第七章   やっと座神に・・・

(どこに座神が・・・)

と智香は右に左に目をやり、集落を探した。国道の道が東西に走っているだけで、家々が見えない。道路の両側は海の潮風により成長が止まっている樹林があるだけだった。バスはさらに西の地域に向かって行った。左は太平洋、右には複雑な英虞湾の地形が見える。近くを二三回行ったり来たりして、座神と描いてある小さな立て看板を見つけた。車一台がかろうじて通れる幅の地道があった。舗装はされておらず、歩くもしんどそうな道だった。ここから下に降りていくのだろう。家が見えないか、背伸びしてみるが、智香の背くらいの樹木だが、何も見えなかった。

この凸凹道を、智香は歩き出したが、歩き難く、彼女は恐る恐る足元に注意しながら降り始めた。途中かなりの急坂があり、何だか今までいた現実の世界とは違う処に入って行くような感覚があった。しかし、彼女には確かな感覚で、この先に座神があるような気がした。そこは、父六太郎と母真奈香が生まれて育った場所ある。智香はそう信じたかった。

母真奈香はこれから行く座神のことを何も話してくれなかった。智香には、なぜなのかわからない。彼女は立ち止まって英虞湾の海を眺めた。降りて行くに従って、少しずつ家並みや英虞湾の姿が見えて来た。絵・・・油絵のように気持ち悪くなるほど濃い緑に染まっていた。

「あれは・・・?」

智香はその海の中に岩のような塊が突き出ているのに気づいた。海の中から鳥のような生き物が居間にも飛び出そうとしていた。どうやら今の時間は干潮のようで、岩の地肌がはっきりと見えていた。相当に海水は低くなっていて、もう少しでその場所だけ海水が完全になくなってしまいそうに見えた。そこの海岸はそういう場所なのだろうか?その時、

「何・・・?」

何か岩の塊りのようなものが見えた。ただの岩ではなくて、人の形に見えた。そして、そのずっと先に大きく開いた穴が、智香には見えた。彼女は眼を大きく見開いたが、その穴は視界からすぐに消えない。彼女は眼を強くこすると、もう一度見直したが、やはり穴がはっきりと見えていた。だが、彼女は、それが何なのか、それ以上形成することは出来なかった。

智香は再び座神目指して歩き始めた。どれだけか降りて行くと集落がはっきりと見えて来た。潮の香りが、智香の小さな鼻を突いてきた。

(ここか・・・ここね)

智香はこう感じた。彼女には意識としての記憶があるはずはなかった。でも、彼女の心の片隅に微かに懐かしい香りの匂いがしたような気がした。それは、

(母の匂い・・・)

なのかもしれない。

集落の入り口の来ると、智香は大きく深呼吸を二回した。潮の香りは一層強く、彼女の鼻を突いた。一瞬気持ち悪くなったが、すぐにそれはなくなった。母真奈香の乳の匂いが、智香の鼻の中に突き刺さってきた。智香は、ふっと微笑んだ。

「お母さま・・・」

智香は周りをきょろきょろした。しかし、そう呼んだ母の姿は見えなかった。気のせい・・・と彼女は自問した。

「ふっ!」

智香は、今度は苦笑いをした。ここに母がいるわけがなかった。もう、この世界にはいないのだ。彼女は、

(あたいは何を考えているんだろう)

とまた苦笑した。座神の集落中に入り歩いて行くと、時々人とすれ違う。なぜかみんな年老いている。誰もが智香を見て、驚いている。みんなが頭を深く下げて、智香の前から逃げるように行ってしまった。彼女は少し首をひねった。あたいは、ここに初めて来た。それなのに、ここの誰もがあたいを知っているような素振りを見せていた。あたいの気のせいなの!

座神の道は細く入り組んでいる。始めて来たものには、道を迷わずにはいられない。座神の湾に沿って一本の道が走っているだけで、車がかろうじて通れる幅があった。そこから木の枝のように伸びた細い道がくねくねと走っている。船から上がった人が一人か二人通れば十分な道幅である。来る前に叔母砂代から、座神での父と母にどのようなことがあったのか聞いていたが、詳しくは知らない、と言っていた。真奈香の生まれた五十嵐の家がどの辺にあるのか、簡単な地図に描いてもらっていた。それでも道が複雑すぎて良く分からない。

智香は前から歩いて来た六十過ぎの女の人に聞くことにした。

「あのう・・・」

彼女は言葉を詰まらせた。肌が黒く光り、顔には深い皺が程よい輝きを呈していた。老婆は足を止め、智香を睨み付けた。やはり、この老婆も智香を見て、驚いた視線を向けた。

「なんじゃ・・・」

智香は頭をひょいと下げた。老婆の目が智香の持っている紙を見ていたので、隠した。

「五十嵐の家はどう行ったらいいのでしょうか?」

すると、老婆は智香を頭の先から足まで見た後、老婆の顔が無造作に振り返った。老婆は何も言わない。そっちの方に行け、ということなのか。智香は、有難う御座いますと言って、頭を下げた。

老婆の見た方には小高い丘が見え、その斜面には大きな家が見えた。砂代から、座神には大きな家が二つあり、両方とも網元の家だという。砂代は座神行って、聞けばすぐ分かると教えてくれた。老婆が見た家が多分五十嵐の家に違いないと思った。もう一つは、父六太郎の大伴の屋敷であろう。ちょうど五十嵐の屋敷とは向かい合う位置にあると聞いていた。

智香は眼を五十嵐の屋敷とは反対側にやったが、そのような屋敷は目にすることは出来なかった。

五十嵐の屋敷まで細い道が続いた。しばらくすると、大きく門構えの家が見えて来た。門の前で立ち止まり、屋敷を見上げるように眺めていると、

「何か御用ですか?」

と、彼女の背後から声を掛けられた。智香は肩を震わせた。初めての土地で少し怖さも感じていたのである。振り返ると、智香より少し高いくらいの老婆が立っていた。

「あっ」

智香は叫んでしまった。この人が青田ぬいに違いないとすぐに分かった。年齢はさっきここまでの道を聞いた老婆よりもっと老いているように見えた。砂代から聞いていたが身長は高くなく、右耳の下に大きな黒子があると聞いていたが、確かに黒子があった。

「あたい・・・智香です。大森智香。母は・・・真奈香です」

智香は早口で話した。どのような表情をしていいのか分からなかったので、じっと老婆を

みたままだった。ちょっと間を置いて、

「五十嵐真奈香の娘です」

といって、深く頭を下げた。大森ではなく、母の旧姓の五十嵐を使った。砂代は、ひょっとしてあなたのことは知らないかもしれないと言っていたから。

「あっ!ああ、そうです、そうですね。真奈香様に良く似ていらっしゃいます。私の記憶にあるのは、あなた様が生まれて間もないころです。大きくなられましたね。ああ・・・本当によく来て下さいましたね。ああ・・・ああ、聞きました、聞きましたよ。何処からともなく耳に入ってきました、真奈香様のこと・・・」

青田ぬいは泣き崩れてしまった。

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