「師父」
「
「おはよう。どうした、そんなに慌てて」
「師父、あのね、あの、湖の処女神さまに会った!」
師父は細く閉じていた目を開いた。
「夢じゃあないの!」
でも流石の寧も、「楊を殺そうとしたら」という経緯までは説明できない。人を殺そうとしたことを、この人にだけは知られたくなかったからだ。
「光がぱあっと降り注いで、そこに綺麗な女の人がいて、桜の花弁がざあっと降り注いで……ほんとよ」
「……夢か現かはこの際関係ないな。おまえが見たものが本当だろう」
「やっぱり!やっぱりそうよね!」
女神が本当なら、
「私のような悪しきものにも、女神様は微笑んでくれるのだわ」
「寧。それはお前が自分の悪を、自分で押さえつけているからだよ。お前が良き人になろうと努めているからだよ」
「……ええ」
寧は頷いた。殺意を込めたあのひと押しのことを思い出していた。欲望のまま走ったのは、自分を守るために他ならない。本性だ。あれが寧の本性なのだ。
師父はかつて、人間の在り方には二つの有力な説があると寧に説いた。
一つは、「人間はもとより善なる存在であって、人間が悪に走るのはその善性が損なわれたからである」というもの。
もう一つは「人間は欲望を持つ悪なる存在であるが、それを律することによって善になり得る」というものだ。
寧の心に響いたのは後者だった。楊の姿を見ていても、そして李家の
「時間だね。私はお嬢様のところに行かなくては」
「私も持ち場に行かないと。ありがとうございます、師父」
寧は深々と礼をした。そして、李家の中庭へと走った。
中庭に着いた寧は、家の使用人に名乗って木の桶と石鹸、汚れた衣服を貰い受けた。屋敷の端までそれを抱えて走り、井戸から水を汲み上げて、桶に注ぎ入れる。
寧の仕事は玲お嬢様の汚れた服を洗うことである。
齢13になるお嬢様はすでに月のものがきている。お嬢様のいう通り、「洗濯婦は穢れた仕事」であるが、その穢れは自らの体内から流れ出るものだということを、あの若いお嬢様は知らないのだろう。彼女は寧を貶めたいだけだ──行き遅れだの、穢らわしい洗濯婦だのと。
──ひとは生まれながら悪である。自ら律することでしか善になることはできない。
冷たい水に晒された指は冷えて真っ赤だが、一方で腕や肩の筋肉はほてって熱い。額に滲んだ汗を冷たい手で拭う。ようやく終わった、と思えば気を利かせた使用人が次の衣類を持ってくる。増えた山に、寧はため息をつく。
「はあ」
今日の仕事が終わったら、と寧は思った。
今日の仕事が終わったら、あの瓶と汚い布団を捨てて……。銀を換金して新しい布団を買って……それから何を食べようか。何を……。
……あの楊はまだ家にいるんだろうか。
寧はかぶりをふった。考えなくていいことは考えないことにしている。仕事が疎かになるからだ。
「やるか……」
増えた衣類に、寧は袖を捲り直した。水を捨て、清涼な井戸水を汲み上げ、再び桶に向き直った。
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