2017年6月

 大学3年生の関本は、半ば強制的に参加させられた大学の集まりで、その場にいた一人の女学生に対してある直感を抱いた。なぜ突然名も知らぬ学生に対して感じるものがあったのか、決して理屈で説明することは出来ないが、確かに関本には、彼女の死が感じられたのだ。

 関本がこのような感覚に襲われるようになったのは、彼が高校1年生の時からだった。最初の直感は、当時彼が親しくしていた友人 高崎が、高校1年生の12月に命を落とした時のことだ。自死だった。

 高崎という男は非常に人当たりが良く、いつも友人に囲まれ、決して社交的とは言えない関本のような人間にも分け隔てのない姿勢は、男女問わず周囲を惹きつけた。何より彼は、他人がその時欲している言葉をかけられる人間だった。まるでトンガリ帽子のスヌスムムリクのように、何物にも囚われぬ彼の言葉は良くも悪くも正直だったが、どうしてか心にすっと落ちるものだった。実際関本も、そんな彼の言葉に何度も救われており、周囲に無関心であったが唯一高崎には心を開いており、同時に彼に憧れを抱くようになっていた。

 そんな彼が、決して成績も悪いわけでなく、家庭環境にも問題のない(彼自身よく仲睦まじい家族の話をしていた)彼が、なぜ自ら命を絶ったのか、関本の理解は到底彼の自死という行動に及ばなかった。生きていれば、輝かしい将来が待っていたはずの彼が何故¬―と。

 クラスメート全員が参加した高崎の告別式にて、棺の中で眠る彼の綺麗な顔を見て、関本はある夏の日の彼との会話を思い出していた―

 「関本、俺はな、旅人になろうと思うんだ」

 「旅人?バックパッカーのことか?やめておけよ、そんなの。命がいくつあったって足りはしないよ」

 「いいじゃないか。誰も知り得ない場所で、誰も知らない自分になって、誰も知らない体験をするんだ。良いだろ?」

 「君が突然、ある日何も言わず誰も知らない場所にでも行ってみなよ。皆悲しむし、きっと困る。君は皆から愛されているんだから。それに寒がりの君が海外なんて放浪できるのか?温暖な国ばかり旅をするのじゃ、真に旅人とは呼べないよ」

 ―(いくら旅をしたいからって、何も誰も手の届かない場所に行かなくたっていいじゃないか。しかも片道切符だなんて)

 関本の直感は、そこから始まった。高崎との会話の中で、彼の中に死を感じた。始めは何かの思い違いだと、他人の死が視えるなどありはしないと、その場は気に留めないようにしたが、どうにもその直感は関本の胸から離れることはなく、そうしてとうとう高崎は、自ら命を絶った。

 高崎を含め、大学3年生になるまでで3人。関本が死の情景を感じ取って、それから実際に命を落とした人の数。

 一人は、中学生の時のクラスメイトだった女性が高校2年生の時。

 もう一人は、大学1年生の時にしていたアルバイト先の社員の中年の男性。

 中学生の時のクラスメイトに死を感じたのは、彼女が命を落とす一か月前の高校2年生の10月のことだった。

 その日関本は、学校の帰り道で電車を乗り継ぐ駅で一人買い物をしていた。その最中、私服に身を包み駅ビルを歩いていた彼女を見かけ、声をかけたのだった。

 「久しぶり。学校の帰りかい?」

 「久しぶりだね。いいや、今日は学校が休みなんだ」

 「そうだったのか。元気だった?」

 「あー、うん。概ね元気だよ。本日はお日柄も良いしね。I am fine.と答えるには絶好の日よりだ」

 彼女は中学生の時から独特な言い回しをする女の子だった。先の会話のような返しをしばしばされて、関本は中学生ながらその語彙力やユーモアに感心を覚えていた。     そんな彼女の性質は変わっていなかったようで、どこか安心した。

