第4話

 週に一回のお散歩が日課になった頃、ムタ坊ちゃんが遅刻していた。正しくはラビエラ公爵が遅刻した。


「まだ来ないね」


「そうだね。今日はお休みかな」


 いつも通り午前中の間にお散歩をしたいところだが、どうしたものか。

 子供たちは早く行きたい気持ちをグッと堪えて待ってくれている。この待機時間に彼らの成長を感じられるとやっぱり嬉しかったりする。


 そんなとき門の呼び鈴が鳴った。


「すまない。遅れてしまった」


 先に出迎えた職員は畏まりながら頭を下げるだけでムタ坊ちゃんに目を合わせようとはしない。

 彼は何か言いたそうにしているのに気づこうとしていなかった。

 私が迎えに行くと子供たちも後からついてきた。


「おはよう。今日は遅かったね」


「おはよう。家が忙しくて。もうお散歩行けない?」


「お家の事情なら仕方ないね。みんな待っててくれているから一緒に行こう。あ、でもお昼ご飯の時間になっちゃうから少しだけね」


 背後から子供たちの「やったぜ!」という声が聞こえ、ムタ坊ちゃんの手を取って早く行こう、と急かしている。

 彼らに続いてラビエラ公爵に一礼して立ち去るべきなのだろうが、私は余計なお世話をしてしまった。


「ムタ坊ちゃんは他の子と仲良くされています。今日のお散歩も楽しみにされていました。公爵家が多忙なことは理解していますが、御子息の為にも時間は可能な限り守っていただきますよう、よろしくお願いいたします」


「…………」


 やってしまったかなぁ。

 先に来ていた女性職員は今にも叫び出しそうな顔で硬直していたし、後からクレームがきたら頭を下げないといけないかも。

 いや、もしかすると下げた首が飛ぶかも。


 後悔を胸に抱きながら私は子供たちとのお散歩に出かけた。


 その日の夕方。

 お迎えの時間ぴったりに来たラビエラ公爵を見つけてムタ坊ちゃんに声をかけた。

 しかし、珍しく口をへの字にして小さな抵抗を見せた。


「ムタ、さぁ帰ろう」


 誰が呼んでも動く気配がない。

 理由も分からないのに無理矢理に抱っこして連れて行こうとしているラビエラ公爵を止めた。


「少しお時間をいただけますか。よろしければ中にお入りください」


 最初は戸惑っていたが、遠慮がちに園内に入ったラビエラ公爵と一緒にムタ坊ちゃんが遊んでいる姿を眺める。


「最近はよく笑われるようになりました。特にお外がお好きなようです」


「そうか。私も忙しくてあまり構ってやれないから助かっている」


「あの……今朝は大変失礼しました」


「構わんよ。時間を守らなかった私の失態だ。ムタにも悪いことをした」


「ムタ坊ちゃんにそのままお気持ちを伝えてあげてください。きっと喜ばれます」


 楽しそうに遊んでいたお友達が一人、また一人と帰宅していく。

 ラビエラ公爵が隣にいることも忘れて伸びをしてしまった私は、羞恥心を隠すために「さて」と大きめに呟いてムタ坊ちゃんに近づいた。


「お腹がすいたね。おうちに帰って温かいご飯が食べたいね」


「……うん」


「じゃあ、また明日。待ってるからね」


 すんなりと帰り支度をするムタ坊ちゃんを見届けていると、ラビエラ公爵が優しい笑みを浮かべていた。

 恥ずかしながら彼の笑顔に目を奪われてしまった。

 ムタ坊ちゃんと同じ紅い瞳が細められている。激しさや強さの中に温かみを内包する真紅の瞳に吸い込まれそうになってしまった。


 更に数日後。今度はお迎えが遅く、ムタ坊ちゃん以外の子供たちは既に帰宅してしまった。

 子供を置いて帰るわけにもいかず誰か職員が残らないといけない。いわゆる残業だ。

 もちろん、私が挙手するつもりだったのだが……。


「今回もエレンさんでいいでしょ」


「そうよ。公爵家の方にあんな態度を取ったのだから。私たちが残って非難されたくないわ」


「聞いたわよ。学園では悪役令嬢って呼ばれてたんでしょ? 良い子ぶったって性根は変えられないのよ」


 こうして面と向かって言われると心が痛んだ。

 胸の中がモヤモヤする。


 彼女たちの言っていることは正しい。過去の私の行いは誰かの記憶に残っていて簡単には消えないだろう。

 心を入れ替えて、行いを改めたとしても過去は変えられない。


 分かっているつもりだった。

 でも、自分で思っている以上に彼女たちの言葉は鋭く突き刺さった。


「……分かっています。お疲れ様でした」


 何度も深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから部屋に戻る。

 一人で絵本を読んでいたムタ坊ちゃんに心の内を悟られないように努めながら隣に腰掛けた。


「今日は遅いね」


「仕方ないよ。僕は大丈夫。なにかあった?」


「……何もないよ」


 子供は純粋だ。

 だからこそ、大人にとっては小さな変化でも見抜かれてしまう。


「すまない、遅くなった! 門が開いていたから入ってきたが構わないか?」


 勢いよく開いた扉に二人して肩を震わせ、顔を見合わせてほくそ笑む。

 息を切らしているラビエラ公爵の姿が珍しくて笑ってしまった。


「どうして君一人なんだ? 他の者は?」


「もう帰りましたよ。事故とか事件に巻き込まれているわけではなくて良かったです。じゃあ、また明日ね」


 ムタ坊ちゃんに手を振り返していると、少し怒った顔のラビエラ公爵が距離を詰めてきた。


「そんなことを聞いているのではない。なぜ君だけが残っている」


「誰かが一緒に居ないと危険だから、ですかね?」


「どうして君ばかりが大変な目にあっているのかを聞いているのだ」


 実を言うとラビエラ公爵の遅刻は珍しいことではない。

 毎度、私が居残りしていることを気にしておられるのだろう。


「それはこちらの業務の問題ですので、お気になさることはありません」


「今日は叱ってくれないのか?」


 額ににじむ汗がどれほど急いで来てくれたのかを物語っている。

 そんな人に文句を言えるはずがなかった。


 ムタ坊ちゃんの背中を押して先に馬車へと向かわせたラビエラ公爵が私の方へ向き直る。


「もう朝も夜も遅れないと誓う。それだけで君の負担は減るのだろう?」


「ムタ坊ちゃんのことを一番に考えてあげてください」


 少し疲れていたのも相まって嫌な言い方をしてしまった。

 私は無言で保育所へと続く門の鍵を閉めた。

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