水彩色の食卓
朝矢たかみ
第1話
「あのね、スランプっていうのは、プロがなるものだから。あなたはそれ以前の問題」
スランプかもしれない、とゼミの先生に打ち明けたら、そんな言葉が返ってきた。
「そもそも、あなたはこういう絵、向いてないんじゃないかな?」
先生はいつもののんびりとした口調で、さらっと辛辣なことを言う。
言葉が出てこなかった。
私は、先生から返されたキャンバスに視線を落とす。木製の机の上に一輪挿しが三つ並び、それぞれ、
この半年くらい、ずっとこんな感じだった。デッサンの狂いはないし、奥行きもちゃんとつけられている。けれどどういうわけか、平面的で、時が止まって見えるのだ。それを脱却したくて相談に来たはずだった。なのに「そもそも、向いてない」のひとことで切り捨てられ、これまでの努力を土台からひっくり返されたような気がした。
「あなたは、そうね。アクリル絵の具を油絵みたいに重ねていくけど、本当に描きたいものが下に隠れちゃってるのかもね」
先生はカラカラと笑いながら続ける。
「ほら、厚化粧の人がスッピンになったら、なんだ、そっち方がかわいいじゃないってことあるでしょ。本人が気づいてないだけで、素のままが一番かもよ」
胸にチクリときた。
確かに、私は絵の具を厚く塗り重ねるタッチをよく使う。今回も厚塗りしてから、表面を少し削って下の色を見せることで花びらの質感を表現している。そこは結構、自信があったのだ。
気温はまだまだ高いけれど、日が暮れると風が秋めいてくる。
大学からアパートへの帰り道で、スマートフォンが鳴った。
『実家』
ディスプレイを見て、すぐにバッグに戻した。
母は週に一度は電話してくる。ちゃんと食べているのかといった、決まりきった質問をしたあとは、家族やご近所さんや同級生の近況など、代わり映えのしない話を長々と一方的にしゃべる。兄も姉も独立して、父以外に話し相手がいないのはわかるけど、こちらの都合を無視してかけてこられるので、正直、面倒だった。
母とは電話でたまに話すが、ひとり暮らしを始めてから三年間、父とは一度も口を利いていない。もちろん、実家に帰ったこともない。
美大に進学したいと言った時、父はひどく反対した。芸術にこれっぽっちも興味がない父に「遊びに金は出せないと」と言い切られ、大ゲンカになった。なんとか学費だけは出してもらえることになったけど、それ以外は自分で工面しろと言われたので、思いきって大学の近くでひとり暮らしすることにした。茨城県の実家から都内の大学まで通うのは大変だし、四年間も父の冷たい視線を浴び続けるのは耐えられなかった。
母は美大に行くこと自体は反対しなかったが、私が絵で食べていけるとは思っていないようだ。四年もあれば諦めもつくだろうと思っているのが言葉の端々に感じられるので、私もイライラしてしまい、電話を切ってから気まずくなることがよくあった。だから最近では、お互いにそういう話題は避けるようになっている。
嫌なことを思い出したら、足が重たくなってしまった。気分を変えようと、いつもと違う道を通って帰る。
歩きなら、夕飯をどうするか考えた。バイト代が入るのは来週だから、節約しなければいけない。となると選択肢は買い置きしておいた袋麺のラーメンあたりになる。けど、ただでさえ運動不足の体に、夜のラーメンはちょっと罪悪感がある。そういえば、冷凍したご飯が残っていたはずだ。それでお茶漬けでもしようか。
そんなことを考えつつ、アパートに向かっていると、懐かしいにおいに歩みが止まった。
「いいにおい……」
ダシの優しい香りが脳をもみほぐし、じわっと唾液が湧いてきた。
味噌汁だ。
わずかに開いた民家の窓から、味噌汁のいいにおいが漂ってくる。
私は背伸びをして、民家の塀越しに窓を覗きこんでみた。
レトロな模様入りのガラス戸がついた食器棚が見えた。棚の上には大きな金鍋が置いてある。暖色系の蛍光灯の下で、包丁がまな板を叩くリズミカルな音が聞こえてくる。