 「君は相変わらず僕には到底思いつかない返しをするね。今のクラスメイト達は君の話についていけているのかい?」 

 「そうかな、でも確かに反応は鈍かったかもね」

 「今はどうなんだい?そろそろ慣れ―」

 「さて、そろそろ帰らなくちゃ。久々に私を理解してくれる君と話せて、楽しかったよ。ではね」

 そう言って踵を返す彼女の背中に、ふと、死が視えた。関本は、高崎の自死が自身の中で余りにもショックな出来事で、精神的な疲弊から来る妄想の類だと思うことにし、彼もまた帰路についた。

 その一か月後、関本は母親から彼女の訃報を耳にした。中学校を卒業してもう何年も経っていたし、母親も詳細なことは把握してなかったが、彼女が命を落としたことだけは確かだった。

 —他人の死が予言できるなんて、そんな馬鹿げたこと、あるわけがない。仮にそんな超能力が実在するとして、それを持っているのは、僕じゃない。

 まるで荒唐無稽なあの感覚は、やはり自分が精神的に参っている証拠なのだと思うことにし、眠りについた。

 そして関本が大学1年生の時のことである。

 高校生の時に経験した友人2人の死とその直感については、時の流れと共に記憶の片隅へと無理やりに追いやって、関本は地元の大学の言語学部へと進学した。関本自身は早々に自立したいと願っていたので、卒業後は就職を志望していたが、両親の「大学くらいは出ておいた方が良い」との言葉で、進学を余儀なくされた。もちろん関本は反発し、何度も討論を重ねたが、とうとう大学へ行かないのであれば、以後どんな援助もしない、という旨の半ば脅迫とも取れる進学の打診を受けてしまい、それでは就職後の数か月間の生活が出来ないと思い、半ば諦めたように進学を決めたのだった。

 それから、少しも能動的になれぬ大学生活が始まった。何人かの学友は出来たが、講義の内容には全く興味が持てず、言語学科という学科でも、中高生の頃から唯一英語だけが出来が良かった、というだけで決めたため、特に学びたいことがあるわけでもなかった。空虚で、関本には時間の浪費としか思えない時間が過ぎていくのを、ただ耐えるしかなかった。大学入学と同時に、実家暮らしではあったが、自分の生活費と食費だけは自分で賄うために、自宅からそう遠くないスーパーマーケットでアルバイトも始めた。

 関本はそのスーパーマーケットで遅番のシフトで働いており、遅番のシフトには関本の他に2歳上の大学生のアルバイトが一人、いつも何かが入ったポーチを持ち歩いていた30歳代の男性社員 青田の計三名が入っていた。

 青田は、関本の部門の社員では一番の若手であった。三人いる社員の中で一番若かった彼は、他の社員から仕事を覚えるという目的のもと、発注から売り場の計画、部門売上の管理等、多岐に渡る業務を任されていた。彼自身とても努力家で、多量の業務を抱えてはいたが、決して雑な仕事をすることはなく、また年下の関本やもう一人のアルバイトに対しては非常に面倒見が良く、勤務中も気さくに話しかけてくれていたので、関本はその社員のことを慕っていた。

 この青田に死を視たのは、ある遅番の日のことだ。

 その日も関本は夕方6時に職場へ行き制服に着替え、売り場でいつものように陳列棚の検品や接客、倉庫で翌日の開店準備を行っていると、青田が関本に話しかけてきた。

 「お疲れ様、関本君。今日どこかへ飯でも食べに行かないか?奢るよ」

 「お疲れ様です。お誘い頂いて嬉しいのですが、今日は大学の課題がありまして」

 「そうか、それなら仕方ないね。いつかまた誘うからさ、その時は事前に予定を聞くことにするよ」

 「そこまでして下さるなんて申し訳ないです。けど非常に助かります。その時は是非」

―まただ。また視えてしまった。

 友人二人の死が見えてからしばらく見えていなかった死が、また視えたのだ。それも色濃く、はっきりと。

 時間をかけて、忘れようとしていたあの感覚。それも、今まで必ず現実となってしまっているあの直感。関本の背中には一気に気分の悪い汗が流れた。

 真面目で仕事熱心で、最近ガールフレンドが出来たと嬉々として話していた彼が、時折ミスをしてしまう自分にも優しい彼に死が視えてしまったなど何かの間違いだ。あって良い筈がない。そう思いたくて、閉店の時間まで彼を見ないようにして、閉店後も足早に事務所の一角以外が消灯された職場を後にした。

