銀父と楊、そして寧

 そうして疲れ果てて家に帰ったニンが見たのは、綺麗に磨かれた鏡と、すっかり綺麗になった土間である。ホカホカのかゆが煮られているかまどの横で、銀のヤンは多種多様な薬味やくみをすっていた。

「おかえり、寧。今日は薬味粥だよ」

「あ、え? 何?」

 寧はきょとんとした。目の前のすべてが想像の範疇をこえていた。

「何が起こったの?」

「部屋は、片づけておいた。汚かったからね」

 そういえば、布団も瓶もどこにもない。捨ててきてくれたんだろうか?

 楊はぐるっと部屋を見渡した。「蜘蛛くもの巣も取ったし、埃も。あと古すぎる服は雑巾ぞうきんにしちゃったけど、ぼくのだから構わないよね。あとはそうだなぁ……今日の夕飯にお肉がないのが残念だけど……」

「ぎ、銀は?」寧は思わず尋ねた。「銀はどうしたの」

「銀は売って金に換えてきた。そこに置いてあるよ」

 楊は机の上を指さした。寧は金に飛びついて、一枚二枚と数えた。あさましい行動をしている自覚はあった。だが相手はあの楊だ。どんなに稼いでも一日で湯水のように溶かしてしまう楊である。気を抜けないのだ。


「いっぱいある……博打ばくちで増やしたとかじゃ……ない?」

賭場とばってどこにあるの?その方が増えるんなら考え」

「考えなくていい!」

 寧は大声をあげて、紙幣をきれいにタンとそろえ、その中から二枚だけを抜き取ると立ち上がった。


ヤンフー!」

「??」

「私、ご飯を食べたら布団を買いに行くわ」

「一人じゃ大変だろう。ぼくも手伝おうか」

「……なんで?」

「え?」彼は首を傾げた。寧は小さな声で続けた。

「なんで、そんなに優しくするの?何が目的なの?どうせまたもとに戻るんでしょう?」

「家族だもの。寧はぼくの娘だし……ついでに孫なんだろう?だから当然」

「嘘。絶対嘘。安心したすきにまた」

「嘘じゃない。……寧、ぼくはどうしたらいい? どうしたら信じてもらえる?」

 寧は楊を見た。楊、ではない。銀の父。銀父インフーを見た。彼の眼は相も変わらず澄んでいた。湖で出会った時からずっと濁らないままだ。

「家を出ていっても行くところは無いし。何より、寧以外に知っている人もいないから。それでも出ていけというのなら、ぼくは出ていく。……それで寧が、ぼくのことを信じてくれるんなら、そうするよ」

 銀父は立ち上がった。かまどの火を消して、そのまま土間へと降りていく。


――人間の本性は悪。悪だから、強い心で律しなければ善にはならない。

だけど。だけど、だけど! 今までされたことが脳裏をよぎる。楊はひどい男でひどい父でひどい奴だったけれど。


この人銀父は、善だ。そう思わずにいられなかった。


「待って」

 寧は涙ぐんだ。思ってもない、優しいことばかり起こったから。

「あなた、あのくそったれの楊じゃないんだ。姿かたちはおんなじだけど、別なんだ。湖の女神さまが、下さった、新しい……父さんなんだ……」

 寧は泣きながら膝をついて謝った。蹴ったこと。死ねといったこと。罵ったこと。

「ごめんなさい、あなたは全然悪くなかった」

 銀父はことんと首を傾げた。そのしぐさは幼児のそれに似ていた。

「あ、謝られるようなことをされたっけ?」

「たくさんひどいことをしたし、言ったわ。反省しています」

「……寧。いいよ。前のぼくが、あんまりひどかったんだろう。だから、おあいこだ」

 銀父インフーは両腕を伸ばして寧を抱きしめようとしたが、寧はそっと身を引いた。

「ごめんなさい。抱擁ほうようだけは勘弁してください。銀父はきっと何もしないと分かってるけど、……とても、怖いの」

「無神経だった。すまない」

 銀父はその代わり、大きな手を差し出した。

「じゃあ、これを仲直りの記念にしよう」

寧は荒れた手を差し出した。銀父はその傷だらけの手を見て、「薬が必要だね」と言った。寧は頷いた。

「ついでに薬も買いに行きましょうか」


 その日の晩のことを寧は鮮明に覚えている。銀父が買ったばかりの布団を背負って、寧が薬を買ってきた。並んで歩くのは生まれて初めてだったかもしれない。

 そして、湯あみの後、手に薬を塗りこんだ。しみるほど効くと思いながら、塗った。

 新しい綺麗な布団で眠った。銀父は今まで楊の使っていた奥の部屋(ここもきれいに掃除されていた!)を寧にゆずり、自分は居間に布団を敷いた。そしてふすまごしに話をした。


「これまでのぼくのふるまいは忘れなくっていい」

「え?どうして?」

「それはぼくの罪だから」

「……あれは楊の罪だわ。銀父は何もしてない。わたしに優しいし、金も盗らないし、殴らないし……」

「ぼくの罪だよ」

 銀父は繰り返した。「それはぼくだ」


 寧は眠りに落ちるまで、楊と銀父の違いについて考えていた。それはぼくだと銀父は言ったが、寧にはまったくそうは思えなかった。楊のようにしのんだ足音が聞こえてくることもなかったし、布団を暴かれることもなかったし、何より……。


「慣れないことやって疲れたんだろうなぁ」


 聞こえてくる襖越しの大いびき。寧は自分でもそうと知らぬまま笑って、布団を深くかぶって眠りに落ちた。


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