ブラックコーヒーは冷めやしない

 彼は毎朝、同じ喫茶店でブラックコーヒーを注文した。砂糖もミルクも入れず、ただ深く香る苦味を楽しんだ。彼はその味が好きだったが、それ以上に、その味が彼に思い出させる人が好きだった。


 彼女は彼の初恋だった。高校時代の同級生で、美術部の部長だった。彼は彼女に憧れていたが、なかなか話しかける勇気が出なかった。ある日、彼は図書館で彼女と偶然出会った。彼女は本棚の間に隠れて、ブラックコーヒーを飲んでいた。彼は驚いて声をかけた。


「ここでコーヒーを飲んでいいの?」


「ダメだよ。でも、この本が読みたくてね。君も読んでみない?」


 彼女は手に持っていた本を差し出した。それは「ブラックコーヒー」というタイトルの推理小説だった。


「この本はすごく面白いよ。ブラックコーヒーに毒を入れられて殺される事件が起きるんだけど、犯人も動機もわからなくてね。探偵が推理する過程がすごく巧妙で、最後までハラハラさせられるよ」


「そうなんだ。じゃあ、借りて読んでみようかな」


「そうしてよ」


「でも、一つ条件があるんだ」


「条件?」


「この本を読み終わったら、僕と一緒にブラックコーヒーを飲んでくれること」


 彼は思わずそう言ってしまった。彼女は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑って頷いた。


「わかった。約束するよ」


 それから二人は毎日放課後に図書館で会って、本の感想や趣味や夢や恋愛について話した。そして、その度にブラックコーヒーを飲んだ。二人は次第に惹かれ合っていき、やがて付き合うことになった。


 彼らの関係は順調だったが、卒業式の日に突然終わってしまった。彼女は彼に別れを告げた。


「ごめんね。私、海外に行くことになったの」


「海外? どこに?」


「イタリア。美術大学に合格したの」


「そうなんだ。おめでとう」


「ありがとう。でも、私一人では不安だから、君も一緒に来て欲しいの」


「僕も一緒に行きたいけど……」


 彼は迷った。彼も美術が好きだったが、家族の事情で地元の大学に進学する予定だった。彼女と離れるのは嫌だったが、家族を裏切ることもできなかった。


「じゃあ、私たちはここでお別れだね」


 彼女はそう言って、彼にキスをした。それが最後のキスだった。


 彼は彼女の姿が見えなくなるまで、手を振り続けた。そして、涙を流した。


 それから十年が経った。彼は地元の大学を卒業して、美術館の学芸員として働いていた。彼は仕事にやりがいを感じていたが、心の奥底にはいつも彼女のことがあった。彼は彼女に連絡しようとしたこともあったが、どうしても踏み出せなかった。彼は自分が忘れられているのではないかと恐れていた。


 ある日、彼は仕事でイタリアに行くことになった。美術館の展示品の貸し出し交渉のためだった。彼は久しぶりに海外に出ることに興奮したが、同時に不安も感じた。イタリアと言えば、彼女が住んでいる国だった。


 イタリアに着いてから数日後、彼はローマの美術館で驚くべき光景を目にした。そこには彼女の作品が展示されていたのだ。彼女は有名な画家になっていた。


 彼はその作品に見入った。それはブラックコーヒーを飲む女性の肖像画だった。その女性は彼女自身だった。彼はその絵から何かを感じ取った。それは寂しさだった。


「君……」


 彼は思わず声を漏らした。すると、背後から聞き覚えのある声がした。


「あなた……」


 振り返ると、そこには彼女が立っていた。十年ぶりに再会した二人は互いに驚きと喜びと懐かしさと愛情とを表情に浮かべた。


「どうしてここに?」


「仕事で来てるんだ。君は?」


「私も仕事で来てるんだ。この絵を展示するんだよ」


「すごいね。君は夢を叶えたんだね」


「ありがとう。でも……」


「でも?」


「でも、私はあなたを忘れられなかったんだよ」


「本当か?」


「本当よ。あなたも私のことを忘れられなかったでしょ?」


「そうだよ。君のことばかり考えていたよ」


 二人は抱き合って泣いた。


「ごめんね。私、あなたに連絡しようと思ってたんだけど……」


「いいよ。僕も同じだったから」


「本当に?」


「本当だよ。君が幸せなら、それでいいと思ってたんだ」


「でも、私はあなたと一緒にいたかったんだよ」


「僕もそうだったよ」


 二人はしばらく無言で抱きしめ合った。そして、口づけを交わした。


「あなた、今はどこに住んでるの?」


「日本だよ。君は?」


「イタリアだよ。でも、もうすぐ日本に帰る予定なの」


「え? 本当か?」


「本当よ。私、あなたに会いたくてね。日本の美術館に作品を出すことにしたの」


「そうなんだ。それは嬉しいよ」


「私も嬉しいよ。あなたともう一度やり直したいんだ」


「僕もそう思ってるよ。君が帰ってきてくれるなら、僕は何でもするよ」


「ありがとう。あなたは私のブラックコーヒーだからね」


「ブラックコーヒー?」


「うん。苦くて熱くて、冷めやしないからね」


 彼女はそう言って笑った。彼も笑った。


 二人は手を繋いで美術館を出た。外は夕暮れ時だった。空にはオレンジ色の光が広がっていた。


 彼らは新しい人生の始まりに向かって歩き出した。

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