 そうして、彼が亡くなったことを聞いたのは、二日後のシフトで職場に入ってすぐのことだった。

 事務所に入ってすぐに部門のもう一人の社員が神妙な面持ちをしているのが見えた のでうっすらと理解はしていたが、信じたくなくて自分で確かめることにした。

 「お疲れ様です。何かあったんですか」

 「関本君、お疲れ様。実は今日の明け方、店に青田君のご家族から連絡があってね。青田君が亡くなったそうなんだ。」

 その後の会話はよく覚えていない。関本の耳は、外界からの情報をシャットアウトしたように、何も受け付けることはなかった。

 関本は、自分のあの感覚にとうとう気味の悪さを覚えた。視えてしまった人が必ず命を落としている事実は、まだ若い関本を追い詰めるには充分すぎる出来事だった。まるで自分が彼らを殺めてしまったのではないか。そんな、非現実的な考えをしてしまうほど、関本は自分の直感を、果ては自分自身を恐れた。

 今日になるまで、3人。

 とても信じ難いが、とにかく自分には人智の及ばぬ何か悪いものが憑いていて、関わった人間が不幸になってしまう。そう思った関本は、それまで以上に他人と関わることをしなくなった。

 そうして関本は、それまでいた数人の学友との関係を断ち、大学では常に一人で行動するようにしていた。SNSでの連絡もやめた。実家を出て一人暮らしも始めた。たとえこの虚無な4年間を与えてくれた、憎んでいる家族だとしても、血の繋がった家族だ。彼らを不幸にはしたくない。そんな思いからの独立だった。誰とも関わらなければ、誰かの死が視えることはないし、誰かを不幸にしてしまうこともない。

(そう、思っていたんだけれど)

 青田の死から人との関わりを極力避けていたのに、未だに関本はあの感覚に襲われていた。しかも、時には祖母の見舞いで訪れた病室で同室だった高齢の女性、時には電車で向かいの席に座っていただけの主婦にさえ、それが視えていた。

 とにかく、関本の直感は青田の死後、ますます強まっているように思えた。しかも不思議なことに、入院のきっかけとなったガンが進行し亡くなった祖母には、亡くなる直前ですら何も感じなかったことで、関本は尚更自分の直感というものがわからなくなっていた。関本の意思とは関係なしに作用するときもあれば、はっきりとその命の終わりが訪れようとしている人間に働かないことのある直感に、戸惑いを隠すことができなかった。それでも、たとえ日常の中で無意識的に死が視えたとしても、誰かを深く知ることがなければ、何の感情も抱かずに済む。なにより、関本は元来周囲には無関心な男であったし、大学生活への期待もハナから抱いてはいなかったから、一人でいることは苦ではなかった。そうして、自身の異様な感覚と戦う日々を送っていた。

 そうして上手いこと誰とも関わることなく生活を送ることができていた、蝉が鳴き始めた大学三年生のある日、関本が講義を受けていると自身のSNSに通知が来ていたことに気が付いた。

 『久しぶり。最近全然話さないじゃんか。この間ゼミの教官から課題のことで追加の連絡もらったからゼミ生皆で情報共有したい。明日、駅近くの店に19時集合で』

 行くつもりは、毛頭ない。ゼミの課題に関してなら、後日メールで送ってもらうことができるし、わざわざ居酒屋に集まったところで、課題などそっちのけで各々好きなように馬鹿騒ぎして、とうとう課題に触れることもない。情報共有など只の建前だろう。何より、極力誰かと言葉を交わすことは、避けたい。とすれば、返事は決まっている。

