第2話 本
「なぁ、シャワーとかねえのか?」
口内のねばつきと、下腹部や尿道の名残りを不快に感じ、男が訊く。
「ありません。あるのは貴方と本だけです」
——?
女の言葉に違和感を感じるが、それが何かわからない。
「……そういや、本を買わなきゃなんないんだったな。じゃあこれ——」
「それではありません」
男が手近な本棚から本を取ろうとした時、女がそれを止めた。
「あ?」
「貴方の本はこれです」
女がエプロンのポケットから本を取り出している。女は既に、衣服を着ていた。首後ろを周るエプロン紐にまで、寸分たりとも乱れがない。
——いつの間に着た? それよりも——。
「俺の本?」
「はい、貴方の本です。元々とは違う本ですが——ところで、私を殺さないのですか?」
「殺す?」
「はい。貴方が望むのならば」
「……イカれてんのか?」
「そう見えるのなら」
男の記憶には確かに、あらゆる者達を殺めた記憶がある。おおよそ生きる為、とは言い難い理由でだ。
「殺しはしない。よかったからな。あんたはどうだい?」
「この本の中身を、少しだけお読みになりますか? 今、この本に決まりました」
「決まった?」
「お読みになりますか?」
男に応えず繰り返す女の微笑を、男は尚も、卑しく見る。先ほど行為を飽きるほどしたというのに、変わらず新鮮に映った。
「そこまで言うなら——」
男はそう言い、女から本を受け取る。その黒い本を。表には何も書かれていない。
「どれどれ?」
男は表紙を開いた。何も書かれていない。見返しはもちろん、扉にも、何もない。
「何も書いてねえけど——」
「ページをめくって下さい」
被せた女が男を呑む。
タイトルがないのだから当然といえば当然だ、と男は誤魔化す様に納得し、ページをめくった。
「おお、やっと字が出てきた」
〝その炎は大きい。推し量るのは難しい。〟
「——なんだこりゃ?」
「ページをめくって下さい」
女が更に促がす。
〝極熱は目に見えず、そもそも熱は目に視えない。〟
「意味わかんねぇ」
「ページをめくって下さい」
男は更にめくった。
〝無限ではないが、それでも無限に感じる事だろう。〟
「……」
「ページをめくって下さい」
めくった。
〝傷は治り、全ては褪せることなく鮮やか。活きよ。〟
「ページを——」
「辞めだ、やめやめ! なんだよコレ? マジでキメェ」
男が本を閉じる。
「つまりませんか?」
「ああ、つまらねえ。よくこんな本売ろうとしたもんだな? 潰れるぜ? この店」
「そうかもしれませんが、その本は持ち帰って下さい」
「チッ、そうかよ。ああ代金か——ってヤベェ、金持ってねえや」
男は衣服以外、身一つだった。いつの間にか自分も服を着ている。手指のべたつきも、もうない。
男は悪びれる事なく口角を上げる。
「代金はすでに頂いております」
「は? ん? おお、そういう事? なんだかんだであんたも結構楽しんでたっつー事か。相性が良いってのは希少だぜ? 気が向いたらまた、抱いてやるよ」
「またのご来店をお待ちしております」
男はまだ出るそぶりを見せてはいない。だが女は外へと急かす様な台詞を言った。
普段なら気を悪くする所だが、男はそれを女の照れ隠しであると解釈し、明るい口調で「またな」と声を投げた。
男がガラス戸へ進むとセンサーが光り、ドアが開く。
男はその店を後にした。そして——。
外へ出た男を待っていたのは、六百八十二京千百二十兆年にも及ぶ、大焦熱、だった。
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