犬になって

 そっと。

 恭くんのアパートの鍵を、もらった合鍵で、開ける。


 今日、大学が終わったら、恭くんのアパートに来るように言われていた。


「……恭くん。えっと、おじゃまします」

「ああ。おかえり、咲花さん」


 恭くんは、台所に立って料理をしていた。

 野菜やお肉を炒めている。

 手際が良い。きちんとエプロンもしている。

 今日は温かいけれど、部屋でもしっかり長袖を着込んでいるのは……もしかしたら、わたしたちにつけられた全身の傷を、隠すためだろうか。


 人間らしい、彼を見るのは――やっぱり、まだ慣れない。


「鍵は閉めておいて。手洗いとうがいをして。荷物は、あっちに適当に置いといて」


 恭くんは、ワンルームの部屋を示す。

 わたしはなぜか、はい、と敬語で答えながら、恭くんの言った通りにした。

 荷物は、ソファの下に。変装用のキャップも外す。


 単身者用だけれど決して狭くはないワンルームのテレビでは、わたしの動画配信が流れていた。

 昨日の入学式、モデルで動画配信者の咲花がいる、ってちょっとした騒ぎになっていた。だから、恭くんもそれで知ったのだろう。


『わたしは昔、取り返しのつかないことをしてしまったの。だから、そのぶん、みんなを幸せにしたい! そう思って、モデルと動画配信を始めたの!』


 画面のなかでは、わたしが、咲花が、両手を広げてにっこり笑っている。


 わたしは恭くんの部屋で所在なく立ったまま、フライパンを持ち上げて野菜と肉を炒め続ける彼に話しかける。

 何とも言えない、微妙な距離。


「あ、あの、わたしの動画、見てくれてたんだね。ありがとう、でいいのかな……」

「いえいえ。面白いんだね。咲花さんって」


 恭くんはこちらをちらりとも振り向かず、にこりともせず、料理に向き合い続けている。

 ……あのころから、そうだったけれど。

 ちょっと長めの黒髪、少年らしさの残る、端正な顔立ち――今更だけれど、恭くんは結構かっこいい。

 きっと、モテるだろう。


 だから恭くんは、……ターゲットにされてしまったのかもしれないけれど。


 ジュウウウウ、と。

 油の跳ねる、音だけが、部屋に響いていて、そしてわたしの心臓の鼓動はばくばくばくばくとうるさい。


「あのさ。咲花さん。ひとつ確認したいんだけど。咲花さんって、モデルとか動画配信とかやってて、それなりに有名で。経済的には自立してる?」

「……う、うん。とりあえず」

「親に許可取ったりとかしなくても、自分で色々動ける状況?」

「そう、だけど……」

「ならよかった」


 ……なにが、よかったのだろう。


 恭くんはそれきり、何も言わない。

 ……間が、もたない。


「きょ、恭くんってさ、すごいよね。まさか、入試で主席合格だったなんて……同じ大学だっていうのもびっくりしたけど、ほんと、昨日の入学式で新入生代表の挨拶してて、びっくりしちゃった。わたしたちの大学、すごい難関なのに。主席なんて、すごすぎー……」

「俺もびっくりしたよ。咲花さんが昨日、家の前まで尾けてくるから」


 恭くんは、意外と筋肉のついた右腕で、たくさんの材料が入ったフライパンを持ち上げる。


「……ご、ごめんなさい。恭くんだ、って気がついたから。わたしのこと……言わないでほしいって、お願いしなくちゃって思って……」

「またさらわれるのかなって思った」


 ひとりごとみたいに言った彼の言葉が――シンプルに、ただシンプルに、……わたしの心を、鷲掴む。


 ごめん。そんな言葉。ちがう。

 じゃあ、なにを言えばいい。なにを言えばいいの。わたしは。


 なにを言ったところで、ゆるしてもらえるわけはなくて。

 でも、わたしだって、……わたしだって、やっと、やっと、まともな人生が始まったところで。

 保護観察が終わって。

 ずっとやりたかったことも、始められて……。


 ……わたしの地獄を、恭くんはきっと知らない。

 でも、どうして恭くんが、そんなの、知らなければならないのだろう。

 知る必要はない。知ってほしいなんて。願うだけで。……あまりにも、間違っている。


 わたしだって、彼を苦しめたのは――まぎれもない、事実なのだから。


 そんな想いが一瞬のうちに、心の底から突き上がってきて――だけどもわたしはずるいから、また、逃げようとする。……明るい素振りで、話題を変える。


「料理……するんだね。えっと。ありがとう、でいいのかな?」

「なんで? 咲花さんの食べるものじゃないよ」

「……え?」

「咲花さんのは、ちゃんと準備してあるから」


 左手にフライパンを持ち替えた恭くんが、右手で器用に持ち上げてみせたのは――犬用ドックフードの、袋だった。


「……うそでしょ?」

「俺は優しいから。中身は人間が食べられるエサにしたから、安心して。それで咲花さん、いつまで立ってるの? 今日帰るまでに、ペットプレイのこと調べて、ちゃんとできるようにする約束だったよね。早く、犬になって?」


 恭くんは。

 こっちを見もしない。ただただ。淡々と。

 まるで日常でもあるかのように、料理をしている。


「え、えっと、でも、まだ読めてないの。大学の帰り、急に仕事の電話がきちゃって。帰りも少し遅くなっちゃって……。わたし、ネットで調べ物ってしないから。本屋さんで色々、本を買ってきたから。ま、まずは読ませてくれないかな……」

「……犬が」


 はじめて、わたしのほうを見た――その目があまりにも昏くて深い光をたたえていて、わたしの心は、凍りついた。


「なんで悠長に本なんて読めると思ったの?」

「あの、でも、……でも」

「いますぐバラしたっていいんだよ。咲花さんが俺にやったこと」

「……ごめんなさい」

「犬になって」

「……はい」


 犬。いぬ。……いぬになって、って、言われても。

 どうすればいいの。

 雑誌の特集みたいに。動物の耳がついたパーカーを着て。両手で、猫のようにポーズをとって。……笑顔を見せれば、それで済むの?


 どうすればいいのか、わからない。

 わたしは、ばかみたいに、立ち尽くしていた。


 カバンの上には、エコバックに入った本――わたしの大好きな、作家さんの新刊も。

 こんなことになるなら外で読んでくればよかった。カフェにでも入って。読んでから、帰ってくればよかった。

 そこまで頭が回っていなかった。でも――ちょっと、本を読む時間くらいあるだろうって、そんなこと、どうしてわたしは、……根拠もないのに思っていたの?


 こんなときにも本が気になるわたしは、ちょっと、おかしいのだろうか。

 ううん。でも。……こんなものなのかもしれない。案外。非日常というのは。


 ふと、記憶が重なる。

 昔も――泣き叫ぶ恭くんを、お兄ちゃんの言う通りに鞭で叩きながら、内心ではぼんやりと、早く推しの新刊読みたい、とか……思っていた。

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