『誘ってもらえてありがたいけど、お断りさせてもらうよ。課題は後でメールで送ってもらえると助かる』

 これで最悪の事態は回避できる。はずだった。

『断る。直接渡したほうが早い。お前のメールアドレスなど知らないし、聞く気もない。最近誰が誘っても来ないし、たまには顔を出せ。追伸 来ないと本当に課題を渡さないからな!』

 これは困った。今回の課題は単位の認定に直接関係してくるものだった筈だ。それを出汁にして、とうに誰とも関わらなくなった自分に参加を強要してくるとは思わなかった。それに、教官も教官だ。そのような重要な連絡事項があるのであれば、ゼミの時間内で学生に忘れずに共有してほしい。これでは参加せざるを得なくなってしまった。

(—仕方ない。追加の課題だけ受け取って、あとは気づかれないうちに退散することにしよう)

 覚悟を決めた関本は『了解』とだけ返して、その日を待つことにした。

 翌朝、午前の講義がないのにもかかわらず早くに目が覚めてしまった関本は、まだ霞がかかる頭でつけっぱなしの換気扇の下へ向かい、数本しか残っていないアークロイヤルの箱から一本取り出し、火を点けた。少しだけ冴えた頭で、甘ったるい匂いのする煙を肺と口の間で往復させながら、今日の集まりのことをぼんやりと思い出していた。

―もし、今日の参加者に視えてしまったらどうしようか。それが学友であったなら?

 関わりを絶ったと言えど、少し前まで付き合いのあった彼らを人として嫌っているわけでは、決してない。実際、誘いをくれたこと自体は素直に喜ばしいことであったし、寧ろ彼らのことは好意的に捉えている。だからこそ、余計な邂逅は避けたい一心であったわけだが、参加の意思を示してしまった以上は、この重い足を動かさねばならない。何より、約束を反故にすることが許せない関本は、自身の信条を守るためにも、行かないという選択を取るわけにはいかなかった。

 どこか落ち着かない心持ちのまま時間だけが過ぎていった。その間に煙草を二箱開けた。心なしか、肺が痛む。

 三箱目の一本を吸い終わったところで、約束した時間の一時間前になったので、501のポケットに財布、携帯電話、煙草とライターだけをねじ込み、5年以上履き続け味の出てきたアイリッシュセッターを履き、約束の店へ向かった。

 「お、来た来た。久しぶりだな、元気にしてたか?なんか随分雰囲気変わったんじゃないか?」

 関本が居酒屋の一室へ到着すると、ゼミ生であり、入学当初付き合いのあった平田が声をかけてきた。

 「そうかな、自分ではわからないよ。それより課題を渡してくれないか?」

 「まぁまぁ、そう焦るなって。まず座りなよ。まだ人が来るし、そんなとこに突っ立ってたら邪魔だろ」

 大方想像はついていたが、平田はどうやら関本を簡単に逃がす気はないらしい。観念したように平田が「ほらほら」と促した席に座り、仕方なく烏龍茶を注文した。

 「おい、まずはビールって相場が決まっているだろう。」

 「残念だけど、僕はアルコールアレルギーなんだ。言わなかったっけ。もちろん、君が過失傷害罪で書類送検されても構わないなら、僕もアルコールを注文するけれどもね」

 「お前なぁ、その皮肉なんとかしないと人から煙たがられるぞ」

 「いいんだ僕は、それで。願ったり叶ったりだよ」

 関本の言葉に、嘘はなかった。もちろん、平田が嫌いだからそう思うわけではない。もっとも関本は、アルコールに弱い人間に強要するような俗物は吐き気を催す程に嫌っていたが、平田を含む数人に対してのそれは、全く違う意味を孕んでいたことは、言うまでもない。

