本屋と文房具屋は今日も口喧嘩
翼 翔太
第1話 本屋と文房具屋は今日も口喧嘩
昼食の冷凍パスタとソーセージ、卵焼きを食べながら、一ノ瀬百花は壁にかけてある四角い時計を見た。十二時二十分。
「やばっ。早く食べなきゃ」
百花は詰め込むように昼食を食べる。そろそろ身なりを整えて出勤しなければいけない。
百花は駅前の商業施設内の本屋で働いている。今日の始業開始時間は午後一時。駅までは歩いて十五分、着替えて簡単に化粧をするのに五分から十分。
百花は準備をして、鍵をかけた。マンションなので走ったり、かかとの高い靴で歩いたりすると苦情が出ることがある。今日もスニーカーで早歩きする。
エレベーターを降り、職場へ向かう。今日のシフトは午後一時から閉店作業が終わる午後十時まで。
(よっし、今日も頑張るぞ)
気合を入れて、裏口から駅の商業施設に入る。更衣室に入り、水色のエプロンを着て、名札をつける。ロッカーの内側につけている鏡を見ながら、茶色い髪を簡単に整えてから、更衣室を出る。すると隣の、男性専用の更衣室からも人が出てきた。黒髪で眼鏡をかけた、たれ目の男。不本意ながらよく知る人物。黒いエプロンをつけているのは、彼が本屋に併設されている文具店の店員だからだ。本屋の名札より小さなそれには、『貝塚』と書かれている。
「うげ」
「こっちが『うげ』よ、まったく。なんで仕事やるぞーって気合入れてすぐにあんたの顔見なくちゃいけないわけ」
「俺だってそうだわ、ふざけんな」
「ああ? こっちはふざけずに真面目に仕事してますが?」
百花は貝塚を睨む。すると百花より頭一つ分背の高い貝塚も、睨みながら見下ろした。
「人が仕事してねえみたいに言わないでもらえますかー。こっちだってマジメにやってらあ」
二人のあいだに火花が散る。いつものことだ。二人は「けっ」や「ふんっ」と言いながら、それぞれの持ち場に歩を進めた。
本屋は読書や本からのイメージで優雅な仕事だと思われがちだが、とても体力を使う。本の入った段ボールを運び、棚に商品がなくなれば補充し、お客さんが増えてくればレジを開放する。休んでいる暇などない。しかも会計をするのは本屋の分だけではない。併設されている文房具店のものも含まれる。
一人の男性が百花の担当しているレジにやってきた。
「すみません、これ返品したいんですけど」
それは開封済みのボールペンだった。百花はマニュアル通りの対応をする。
「すみません、お手数なのですが一度文房具店のほうへご説明いただけますか? こちらは会計のみとなっていますので」
すると男性が不快そうに顔を歪ませた。百花は本能的に察した。これは面倒な客だ、と。その直後、男性が大きな声を出した。
「ここで会計してるんだけど。しかも不良品でさ。なんでこっちが手間かけないといけないわけよ」
「こちらは書店で、文房具を販売している店舗とは別の会社となっておりまして……」
「そんなのそっちの都合だろ!」
百花は知っている。この手の客は文句を言いたいだけなのと、自分より非力と思う女性をターゲットにすることを。
(でもまあ、謝ってるだけで自給発生するならいいっか。そのあいだ、体力仕事しなくていいし)
そんな風に思っていることを隠しながら、客を宥めていると、黒いエプロンを身に着けた男が現れた。貝塚だ。
「お客様。文房具のことでしたら、こちらで伺います。どうぞ」
貝塚は百七十五センチ以上あり、体格もよく声も低いので見下ろされると迫力がある。客は「チッ」と舌打ちしながら、店を出て行った。
貝塚はニヤリと笑った。感謝しろ、と言っているのが表情だけでわかる。
(あんたが来なくっても、どうとでもなったが?)
