第三章 ここが・・・志摩の地だった
言葉にならない苦痛が智香の全身に襲い掛かり、彼女は顔を歪めた。特に両手首の黒い痣が激しく震え出し、手首を締め付けている。
「チッ」
彼女は舌を鳴らした。
(あいつ、何処にいる?)
智香はあいつの気配を窺うが、その感覚がない。
(この痛みの苦痛が何なのか、彼女にはまだ分かっている。あいつの言うように、怨念なのか・・・やはり、あいつはあたいを追って、ここに来ている。何処かであたいを見ているのか)
智香は手首を見た。黒い痣は、彼女の手首にあり、生き物のように波打っていた。彼女の細い手首は今にも引き千切られそうな感覚に襲われていた。ずっと気になっていた黒い痣だった。一つか二つの時、得体の知れないお化けかなんかがあたいを苦しめているに違いない・・・智香は小さいながらもそう感じていたし、あたいはいつも怯えて怖がっていた。
十二歳の時・・・まさに、今・・・あいつが智香の前に突然現れた。生ける生の存在として・・・。里中洋蔵は、
(黒い怨念の呪い、四百余年前の・・・)
洋蔵はこう言い放って、彼女の前に現れたのである。
あたいには何のことなのかさっぱり分からなかったし、母真奈香に尋ねてまでもその黒い怨念の呪いを知りたいとも思わなかった。でも、この黒い痣があいつの味方かもしれないと知らされた。そう思うしかなかったのだ。あいつが近くにいる時、あいつと闘い攻め続けている時、彼女を苦しめた。
やがて、あいつが、
(志摩に来い)
と誘ったのだ。この痛みの原因が、ここ志摩にあるに違いない。母真奈香が育ち、父六太郎と知り合った志摩の青い空のしたに・・・。
彼女の眼に青い光は容赦なく突き刺さってくる。黒い痣が、いつもと変わりない不気味さを帯びて彼女の腕に絡みついていた。
(忘れていた・・・)
今も、ずっとあたいの手首に住み着いていたのだ。全然何も変わっていない。逃げ切れないと分かっているのに、逃げていたのだ。あいつがこの近くに来ている、この志摩であたいを待っていたのだ、ここにいる、黒い怨念の呪いが、あたいに襲い掛かってきている。
「うっ!」
智香はまた顔を歪めた。
(洋蔵が・・・いる。何処にいる?この近くにいる。あいつが志摩に来いと言ったのだ。あたいも、それを受け入れた。今、あたいを何処かで見ているに違いない)
そして、
(あぁ・・・孝子は・・・)
あの五郎太と一緒にいるに違いない。きっといるに違いない。その内、五郎太にも会えるだろう。五郎太は孝子に何もしない、智香はそう思っていた。彼女にはその理由がわからないが、確信に近い予想だった。
(五郎太は一体何者なの?)
大森智香は、初めて一人で旅に出た。母の生まれ育った志摩の地を自分の眼で知りたいために・・・。
旅というものではないのかも知れない。好んでこのような行動に出たのではない。そうするしかなかった。まだ母のそばにいたい年齢なのだ。でも、仕方がないんだ、母はもういないんだから。智香が望んだわけではないのに、このような状況に追い込まれてしまったのである。父が母を殺した。今もあの時の光景が、彼女の脳裏に深くこびりついて離れない。誰がこんなことを望んだ。これまで、家を離れる時はいつも母真奈香と一緒だった。好んで、そうしていたのではない。母を誰よりも何よりも愛していたのだから、智香にはそれしか選択の余地がなかったのである。また、それが心地よかったのである。
それまで、彼女は不思議な夢のような世界の中にいた。母真奈香の織りなす奇怪とも言うべき魔術というか手品というか、現実では見ることの出来ない世界が、彼女の目の前で行われた。彼女は自分が特別な世界にいるんだという事実を理解していた。それをちっとも特別でないと思わせていたのは、母真奈香だった。いつの間にか、真奈香が彼女の前で示し見せる世界が、彼女にとって当然の現象に思えた。それは今も変わりない。
一年前、十一歳の時である。母は智香を前に座らせ、
「これから言うことをよく聞きなさい」
と話し始めた。
「明日から、いいえ今日、この瞬間から一年間、一人で行ってもらいたい所があります。それは・・・」
それに・・・母が智香に見せる不可思議世界とは別の世界を知っていた。智香は夢の中で白虎と青龍を知ることとなった。しかもこの大男二人は、彼女の夢の世界から飛び出して来たのだった。初め、二人の存在を、彼女は信じなかったし、彼らの存在そのものを理解出来なかった。
だから、母真奈香には相談もしなかったし、二人の存在を話すことはなかった。母は大きな男の二人の存在を知っていたのかもしれない。白虎も青龍も五郎太を追って来ているようだった。彼女は考えるが、深く考えると現実なのか彼女の想像の世界なのか分からなくなってしまう。
志摩の鵜方駅で降り、改札口を出たとき、彼女は心の中に芽生える高揚を抑えることが出来なかった。それは、ここが母と父が生まれ育った所たからだとき聞かされているからである。
ヤソ少年、いや真奈香の式神のヤソと別れてからは一人になった。ぼんやりとした気分だった。何をしていいのかわかない。
初めて一人で旅に出たのだ。母真奈香が生まれ育った場所ではあったのが、智香は初めて降り立った。どっちに行ったらいいのか目をきょろきょろさせたり、体を右に左に動かし、落ち着きのない時間の中をただうろうろするだけだった。
(誰!)
