第二十五章 ぬいの語りのはじまり
その頃、
「ぬいさん、聞いていいですか?」
智香は箸をおいた。
青田ぬいの準備してくれた朝食に手を付ける前に、
「ひとつ、いえ二つ聞きたいことがあります」
といい、背筋を伸ばした。志摩にやって来た理由の一つは、
「ここに来たのは、お母さまが育った家を見てみたかったからです。ここは、お父様のお家ですね。明日にでも、お母さまが生まれ、育った家に行って見ようと思います」
ぬいは頷いた。眼は、智香から逸らさない。驚いているというより、その時が来た、という表情をしている。ぬいのその表情から悲しさが、読み取れた。それに、何かに怯えているふうにも見えた。
(気のせいかしら!)
そうとも、智香は思った。そして、
「もう一つ、どうしても知りたいことがあるのです。あんなことがなかったら、何も考えなかったと思います。ずっとお母さまと楽しい日々を過ごしていたと思います」
焼いた鯵の香りが鼻を快く突く。座敷机の上には海苔、卵焼きが並び、みそ汁が椀の中で微かに揺れている。
ぬいは立ち上がり、智香の前に来た。そして、座った。
「はい・・・何でしょうか?知っていることは、何でもお話をいたします。でも、先ずお食べください。智香様のお口に合いますかどうか。味は、真奈香様の小さい頃と同じ味付けです」
ぬいはまず食べるように促した。この人は何でも答えるという気持ちのようだ。昨日からのぬいの態度で分かっていた。かえって、その気持ちが・・・なぜかしら切羽詰まった緊張感を抱かせた。
はい、といって、智香はみそ汁を一口飲んだ。少し熱かったが、この古い家の中のひんやりとした空気が、彼女を心地よい気持ちにさせた。智香は椀を座敷机に置いた。ことっと音を立てた。
(この音・・・聞いたことがある!)
智香はゆっくり座敷の中を見回した。
「お母様・・・」
智香は小さく呟いた。そして、その眼は、またぬいに戻った。
(この人は、私に何かを訴えようとしている。それは・・・)
何かが分からない。しかし、もう時間がないのです・・・眼が潤んでいる。
「もう一つは、何ですか?」
というぬいの言葉が返って来た。
しばらく、ここでは英虞湾からの波の音しか聞こえなかった。
「お父様とお母様は、ここで・・・どのような生活をしていたのですか。その中で、どのように知り合い、愛し合うようになったのですか?今こそ、それが知りたくて、知るべきだと思い、ここ座神に・・・お母様の生まれ育った所へやってきました」
智香の耳には、人の足音が聞こえていた。聞き慣れた足音だった。
(みんなが、やって来る。あいつも・・・ここにやつてくる)
来ないで、みんな来ないで・・・それに、今、何かに怯えているように見えるぬいにも気になっている。ぬいさん、何に怯えているのです?
(何が起こるの!お母様、何が起ころうとしているのですか?その時、あたいは何をすればいいのですか?)
智香は、身体の中に湧き上がって来る震えを懸命に押さえている。
座神に来る前、智香は砂代叔母さんに聞いていた。
彼女の聞いたことに、砂代は少しの躊躇もなく、話し始めた。いつかは話さなければならないと覚悟をしていたのかもしれない。
しかし、砂代は、
「智香は知らなければならないことです。いずれ、その時が来るとは思っていました。お義姉さんが亡くなってしまい、兄も亡くなり、話せるのは、私だけ。私は、すべてを知らない。知っていることだけを話すからね。それ以上のことは、志摩にいるぬいさんに、聞いて」
といった。
「いいわね」
念を押した。
智香は、
「はい」
といった。
その日砂代から聞かされた話は、初めて聞くことばかりだった。いずれ真奈香から聞かされることなのよ、と砂代はいった。聞き終わった後、智香はそうなのかも知れないと思った。
お母様から真実の答えを聞きたかった、と思う。そう思うだけで、智香の胸が締め付けられた。
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