百花は貝塚をにらんだ。そのとき文房具店のほうから「すみませーん」とお客さんらしき声がした。貝塚は返事をしながらその場を去った。百花は小さく「ケッ」と溜まった不満を吐き出した。
レジの集計などの仕事を終え、更衣室に移動する。エプロンをロッカーにかけ、上着を着る。
「お先に失礼します。お疲れ様でしたー」
そう言って更衣室を出ると、またしても貝塚と鉢合わせた。
「てめえ、なんで帰りまで同時なんだよ」
「それはこっちのセリフなんですけど? あんたの顔見てたら、しばきたくなるんだけど」
百花と貝塚は同時に歩き出した。
「なんでついてくんのよ」
「お前について行ってるわけじゃねえわ。お前がたまたま俺の前にいるだけだろ、どけ。もしくはずらせ」
「はあ? なんであんたのためにわざわざずらさないといけないんですかあー? そっちこそずらしなさいよ」
「ふざけんな、それこそなんでお前のために、そんな面倒なことしないといけねえんだよ」
二人は言い争いをしながらも歩く。
「大体あんたっていっつもそう! 幼稚園のときだって、私が一生懸命描いた絵に文句つけてさ!」
「お前だって小一のときの入学式で俺の服にイタズラしただろうが」
「それ言ったらあんた、中学で私が好きな男子に告白しようとしてたときに、幼稚園の黒歴史いろいろ言ってきたでしょ。ふざけんな」
「お前も俺が女子に告ろうとしたときに、失敗談めっちゃ話しただろ」
「あのときのお返しですー。先にやったあんたが悪い。ってか本当ついてこないでくれる?」
「お前がついてきてんだろ」
「はー? 私の家、こっちなのわかってんでしょ?」
「お前だって俺の家わかってんだろ、無茶言うなや」
二人の口喧嘩は止まらない。むしろヒートアップしていく。遂には互いの好みの話にまで飛躍した。
「大体、文房具ってなによ。使えればどれも同じじゃない」
「はー? お前まじわかってねえわ。使うものにこそ、ときめきが必要だろうが。脳みそ枯れてんのか? 本のほうが存在している理由がわからん。なんだ、あのくちゃっとした細かい字は。読めんわ」
「それはあんたがおバカだからですー。本は素晴らしいわ。いろんな知識が詰め込まれた宝箱で、存在しない世界にも旅立てるんだから」
百花と貝塚は立ち止まる。
「やっぱりあんたとは」
「やっぱりお前とは」
『好みが合わん!』
一層大きな声で同時に指をさし合った。通行人の目など気にせずに、二人は言い合いを続けながら歩く。
着いたのは百花が住んでいるマンション。百花がエレベーターに乗り、住んでいる階のボタンを押すと貝塚も入ってきた。
「ほんっとないわ。なんであんたと密室でいなくちゃいけないのよ」
「お前が降りればいいだろが」
「はあ?」
「ああん?」
二人は何度目かわからない火花を散らす。
にらみ合っていると、ポーンッと軽い音が到着を知らせた。二人は降りると言い争いを止め進んだ。夜十時も回って廊下で話すのは近所迷惑になる。
百花は住んでいる八〇六号室、貝塚はその隣の八〇五号室の前に立つ。二人とも最後の一にらみをしてから家の中に入った。
明るく温かい部屋に入ると、夫の京次郎が出迎えてくれた。
「おかえり、百花」
「ただいまあ、京くーん」
表情を緩め、百花は京次郎に抱きついた。
「晩御飯、作っておいたよ。手、洗っておいで」
「ありがとー、京くん。大好きっ」
百花は手洗いとうがいを済ませ、リビングに向かう。テーブルの上にはチーズハンバーグとコンソメスープ、京次郎お手製のパプリカのマリネとご飯が並べられていた。京次郎は先に食べているので、百花の分だけだ。百花はイスに腰を下ろす。
「ほんっとに京くんの料理っておいしそう。いっただきまーす」
「ありがとう。どうぞ、召し上がれ」
向かいに座った京次郎の穏やかな笑顔に、百花の心はキュンと締め付けられる。この笑顔に何度救われたことか。
「そうだ。最近文岳に会ってないんだけど、どう?」
文岳とは貝塚のことだ。百花は眉根を寄せて答えた。
「ピンピンしてる。今のところ悩みっぽいのもないんじゃないかな?」
「そうか、よかった。幼稚園のころはよく遊べたけどね」
「私、美余乃と貝塚が結婚したのが本当に意外で、まだ信じられない」
美余乃とは百花の幼稚園のころからの親友だ。百花、京次郎、貝塚、美余乃の四人は幼稚園のころからの幼馴染なのだ。
「どこがよかったのか、まったくわからない……」
「きっと波長が合ったんだよ。僕と百花みたいに」
「えー、そうかなー? えへへ」
京次郎の言葉に百花は嬉しさを隠せなかった。
「文岳のやつ、内側に溜め込む癖があるから、なにかあったら教えてくれな?」
「まっかせて。でも本当あいつとは好みが合わない……」
「幼稚園のころからだもんなあ。たまたま好みが合ったときは、豪雪と豪雨になったし」
京次郎は昔を思い出して笑った。その笑顔を見て、百花の疲れた心もほぐれていく。
きっと明日も貝塚と会えば口喧嘩をする。『二人が言い合いをしている、可愛らしい姿を見て、どんな話をしていたか聴きたい』という夫と、親友の頼みのために。
本屋と文房具屋は今日も口喧嘩 翼 翔太 @tubasa-syouta
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