十一章  五十嵐家の宿命・・・

泣き崩れてしまった青田ぬいは、なかなか立ち上がろうとしなかった。しばらくすると智香を見上げ、目の前に立つ少女をじっくり見つめた。

「本当に・・・」

本当に・・・何を言いたいのか智香には分からなかった。ぬいは、その後の言葉が出て来ないようだった。

智香は屈みこみ、ぬいの肩に手を置いた。細い肩だった。この人がこれまで生きて来た苦しみ、苦労のようなものが、その細い鎖骨から伝わって来た。父六太郎は毎年ここ志摩に来ていたようだが、ここまで足を延ばしたのだろうか、智香はふっと考えたが、

(どうだろう?)

智香はぬいに父六太郎のことを聞こうと思ったが、言葉が出て来なかった。でも、ぬいの智香を見つめる様子からは、六太郎は座神に帰って来ていなかったようだ。母真奈香は猶更ここに来れる筈がなかった。母は、智香の前から姿を消したことは一度もなかったのである。

しかし、ぬいは二人が死んだのは知っているようだった。もうあの二人がここ座神に帰って来ることはない。そう思うと、智香は胸が詰まり悲しくなった。ぬいにして見れば、特に真奈香にはもう会えないと諦めていていた時に、智香が帰って来たのである。だからこそ、ぬいの喜びが一層大きかったのだろう。

少し前まで、真奈香がいつ帰って来てもすぐに生活が出来るように、ぬいは五十嵐の屋敷を管理していたようだ。その真奈香はついにこの屋敷に帰って来れなかったが、娘の智香が帰って来たのである。

「泊まって行って下さい。泊まって下さいますね」

ぬいは涙声で言い、頭を下げた。

「あなた様に話したいこと・・・話せばならないことがあります」

「はい、そのつもりで来ました。お願いします。あたい・・・いえ、私も聞きたいことがあります」

智香は優しく微笑んだ。


その夜、ぬいは智香に自分の知っているすべてを話そうとしているのが、何かに追いつめられた表情からも、それが窺い知ることが出来た。いくら話しても話し足りない。真奈香さまの血を受け継いでいるこの方に話しておかなくてはならない。ぬいは自分の命が、この先短いのを知っているかのように、智香には見えた。

その夜、智香は眼を輝かせて、ぬいの話を聞いた。

座神の夜は、英虞湾の波の和かな音しか聞こえなかった。智香は、今までこんな和かで静かな夜を過ごしたことがなかった。その静かな波の音が、ぬいの話す声の合間に心地よい気持ちを、智香に与えていた。だが、ぬいの話す内容は、何もかもが衝撃的な内容だった。時々両方の手首がキリきりと痛み、智香は顔を歪めた。

(あいつは、何処かでこの話を聞いているのか・・・)

そんな彼女を見て、ぬいは話すのを止めた。一人でこうした旅に出るのは初めてだったのかもしれない。ひょっとして疲れているのかもしれないと思ったのか、

「年寄りはよくしゃべりますね。今日は、お疲れになったんじゃないですか?今日の所は、お休みになって下さい」

と、ぬいはそれ以上話そうとはしなかった。

智香は驚き、はい、と短く返事をした。

ぬいはゆったりと立ち上がり、腰に手を当てた後、背を伸ばした。そして、床の準備をしに行こうとした。

「ぬいさんは、どうするんでいか?」

智香は老婆を呼び止めた。

「私は自分の家に帰ります」

 「家族に方は?」

 「誰もいません。今は、私一人でずっとこの家にというより、座神に仕えてきました。私の家系は、座神の喜びも悲しみ、憎しみも見てきました」

 ぬいは強張った表情をしたが、智香を見て微かな笑みを見せた。

「ぬいさん、もしぬいさんさえ良かったら、今日はここで同じに休みませんか?」

ぬいはちょっと驚いた風だったが、いいんですか、と言って、智香の誘いを素直に受けた。智香は年老いた人を、これほど身近に感じるのは初めてだった。ぬいの傍にいるだけで、母真奈香にない親近感と安心感は、彼女にとって初めて味わう不思議な感覚だった。

智香はぬいと風呂に入った。

「申し訳ないですね」

と言って、ぬいは智香と湯船に浸かった。ぬいの老いた肌の深い皺の刻みは、何処かにもの悲しさが漂っていた。

「これ・・・」

と言って、智香は両手首の黒い痣を、ぬいに見せた。あまり自分から見せたことかない。

「あっ、これは」

ぬいの目は曇り、頬が小刻みに震え出した。

「お母さまにも同じ痣がありました。でも、右手首だけでした」

ぬいは智香の手を取り、黒い痣から目を離さずに、

「知っていますとも。私は、真奈香さまも真奈香様のお母様も、右の手首に黒い痣がありました。私は目にしています。源治さま・・・五十嵐の家系の女子に、しかも生まれた初めての女の子だけに受け継がされた吉佐の怨念なのです。それなりの理由があり、五十嵐の家系に、この四百年余の間悲しい宿命を背負らされて来ています。そして、ああ・・・」

ぬいは言葉を詰まらせて、智香の両手を握り締めた。

「私・・・聞いています。聞いていました。五十嵐の家系の悲しい宿命は、両方の手首の黒い痣の女の子が生まれた時、終わると」

ぬいは智香の両方の掌に顔を埋めた。

「うっ・・・」

ぬいの嗚咽は喉の奥から絞り出されていた。

「ぬいさん」

智香にはそれ以上の言葉は出て来なかった。ぬいは顔を上げ、智香を見つめた。ぬいの顔からは生気が消えてしまっていた。

「話してください。そのために、あたい、いえ私はやって来たのです。この黒い痣に、どんなに恐ろしい秘密が隠されていても、私は、驚きません」

「吉佐の怨念・・・」

ぬいは力なく呟いた。

「き・ち・ざ・・・」

智香は一つ一つの言葉を噛み締め、体の中に押し込めた。彼女は気持ち悪くなり、吐きそうになった。

(吉佐・・・)

智香は初めて聞く名前だった。吉佐の怨念・・・洋蔵とどういう関係があるのだろう。洋蔵があたいに向けて言った、四百余年前の怨念と関係があるのだろうか?

(怨念・・・)

けっして聞いて楽しい言葉ではない。母真奈香が一人の時見せていた物悲しい様子を、智香は思い浮かべた。彼女が一番嫌いな母の姿だった。

「どうしました?」

ぬいは口をぱくぱく動かし、何かを言いたそうにしていた。

「お、お話しします今。時間がないかもしれなせん。あなた様は知っておくべきことなのですから。どうやら真奈香様から何もお聞きになっていないようですね」

智香はゆっくり頷いた。

「真奈香様は、どうやら五十嵐の家に受け継がれて来た怨念を、自分で終わらせたいとお思いになっていたのかもしれなせん。でも、智香様の両方の手首の痣に気づき、いずれ話さなければならないと思って見えたはずです。あなた様が背負らされた宿命を、無くそうと考えられたのかも知れません。自分がその宿命の犠牲になって、この子を助けてやりたいとお思いになられていたのかも知れません。のばしにのばしていた怨念の宿命を、やはり話さなければならないと思っていたその前に、何があったのか詳しくは存じませんが、真奈香様は亡くなられました。もう私しか、受け継がれて来た五十嵐の家系の宿命を話すものがありません」

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