第五章 南小四郎警部も、志摩へ・・・
「あの子・・・ほら、智香っていう女の子、どうしています?」
北川育代は目の前に座る男の顔を覗き込んだ。愛想のないぶっきらぼうな男と思うが、彼女にはそこがたまらなく新鮮で好きだった。彼女にとって初めて感じる男らしさの雰囲気だった。
南小四郎の頬がぴくりと動いた。しかし、口は閉じたままだった。
(あの子・・・あの子とは・・・)
小四郎は眼を上げた。そこには育代がいた。そして、今いる場所が大衆食堂たぬき屋だと気付いた。彼が考えていたのは、あいつ・・・六太郎が妻の真奈香を殺した事件のことである。いや、まだ六太郎が殺したと断定されていない。
(何も解決していない。実際、浮かび上がってこない。あそこに行くしかないのか?)
彼は・・・決めかねていた。
「ねぇ、聞いてる?」
育代は小四郎の腕に手を置いた。男の腕の感触は生暖かった。彼女の声には甘えたいような抑揚があった。小四郎は育代を見つめた。
「聞いてるよ。あの子、智香だね。大森六太郎の娘・・・」
育代は小四郎から目を逸らさない。
「あの子には、どこか哀しい影が見える。あんなに幼いのに。十二歳らしい女の子だ」
小四郎は育代を見て、微かに頷いた。死んだあの子の母親はとてもきれいだった。信じられないくらいきれいな死に顔をしていた。あの子の母は死んだと育代にいったが、あいつ・・・夫の六太郎に殺されたとは口に出していない。
「あの子は、志摩に行ったようだよ。志摩・・・彼女の父六太郎の育った所だ。そして、あの子の母親真奈香もそこで生まれた、多分」
育代は空になったグラスを持ちカウンターに行き、すぐにグラスに一杯水を入れて戻って来た。小四郎の首から汗が滲み出ている。エアコンは掛かっていたが、この男には効いていないようだ。ここは名古屋であり、まだ夏の真っ盛りだった。蒸し暑い時間はまだまだ続く。
「あの子、大丈夫かしら?」
育代はまた小四郎の前に座った。
小四郎は育代をにらんだ。怖い顔である。
(この人は・・・)
と彼は訝った。
「何が・・・?」
「何が・・・なのか、私にも分からない。なぜか、あの子ことが気になって仕方がないの。心配なの」
小四郎は頷いた。
(俺も・・・)
彼もそれなりに心配していた・・・というより、親が一人娘を心配するような気持ちだった。まだ六太郎の一件が解決していない、事件の何にも分かっていない。入り口にすら見つけていなかった。あの子が志摩に行った理由は、今のところ俺には分からない。しかし、俺自身もあっちに行ってみる必要がある、
(この事件の真相はあそこにある)
前々から、そう思っていた。小四郎は育代を見て、
「俺も行ってくる。まだ事件は終わっていないから」
と短く言った。
「えっ、何処へ?」
育代はこう言って、この男を見つめた。
(この人は、何処へ・・・何が・・・いつも言わない)
だから、こっちが推測するしかなかった。
(多分、志摩?)
この後、彼女は、
「はい」
と答えた。
それ程この人のことを知っているわけではない。ただいつの間にか、この人のことを理解しているのは、いや出来るのはこの世の中で私しかないと自負するようになっていた。
(この人は私の気持ちを読み取ってくれているのかしら?)
彼女は少し首を振った。そして、苦笑った。彼女は口を手で押さえた。この人、私のこの気持ちを汲み取ってくれないかもしれない。でも、それでも今彼女は満足していた。
「待って」
育代は店を出ようとしている南小四郎を呼び止め、
「あの子に会ったら、また目玉焼きを食べにおいでよと言っていたと伝えて下さい」
と言った。
「あっ、ああ・・・」
と、小四郎は答えて、たぬき屋を出て行った。北川育代が見送りに店の外に出たときには、小四郎はもういなかった。その代わり、彼女は堪らないほど知り尽くしている名古屋の空を見上げ、目を歪めた。その後、南の彼方にあると思われる志摩の空に青さに驚いた。まだ夏だったのである。
大森智香は大きな橋のたもとに来ると、足を止めた。
《賢島大橋》
と、橋の名前が刻まれていた。
大橋の真ん中辺りに来たが、見上げるような大きな山はなく、眼下に広がる濃緑色の英虞湾が、彼女の気分を落ち着かせた。と同時に、彼女の心と体に重く圧し掛かって来た。彼女の心のどこかで、何かが落ち着かない気分にさせていた。彼女がこれから行こうとしている座神がどんな処なのか、鮮明に思い浮かべることが出来ないからかもしれない。
小高い丘の起伏は小さく、左から右へ波打っている。その丘の向こうに何があるんだろうと想像してしまうが、それよりも起伏の波にそって流されて行く方が心地よかった。英虞湾の群青の海はそこにしっかりと張り付いていた。
「お母さまは、こんな所で生まれ育ったんだ」
と、智香の心を震わせる。心に響く風景ではなく、この地にやって来た人を、絶対に受け入れてくれないという怖さがあった。なぜだか、彼女の心はどきどき動き始めていた。
橋を渡り切った所に大きなホテルが見えていた。その向こうの彼方はくっきりと真に青い空が輝いている。
智香は賢島大橋の中ほどに向かった。そこから見える世界は青と緑が混沌と入り混じっている。この橋の先には、何があるのか・・・。この世界とは無縁と思ってしまう青と緑だけの平安な大地があるのか・・・彼女の創造は途絶え気味になる。
ここがお母様の生まれ育った志摩・・・その志摩の青い空の下に、固く塗り込められた濃い青と緑の海は、一瞬の静寂の中で動きを止め、息さえしていないように感じられた。苦しそうではなく、この深い底からは微かな刺激でも爆発してしまいそうな息吹が聞こえて来た。一瞬このまま歩き続けていいのか迷ったが、何かに誘われるまま、彼女は橋の真ん中辺りまで歩いて行った。
「ああ、ここは・・・」
智香はそこから見える光景に言葉を失ってしまった。彼女が時々夢の中に出て来る天空に浮かぶ橋に似ていた。
(この橋の彼方には何があるの?)
(何が待っているの?)
彼女はその彼方に眼をやろうとした。
この時、彼女の夢は途切れた。彼女の目の前を小さな風が過っていったのを感じたのである。その小さな風は、智香の乱れた気を大きく揺らしていた。
「誰!何か言った?」
彼女は眼を擦って、自分の周りを見回した。
(これは・・・ひょっとして・・・ラン)
しかし、彼女の言葉はこれ以上出て来なかった。
(あの子はもういなか・・・った)
そして、今度は、
「あっ!」
智香は小さな叫び声を上げた。もっと強い力に引っ張られるように振り返った。
「誰?」
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