 「最近元気にしてたのか?最近のお前は入学当初とはまるで別人だぞ。講義も一人で受けているし、講義が終わってもすぐ帰るし誰とも連絡すら取らないし」

 「ある程度の元気がなければこの場には来てないし、一人でいるのは元来の僕の性分だよ」

 「最初の頃は皆で集まって遊んでたじゃないか」

 「僕にだって色々あるんだ。まあ、気にするだけ損だよ」

 近況についてあれこれと尋ねてくる平田に、これ以上の関心を抱かれないように、けれど可能な限り不快感を与えぬように躱すのは骨の折れる所業だった。自分一人の事情で無闇に傷つけることだけは、関本にとって実に不本意であった。

 幸い、その日に集まったゼミ生の中に、視える者はいなかった。

どれだけ躱しても話しかけてくる平田をあしらいながら、運ばれてくる料理に手を付けていると関本たちのいる個室の引き戸が開いた。

 「お、来た来た。こっちこっち」

 平田がそう言って手招きをした方向を見る。数人の女性が立っており、その中の一人を見た関本の表情は絶望か、驚愕か、はたまた茫然だっただろうか。とにかく関本は、不用意に今日のこの場へ来てしまったことを酷く後悔した。

 ―視えた。

 関本は、たった今到着した女学生たちの一人に、見えてしまったのだ。

 「おい平田、どういうことだ。彼女たちは僕たちのゼミ生ではなかったはずだ。一体どこの誰だ」

 「おうおう急に饒舌になるなよ。ゼミの教官から連絡があったって言っただろ。あれ、追加の課題だけではなく、あの子たちのゼミの教官が休むことになったから、しばらく内容の近い俺たちと合ゼミになるって話もあったんだ」

 突然今度は質問攻めする側に回った関本に対し、至極冷静に答える平田を、関本は恨めしそうに睨みつけた。折角

 「そういうことは先に言ってくれよ。僕が人付き合いできない人間なのはお前も知っているだろう?彼女たちが来るのであればハナから今日は来なかったぞ」

 「そう言うと思ったから言わなかったんだよ。それに、お前あの子たちの名前どころか、さっきの反応からすると同じ学科ということも知らないな?だとすると、その時点で誰が来ようがお前には大した問題ではないだろう」

 悔しいが、平田の言うことはご尤もだ。元より人付き合いに積極的ではない関本は、入学当初の挨拶なども聞き流していたし、レクリエーションのような場にも参加していなかった。だからあの子が同じ学科だということも、たった今平田から聞いて初めて知ったことだ。

 「それでも、僕からしてみれば知らない人と同じ場所にいるだけで気疲れを起こすんだよ。いつでも誰かといる君にはわからないだろうが」

 わかっている。こんなことは、ただの八つ当たりでしかないということも、口には出さないが、平田は自分の人間関係を心配してくれているということも。

 それでも、あの女の子との邂逅だけは避けたかった。名も知らぬ誰かという認識でいたかった。これでは嫌でも関わりを持つことになってしまう。そうでなくとも、次のゼミからは合ゼミになってしまうというのだから、否が応にも、関わりを避けることはできないことは自明の理であった。

 「ほらほら、空いてるところに座って。もう飲み始めてるから、飲み物も各自で適当に注文しちゃってね」

 平田がそう促すと、入り口に立っていた女性たちが空いている席にそれぞれ座っていった。そして、ここまで自分の不運を嘆いていた関本に追い打ちをかけるように、空いていた関本の隣に座ったのは、あの女の子だった。

 「関本くん、だよね?ここ空いてるかな」

 声をかけられた方向を見て、関本が何も言葉を発することができなかったのは、初対面の人間が苦手だからでも、はたまた女性が苦手だからというわけではない。彼女から感じ取れる死が、今までの誰のそれよりも色濃く、大きかったからだ。例えるなら、光の見えない漆黒。闇。そう形容するしかないほどの死が、彼女を覆い尽くしていた。

