「鉄の斧」
すべては、銀父を女神さまが下さった日からだ。
「あ。ところで銀父はどこへ行ったのかしら」
はたと思い立ち、心配になったものの、寧も今日の勤めがある。仕事を放り出して探し回るわけにもいかないし、かといって誰かに頼む「つて」もない。寧は心残りのまま、仕事先へ向かった。
しかし。今日の
「うるさい!」
名家の娘として、早くから嫁ぎ先が決まったらしい。しかしお嬢様はその相手が気に食わないと怒って、泣いて、喚いて、そして寧に八つ当たりをした。始まればひとたび衰えを知らない嵐のように、彼女は怒り狂う。
「こっちを見ないでよ」
見ないでと言われても。……冷めた気持ちで、寧はそっとお嬢様から視線を外した。その隙に、お嬢様は寧の背中を思い切り蹴りつけた。無防備な寧は顔から転ぶ。
「その目が気にくわない!お母様に言いつけてやる!薄汚い行き遅れの洗濯婦などっ」
「お嬢様、お怒りをお鎮めくださいませ。どうか……」
「うるさい!うるさいうるさい!!お前もくびよ、くび!」
「お嬢様!」
言い争う師父とお嬢様の声を聞きながら、地面に倒れ込んだ寧は、土と血の混じった唾を吐いた。
「寧、お帰り!……あれ?」
「……ただいま、銀父」
口元の痣を隠しながら、寧は手短に説明する。「大丈夫よ。いつものこと」
「いつもって……」
銀父は寧の口元にふれようとして、躊躇った。寧はそんな彼を安心させるように、大きく明るい声を出した。
「ところで、銀父は朝からどこへ行っていたの?」
「ああ、仕事を探しに行っていたんだが……」
銀父はごそごそと、ふるびた鉄の斧を出してきた。
「あしたから、湖沿いの木を切ってくるよ。あのあたりは桜の
寧は目を見開いた。銀父が仕事を自ら求めて、そして見つけてきたこともそうだし、あの湖が人目に触れやすくなることも……
寧の瞼の裏に焼き付く、楊の最期の姿。あの薄汚い亡骸が湖の水面に上がってきたら……。
寧はごくりと唾を飲み込んだ。その拍子に、痣になっている口元が痛む。
「いたっ」
「ご飯、食べられるかい。今日は鳥と卵を買ってきたんだけど……」
「ありがとう。銀父。なにからなにまで」
「今までさんざんぼくが迷惑をかけてきたんだから、これくらいさせてくれ」
銀父は慣れた手つきで
中に肉と卵の入った、熱いスープだった。
「……おいしい」
「よかった」
銀父はにっこり笑った。寧もつられて笑う。
「ああ、やっぱり寧は笑ってるほうがいいなぁ」
銀父がなにとなしにそういった。寧はぎょっとして、口元を隠した。
「ああ、そういう意味じゃない。そうじゃないよ……って言っても信じてもらえないかもしれないけど」
「じゃあ、どういう意味なの」
「ぼくは君の父親で、君は僕の娘だ。つまり、そういうことだよ」
「……」
「娘は笑ってるほうがいいって、父親なら思うもんだよ」
銀父は見たことのないくらい優しい目つきをしていた。寧は、悪寒とこそばゆさの間のような、妙な感情にさいなまれていた。
銀父は好意を寄せてくれている。健全な好意だ。だけど――
「ごちそうさま」
寧はさっさと夕飯をすませ、襖の奥の自分だけの殻にこもった。
胃の腑のあたりから、気持ち悪さがこみあげてくる。
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