智香は振り返る。誰かに見られているような気がした。
何か・・・人ではない・・・洋蔵・・・違う。そんな気配ではなかった。
(誰もいない)
今は・・・
(何時なの?)
時間の感覚が全く取れていない。鵜方駅の時刻表の横にある時計は、午前十時を六分ばかり過ぎた所だった。名古屋を出て、三時間も掛かっていない。
「ともか・・・」
智香は、聞き慣れた声を聴いたような気がした。彼女はその声に誘われるように・・・何かに誘われるように空を仰いだ。
「一矢様・・・いや、お母様・・・」
だけど、視線の彼方には誰もいなかった。彼女は青い空の眩さに目を閉じた。いきなり透き通った青い空が、彼女の体に覆いかぶさって来た。彼女は快い痛みを感じ、そのまま眼を開け続けた。
(叔母さま・・・)
智香は砂代に黙って出て来た。
「あなたは志摩に行った方がいい」
と、砂代は進めてくれていたに。
その時にはもう智香の意思は決まっていたのだが、彼女は砂代にはっきりとは宣言をしなかった。
あたいがいなくなって、叔母さまは、志摩に行ったのに違いない、と思っているに違いない。きっとあたいの気持ちを理解してくれているはず。
鵜方駅前のロータリーがバスの乗り場になっていた。高校生や大学生のように見える男女が何人か歩いていた。ここは、普段からこのような光景なのか、彼女は判断できなかった。
見た感じ、明らかにこの志摩の生まれでない大学生らしい男女がぶらつきながら、彼女の方に近付いてきた。
偶然なのか、背の高い男の目と合った。睨み付けられているような怖さがあり、彼女は怯えを感じ、
(ドキッ!)
慌てて目を逸らした。
彼が笑ったような気がした。二人が車で来たのか電車で来たのかわからないが、何かを探しているように見えた。今日は水曜日ということもあるのか駅付近の人はそれ程多くはなかった。道を急ぐ人はなく、ゆったりと歩いていた。多分観光客がほとんどなのだろう。大阪や名古屋の人が多いようだ。しかし、ここは終点ではない。観光客の多くは終点の賢島まで行く。鵜方駅の改札口から出てくるのは、ここ志摩で暮らしている地元の人が多かった。歩き慣れた足取りで、改札口を出た人の多くは立ち止まることなく歩いていく。ロータリーには車が三台駐車しているだけだった。
濃い紺色の制服を着ている人が、バス乗り場をきょろきょろさせながらぶらついている。係員に違いない。丸っこい体をのそのそと揺らしながら歩いている男の人に呼び止めた。田舎臭い雰囲気が、身体中から十分醸し出していた。
座神に行くにはどこから乗ればいいのか尋ねた。
「五番線だけど、こっちだよ」
というと、手でその方向を指した。その係員は智香の先を歩き出した。どうやら案内をしてくれるようだ。
智香は係員の後を付いていった。彼は智香の顔を見つめると、
「君は、志摩は初めて?」
と、聞いてきた。智香は少し頷いた。
「そう。君は、いくつなの?」
智香は返事にちょっと躊躇したが、十二歳ですと答えた。
「一人で、来たのかな?」
智香は頷いた。バスの駐車場の係員は不審な目を、彼女に向けた。そして、彼は続けて言った。どうやら一人の彼女を心配しているようで、彼女からこのざわざわとした気持ちを安心させてくれる言葉が欲しいように見えた。
「君が行こうとしている座神には、親戚の人がいるんだね」
「はい」
彼女は、今度は声に出した。すると、係員は安心したのか、口の周りに皺をよせ、にこりと笑顔を浮かべた。
智香が不審な表情しているのに気付いたのか、
「ははっ、変な事を聞いたようだね。君のような歳の女の子が一人で来るなんていけないことだから。志摩にはそんなに悪い人はいないけど。今は特にいろいろな人が来ているからね」
その係員はこう言うと行ってしまった。
智香はバスの時間表を確認すると、今度のバス時間は十一時二十五分で、まだ一時間近く待たねばならなかった。彼女は一時間もの間ここで待つことにしようかと迷ったが、せっかく来た母真奈香の育った志摩を歩いて見たいと思った。ここも母真奈香が歩いたのかもしれないのである。
その時、多くの人の気配を感じたので、その方を見ると、電車が着いたようで十数人がばらばらで改札口から出て来た。立ち止まる人もいるが、ほとんどが改札口を出た勢いのまま歩いていく。地元の人たちに違いない。
智香は白いものがいくつか見えたので、志摩の空に目をやった。いくつかの白い紙きれようなものが浮かび、中には楽しそうに飛び回っている白い者も眼に付いた。彼女は満面に笑みを浮かべた。
(お前たちも来たんだね)
と呟いた。それに・・・智香はスカートのポケットに手を入れた。二つの珠があった。白い友達が思い出させたのだった。
(双竜王の珠・・・)
彼女は小さな声を出した。
「行こう」
と彼女は決めた。得体の知れない何かが・・・母でない、洋蔵でもない、五郎太でもない、孝子の助けを求める声でもない、そしてあの人でもない何かが、彼女を呼んでいた。
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