抜ける、そんな男を」
「なんだと⁉ そんな男、瓏国にいたか……。はっ! もしや……」
「そうです。瓏国の者ではありません。彼の名は
「せ、戦争を起こすのか⁉」
「それは瓏国次第ですね」
「でも、何故……」
「
「……勝算はあるのか」
「師匠が協力してくださるなら、あります」
まっすぐな瞳。
「……よし。いいだろう。その作戦、のった!」
「ありがとうございます!」
「ただ、そのままじゃなぁ……」
「え、な、何がですか?」
「瓏国の親王が『うちの国を奪ってください』なんて言って信じてもらえるとでも思っているのか?」
「うっ……」
「偽名と別の実績での知名度が必要だな……」
二人は眉根を寄せながらうんうんと唸った。
「実績は……、そうだな。薬術師として有名になればいい。それが一番の近道だしな」
「はい。わたしも得意ですし」
「次に見た目だが……。その美しい髪を染めてしまおう」
「か、髪を染める⁉ 黒には色が入りませんよね?」
「まかせろ。私は
「はあ、そうですか。では、偽名はどうしましょう」
「この世に太平をもたらす瑞獣と言えば、麒麟だ。だがそのまま名乗っては面白くもなんともない」
「面白さは求めていませんが……」
「
「
「別名、
「え、大仰すぎませんか?」
「まぁ、そのまま名乗ればな。だからこうしよう。今日からお前は
「
「所属はここ、
「さすがは師匠。抜け目ないですね」
「まあな!」
こうして始まったのである。
国の安寧を願うかつての廃帝が目指す、平和のための国盗りが。
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