なんかいいな、こういうの。
あまりじろじろ見るのも失礼なので、私はその場をあとにする。
再び歩き出した私の足は、自然とコンビニへ向かっていた。急にお腹がすいてきた。夕飯のメニューは決まっている。冷凍しておいたご飯と、味噌汁だ。
即席の味噌汁と、ついでに三個パックの豆腐を買って帰宅すると、電気ケトルでお湯を沸かした。同時に、電子レンジで冷凍ご飯を温める。
お湯が沸くのを待つ間、味噌汁を用意する。汁椀はないので、スープカップに即席味噌汁の中身を出す。チューブから絵の具を出すのに似た、これから何かが始めるわくわくがあった。普段、食事中にスープ類はあまり飲まない。常温の水か、食後に紅茶を飲むくらいだ。だからこのスープカップを使うのも、ずいぶん久しぶりだった。
お湯を注ぐと、味噌が一瞬でとけて、カップの中で小さな渦を巻いた。ふわりと上がった湯気を嗅ぐなり、キュルルとお腹が鳴った。
豆腐はお皿に出して、
「いただきます」
味噌汁の入ったカップを手に取る。持ち手がついたカップで味噌汁を飲むのは少し不思議な感じがした。
のどから胸へ滑り落ちた温かさが、お腹のあたりで、ぱあっと体全体に広がっていく。思わず息がもれた。
落ち着く。
もう一度カップに口をつける。体中でこり固まっていた疲れがとけていくようだった。
ひと口ずつ、味を確かめるように飲んでいく。ふと気づくと、ご飯には手をつけず、カップ一杯を飲み干していた。湿気たノリをつまみながら、残っていたお湯で二杯目の味噌汁を作る。
ご飯一杯と冷奴をあっという間に平らげた私は、空になった食器に手を合わせる。残りもののご飯がこんなにおいしいと感じたのは初めてだ。
体が温まったおかげか、ためこんでいた数日分の食器も、さっと片付けられた。そのままの勢いでシャワーも浴びてしまう。髪を乾かしたり、歯を磨いたり、普段は面倒でずるずるやりがちなことも、清々しい気持ちのまま終えられた。
あとは寝るだけの状態になったのに、まだ九時だった。いつもならここまでくるのにあと一時間はかかる。なんだか得した気分だった。
私はこの寝るまでの数時間を、制作にあてている。
1Kのアパートの部屋は、こたつテーブルと布団が半分、もう半分を制作用の机とイーゼルが埋め尽くしている。私は机の上にスケッチブックを広げた。どういう絵を描こうかという構想を練ったり、見かけた景色や人のスケッチに使っているものだ。最近は、ぼんやりと描きたいと思う情景はあっても、細部のイメージがまったく固まらず、ひとつの作品に時間がかかってしまうことが続いていた。
でも、今日は違った。
その景色が目の前に広がっているかのように、すらすら手が動く。
ものの十五分で、ラフスケッチができあがっていた。私はそれを元に、水彩紙に下書きをしていく。ラフを描き始めてすぐに確信していた。これはアクリルじゃなく透明水彩の方が合っていると。だからキャンバスではなく、紙にした。
私にはもう、紙の上に色が見えていた。
朝の透き通った光。食卓に置かれた汁椀の湯気で絵全体が少し、にじんで見える。ご飯が盛られた茶碗、汁椀、箸と箸置きが、見えているだけで五セット。湯気の向こうには、揺れるカーテンと開いた窓。少し雲にかすんだ淡い水色の空の下に、斜面に沿って並ぶ住宅の屋根が見える。オレンジがかった茶色、朱色に近いピンク、ビンテージジーンズみたいな白っぽい青、光を吸いこむ黒、屋根の色はみんな違う。坂を下りきったところには、サファイアみたいな深みのある青をした海がある。穏やかな波が朝日できらきらと輝く。
早く色を入れたい。
どうしようもなく気持ちがはやった。
下書きをする手が、もっと速く動けばいいのに。
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