第六章 ある出会い
そこにいたのは、智香より四つか五つ年上に見える少女だった。彼女は智香を睨み付けていた。周りの志摩の風景に圧倒されていたため気付かなかったのか、それとも何処からともなく突然現れたのか智香には分からなかったが、少女が幻でもなくそこに立っていたのは事実だった。
「ねえ、あんた。よそ者だね。遊びに来たのかい、家族と・・・」
と言って、智香に近付いて来た。
智香は顔色を変えることなく、少女から目を離さなかった。
「何処から来たの?」
感情のないぶっきらぼうな言葉だった。
「栗谷町」
「栗谷・・・何、何処にあるの!」
少女は目を見開き、驚いている。
「栗谷・・・まあ、いいや。ここに、何をして来たの?」
智香は一瞬答えるのに躊躇した。無視しょうと思ったけれど、相手は智香の前に立ち、これ以上前には行かさない態度を見せた。智香は、今まで友達が少なく、こんな時どう対処したらいいのかわからなかったが、彼女は卓にも美和にも隠しごとなく話して来たから、
「遊びじゃないです。これから座神に行くんです。お母様の生まれた所が、どんなところか見に来たの」
と二人に対するのと同じように素直に答えた。
少女はちょっと驚き、目をきつく見開いたように見えた。
「一人で・・・座神に」
短い髪は耳元でカールしていて、少女の丸い顔に良く似合っていた。なぜか少女は智香を怖い目で睨んで来たが、それでも何処かに優しさを感じたのは智香の気にせいなのか。
「何の用だい、座神なんかに?」
薄い黄色のショウトパンツは、彼女の細いが逞しい見栄えのする足をより美しく見せていた。
「死んだお父様とお母様の生まれた家を見ておきたかったから」
「あんた、自分の親を、お父さま、お母さまと呼んだね。二人とも死んだの。ふん、あたいとこ、まだ生きているけどなあ。まあ、死んだと同じようなものだけどね」
少女は白い歯を見せ、笑顔を作ると振り向き、誰かに向かって手を振った。智香がその方向に目をやると、白いボディの車がこっちに向かって来た。白い色が志摩の太陽に反射して、眩しい。でも、近くに来るにつれて車の白いボディの塗装の光沢は消え、灰色に澱んでいるのが分かった。二十二三才の男で縮れた髪は肩まで伸びていて、小さな頭の後ろで縛っていた。窓から顔を出し、少女に向かって手を挙げた。
「待って、行くよ」
車が近くに止まると、少女は智香を睨みながら、彼女の一回りをした。
「あんた、あたいに用事がなかったら送って行ってやるんだけどね。こう見えても、私たち、今結構忙しいんだよ」
彼女がこう言うと、男は、はっはっと笑った。彼女は車に乗ると、窓から体を乗り出して、あんたとはまた会うような気がするね、と言葉を残して、智香が歩いて来た方に行ってしまった。
(バスの時間まで、あとどのくらいあるのかな)
と智香は考えたが、今彼女が目にする英虞湾全体の光景を見ていると、ここから動く気になれない。真珠筏が点在していて、濃い青緑の海水には一筋の波も立っていない。そこだけが静寂を守っていた。一九九八年の九月二日の深夜は、こんな光景ではなかった筈。十二歳の空想はけっして楽しい映像ではなかった。彼女は砂代の知る範囲で真奈香と六太郎の志摩での様子を聞かされていた。その日、紀伊半島に上陸した台風は、志摩を直撃したのだった。その時の真奈香の不安と恐怖を考えると、智香は胸がぎゅっと締め付けられる痛みを感じた。
「うっ、痛い!」
智香は顔を歪めた。余りの痛さに、彼女は手首の黒い痣に目をやった。
(何で、こんな時に・・・)
といら立ちを覚えてしまう。今自分が置かれているのは、
(あいつ、洋蔵は何て言った・・・四百余年前の怨念といったが、あたいには何なのかさっぱり分からない)
怨念って・・・何があったの?あたいに、何をせよと言うの・・・。智香は毒づく。それにしても、このいまいましい痛みは、切なく悲しい痛さだった。
「しつこい奴らだ」
五郎太は脇に抱えた孝子が動いたので、一度抱え直した。その拍子に孝子は眼を開け、気がついた。
{むっ}
五郎太は眼を尖らし、顔を歪めた。こんな時に目覚められたか、
「目を覚まされましたか?」
と声をかけた。彼の声の抑揚は孝子を敬っているようだ。
「しばらくここを動かないで下さい。大丈夫です、すぐに終わりますから」
と、孝子を地上に下ろした。
何時しか私の夢に住み着いていたこの人は、
(ここ・・・)
と言った。この人は何時からか孝子の夢の中にいた。
(ここは・・・何処?)
