第三十七章 南小四郎の場合のつづき
伊勢志摩は観光地である。ホテルとか旅館、民宿が多く、特に観光シーズンとか連休にはそのほとんどが満室になってしまう。鵜方駅の近くには数少ないビジネスホテルがある。週末とか観光シーズンには、そのビジネスホテルまで満室になってしまうことがある。だが、今日は平日である。
空室はあった。
その日は、その駅前の小さなビジネスホテルに泊まった。
砂代の娘、孝子は行方不明者として、
(こっちに手配してある。こっちに来ているのか・・・?)
その確証はなかった。実際は、得体の知れない何者かに連れ去られたというのが事実なのだが、かれとしては何かをせずにはいられなかったのである。砂代は娘孝子の話はほとんどしなかった。それがかえって、彼女の重苦しい気持ちを想像させた。確かなことは何も説明できなかった。見たことを真実らしく語った所で、他人が信じるとは思えない。
昨日帰り際、川口署長が、
「津田孝子という十歳の少女が行方不明者として通知が来ていますが、今度こちらに来たことと何か関係があるんですか?」
と訊いて来た。
小四郎は返事をしなかった。
(俺の気持ちを理解してくれたのだろうか)
川口署長は、小四郎の答えをしいて求めなかった。
この事件に関係しなかったら、いや大森六太郎に出会わなかったなら、志摩に来ることはなかった。母が亡くなり、最後に父が死んだ時、
(もう志摩に帰ることはない)
と誓って志摩を出たのだから。
それにしても小四郎は、智香という十二歳の少女の生きるという意志の強さに驚いている。
彼女を初めて見たのは事件直後で、今もそうだが、そこで何が起こったのか分かっていない。憔悴しきっているのは、気を失っていてもはっきりと見て取れた。あんなことがなかったのなら、ごく普通の女の子として育ったことだろう。そういう運命だったといってしまえば、それだけのことだ。だが、彼女の場合、そうではなかった。近くに叔母の砂代がいたこと、しかも孝子と言うどう世代の子がいたこと、ほかにも力になり励ましてくれる友達もいたが、いくつものことが彼女の心に幸いしていた。それでなかったら・・・と、思うと、胸が張り裂けそうになるのは、娘の恭子が小四郎の頭の中からいつも離れないでいるからなのだろう。
しかし、何よりもあの子の宿命というか運命が、あの子を無理にでもこの世界で生きよと強い力が引っ張り続けているように思えた。
小四郎には、それが何かは分からなかった。残念だか、あの子は普通の女の子として生まれていないようだ。
そう考えざるを得ないのは、彼女の周りに現れている化け物たちである。
(ふっ・・・)
小四郎は思考を止めた。
(そんな馬鹿な)
彼は笑ってしまった。
あの化け物たちが一人・・・いや一つでもいなくなったら、彼女はその存在意義をなくしてしまうような気がした。今彼女の前にあるものがひとつでも消えたら、あの子は死にはしないまでも、あの大きな家にひとりで閉じこもってしまうような気が、小四郎にはした。
智香という少女の心の中に入っていけないのは、他人に言われなくても小四郎にはよくわかっていた。
この先、あの子の心と体にどういう変化が、どういっていいのか分からないが、どう成長していくのか見たい気がした。
小四郎は唇を噛み締めた。娘の恭子の顔がまた浮かんだのである。
あの子はもう俺の手の届かない所に行ってしまっている。会えれば会いたい。母親から合わないで、と強く言われている。俺は何も言えなかった。虚しさも寂しさも覚える。もうだめだ・・・。親は・・・俺はどこまで恭子を理解しているのか、ただかってに親であると思っているだけなのだ。俺は何もしなかったのだが、風呂に入れたりオムツを換えたり、たまの休みには遊園地に遊びに連れて行ったりして、親は子供を宝だという。大切だと思う。しかし子供はいつまでも一歳ではなく、いろいろな知識を得て成長していく。そうだ、憎しみ悲しみも、だ。自分もそうだったからよく分かっている。それでも、子供の完全な成長を認めようとはしない。
小四郎の心は珍しく錯綜している。なぜかたぬき屋の出戻り娘、育代の顔を思い浮かべた。三十四歳の離婚したばかりの男、三十一歳の出戻り娘、事件で両親を失った十二歳の少女、この三人を結び付ける要素は・・・今の所何もない。
小四郎は首を強く振った。
「志摩に行って来ます」
彼は砂代に電話した。すると、
「智香は私たちとは違う世界に行こうとしています。あの子がきっと孝子を見つけてくれると思います。でも・・・十二歳の女の子に、私は何を託せばいいのでしょう」
時々彼女は声を詰まらせた。彼女の行き場のない複雑な心情を越えの震えから十分良く取ることが出来た。
ビジネスホテルの三階の小さな部屋である。小四郎は立ち上がり、窓から外を眺めた。
夜は明けていた。
部屋の中にはエアコンの冷気が流れていたが、自分のアパートの部屋でもするように窓を少し開けていた。十センチほど空いただけだ。まだ五時半だというのに、生暖かい熱気が忍び込んで来ていた。小高い丘のような所には樹木が茶褐色に見えていた。その先には志摩の海があるのを、彼はよく知っていた。
南小四郎は朝九時半に駅前にあるレンタカーを借り、座神に向かった。
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