きみの心にふれて
寺澤ななお
きみの心にふれて
話の序盤なのだろうか。
彼女は黙々と本を読んでいる。
彼女の席から少し離れた席に座る。
程なくして、彼女がコーヒーを口にしたとき、僕の存在に気づいた。
彼女は照れくさそうに会釈する。
そして、また本の世界に戻っていった。
年はおそらく20代半ば。名前は知らない。カフェ併設の本屋で彼女に会ってからもうすぐで3年が経つ。
ーー初めて、彼女を見つけたとき、その瞳は潤んでいた。
毎週火曜日の夜、彼女はここにほぼ必ずやってくる。そして、小説を一冊読み切ってから帰っていく。
時には涙を流し、時には笑うのを耐えながら声を漏らす。
その反応があまりにに真っ直ぐなものだから周りの客も彼女を咎めることはなかった。
彼女が何かしらの感情を示した時、それは彼女がその物語を気に入ったときだ。
泣いたときも、笑ったときも、怒ったときも、彼女はそれを読み終えた後、それを購入し満足そうに店を後にする。
可愛らしい眉元に三本のシワができるとき、彼女は本を購入することなく店を出る。不満を顔に貼り付けたまま。
いつしか、彼女を見守るのが僕の楽しみになっていた。
3カ月ほど経った頃、彼女は僕を“同じ店に通う常連”と認識したのか、僕を見つけるたびに会釈するようになった。
彼女の笑顔は素敵だったが、不満気な顔も嫌いじゃなかった。
彼女が僕の本を手にするまでは…
彼女が読んでいたのは、大手出版社のコンクール大賞に選ばれたデビュー作だった。
結果だけ言えば、彼女がその本を購入することはなかった。
でも、それは彼女が1ページ目をめくる前からわかっていたことだ。
なにせ、僕自身が面白いと感じていないのだ。彼女の心を揺さぶるわけがない。
彼女の当然の反応に、苛立つこともなかった。彼女の時間を無駄に奪ってしまったことに苛立ちを覚えた。
次の週も、その次の週も彼女は僕の作品を選んだ。
ただただ拷問だった。彼女は僕の本を読み続けた。
一度だけ、彼女が僕の本を買っていったことがある。
デビューから2年目の作品だ。そして、本名での最後の作品でもある。
余命半年の父から飛行機のおもちゃを受け取った少年がパイロットとなる話
反応は派手では無かったが、彼女は童話でも読むように物語にのめり込んでいた。
その本を書き始めた頃、出版社が主催する懇親会で憧れの作家と話をした。彼に感化されてアツくなった僕は担当編集者のアドバイスを無視し、その作品を仕上げた。デビューから部数が右肩上がりで調子に乗ってたんだと思う。
作品は鳴かず飛ばず。出版社からは事実上、縁を切られた。他の会社に持ち込んでも相手にしてもらえず、作家として活動できない期間が長く続いた。
ようやく拾ってもらった出版社の助言でペンネームを変更した。あれ以来、編集者には反論したことはない。
おかげで40半ばになった今も作家として喰っている。良いパートナーこそいないが、都内マンションを一括購入し、高級車にも乗っている。今の稼ぎであと5年も働けば、よっぽどのことが無い限り、平穏な余生が暮らせることだろう。
でもそれだけだ。作家であることを誇りに思うこともない。彼女の心に届く作品が生まれることもない。
小学校の卒業文集に「夢は小説家」と書いた。
僕を夢を叶えた。なりたい仕事に就いた。だが、達成感はない。
彼女が僕の本を読みきった頃、僕は出版社に「しばらく休む」と伝えた。そして、デビュー前のときのようにただ文章を書き続けた。
足掻くように、のたうち回るように苦しみながら書いた。本となりうる文量に何度も至り、何度も破り、そのたびに新しい物語を作り続けた。
その間も店には通い続けた。彼女が持ち帰る本に激しい嫉妬を抱きながら、ひたすら書き続けた。
ーー明日、僕の新作が出版となる。
僕は彼女に初めて声を掛けることを決めている。
「自分の本です」と胸を張って。
彼女のことを想い、書き上げた本だ。
彼女が泣くのか笑うのか、正直わからない。
だが、大した問題じゃない。
彼女の心が揺れるまで、書き続けるだけのことだ。
きみの心にふれて 寺澤ななお @terasawa-nanao
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