孝子には初めて目にする景色だった。ここは確かに志摩だったが、周りの情景は暗く陰鬱な雰囲気に漂っていた。孝子はその場に座り込んでしまった。意識ははっきりしていたのだが、今の状況が認識出来ない。周りをきょろきょろと見て、彼女は何かを探していたが、何を探し求めているのかわからない。
孝子はもう一度自分の抱いた疑問を問うた。あの体の小さな人は・・・誰?孝子は自分の記憶の中を辿ったが、何処にも彼のような存在はいなかった。ただ・・・夢の中以外は。でも、
(何かしら強い愛情を抱いてしまうのはなぜかしら!)
孝子は興味を持ったまま小さな彼を見ている。そして、あと二人の大きな人が誰なのかも分からない。
「誰・・・」
今彼女には、怖いという感情すら抱けない。
「青龍・・・」
白虎はそれ以上の掛け声はかけない。白虎自身もそうだが、青龍も自分たちがここにいる理由をよく自認している。まわりくどい方法だったとは思わない。智香という少女が大きな宿命を背負っているのは、彼らは知っていた。この時代に、智香のような宿命を背負わされた人が集まる。避けられない宿命だったのだ。幼い心の彼らには過酷なことなのだが、仕方がない。
「来るか!」
五郎太は、最初に動いた青龍の動きを追った。こやつらはもう一ついるはずだ。名前は忘れた。どうでもいいことだ。俺一人に、この二人か・・・十分だというのか。五郎太は声を出して嘲笑った。
「ふっ」
白虎は唇を噛み殺した。
「俺たちをそんなに甘く見てもらっては困る。あの時取り逃がしたのは、お前の力が勝っていたのではない。俺たちがお前を甘く見て、油断したに過ぎない。だから、今度はじっくり時間を掛け、この時代でお前が来るのを待っていたのだ。予想通り、お前は来た」
この白虎の罵りに、五郎太の幼く未熟な感情を乱した。だから五郎太の性格を見抜いている白虎の計略か。案の定、五郎太は、青龍の動きから一瞬目も気合も逸らした。
「うっ、くそっ」
五郎太の苛立ちだ。やはり、子供みたいに短期な性格のようだ。
青龍は五郎太の背後から襲い掛かり、体に巻き付いた。その姿は龍そのものに見えた。五郎太の小さな体を青龍によって完全に覆った。ここは志摩の夏の空。その爽やかな空の下で、この奇妙な闘いは始まっていた。五郎太の体は完全に青龍によって覆い尽くされた。白虎は眼を凝らして、ことの成り行きを見ている。
どうするね、青龍のその力はそう簡単に破れるものではない。白虎は呟く。まだ完全には終わらない。それは、白虎自身にもよく分かっている。
一二分立った時、白虎は少し肩の力が抜ける気がした。青龍の勝ちだ、と確信したのである。だが、
「青龍!」
白虎は奇声を発した。青龍が体の一部が微かに動き、覆い尽くしたものが綻び始めたのを、白虎は眼にしたのである。
「ちぃ!」
白虎は牙を剥き、五郎太に襲い掛かっていった。
「どうなる?」
里中洋蔵は、この闘いを見ていた。英虞湾の海の色は青緑だった。多分あの位置から見ると緑には違いないが、彼らにその色を見て感慨に耽ることはない。今洋蔵に体の震えはない。どっちが勝っても俺には関係ない。ただ、あの人が勝つと・・・と思うと、彼の体は震えだす。止まっていた二つの体が変化をし始めたのに、洋蔵は気づいた。
洋蔵は五郎太を恐れている。
そして、もう一人この闘いを見ていた者がいる。孝子の父である津田英美も見ていた。彼は体を小さくして漁船の陰に隠れていた。
(孝子・・・なぜ、孝子がここにいる?)
英美は口ごもった。この状況を目にして、父とて何一つ納得出来ることはなかった。彼は体を低くして孝子の方に近づいて行った。
「孝子」
英美は小さな声で我が娘に声を掛けた。この小さな声で孝子に聞こえるとは思わないが、そんなに大きな声を出すわけにはいかない。
孝子の反応はなかった。というより、表情は彼が知る娘とは丸っきり違っていた。まるで、彼にはこんな経験はなかったが、娘が催眠術にでも掛かってしまっているように見えた。
(いや・・・)
そんな生易しい変化ではない。顔かたちは娘の孝子だが、全くの別人に見え、感じた。英美は、
「孝子・・・」
と叫びたくなった。しかし、目の前にいる洋蔵が、彼のその衝動を抑えてしまった。洋蔵は英美が傍にいるのを知っている。洋蔵が英美を志摩に呼び寄せたのである。 この人は俺が勝手に動くことを嫌う。
(俺を意のままに・・・)
洋蔵は動かしたいようだ。しかし、
(俺は嫌だ)
英美が人の親としての思いが、洋蔵に対して反旗を翻した。
「たかこ・・・」
孝子は聞き覚えのある声に応えた。振り向き、父英美の姿を確認した。
大森智香が座神のバス停に降りた時には十二時半を回っていた。座神は観光地ではないようで、降りたのは彼女一人だった。
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