 「座って、いいのかな?」

 「あ、あぁ。どうぞ」

 「ありがとう。話すのは初めてだよね。尾崎咲菜っていいます。合ゼミ、よろしくね」

 「こちらこそ、よろしくお願いします」

 顔を向けずに、そう答えた。そう答えるだけで精一杯だった。そうでもしないと、彼女から溢れる死に、精神が飲み込まれそうだったから。

 しかしそんな関本の事情など、咲菜の知るところではなく、

 「関本くん、外国語に関しての造詣が本当に深いよね。私、英語の時間いつも驚いてるよ。私も同じ英語クラスなの知ってたかな?」

 見るからに人見知り然としている関本に気を使っているのか、彼女のほうから話を振ってきた。

 「ごめんなさい、普段周りを見ていないので。それに、そんなことないです。たまたま、昔からそれしかできなかったというだけで、特に優秀というわけでは、決して」

 「そうかな。小テストの時はいつも一人だけ先にペンを置いているし、ドイツ語選択の友達からも聞いてるよ。一人だけ明らかにレベルが違うって」

 「ドイツ語も、ただ英語で培った知識を転用しているだけなので、ドイツ人からすれば、全くの的外れの似非ドイツ語ですよ。その友達、見る目がないですね」

 「あはは、随分と辛辣だね。ところでさ、同じ学年、同じ学部、同じゼミなんだし、普通に話してくれていいんだよ」

 どれだけ関本が味気のない返事をしようと、彼女は関本との会話に嫌気を示す様子がない。そんな彼女を横目で見る。依然関本の目には、彼女の死が視えたままだ。

 「そうだね、申し訳ない。人付き合いが苦手なんだ」

 「何となくそうだと思ってたよ。じゃあまず、相手の目を見ることから始めてみない?」

 なんてこった。一目見るだけでも息が詰まりそうなのに、直視しろだなんて、関本には彼女の考えが全く読めなかった。

 「話はちゃんと聞いてるし、わざわざそちらを向かなくても大丈夫だよ。気にしないで」

 「そうじゃなくて、これから社会で生活していく中で、人の目を見ることって凄く大事だよ」

 「問題ないよ。僕は一人で生きていく。一人でいれば、それで困る場面に遭遇することもない」

 「一人で生きていくって、それは不可能だよ。今着ているものも、関本くんが飲んでいるそれも、誰かの力で成り立っているんだ。決して一人で生きていくなんて、できないよ」

 「いや、僕はそういうことを言っているのではなく」

 関本の話を遮るように、先ほど注文したアルコールが彼女のもとへ届いた。

「そういえば、関本くんってお酒飲まないの?さっきから烏龍茶しか頼んでないよね?」

 「僕はアルコールアレルギーなんだ。飲みたくても飲めないし、そもそも飲みたいとすら思わない」

 「そっか。勿体ないって思っちゃったけど、趣向なんて人それぞれあるよね。それより、目を見て話すこと忘れているよ」

 それとなくはぐらかそうとしていた関本の思惑は簡単に打ち砕かれた。なぜこうも他人の将来に熱心になれるのか、関本には理解が出来なかったし、彼女との関わりはこの瞬間だけで終わりにしたかった。そうでないと、余計な感情を抱かざるを得なくなってしまうから。

 とは言ったものの、咲菜はどうやらそんな関本を逃がしてくれる気はないらしく、関本が彼女に顔を向けるのを何も言わずただ待っている。

 ―僕の憑き物が悪さをしているかもしれないし、そうでなくともこれ以上踏み込みたくなどないのに。

 しかし、自らの内情を説明したわけでもないし、彼女にテレキネシスがあるとももちろん思ってない。とうとういたたまれなくなった関本は、意を決して彼女の方へ向き直った。

 咲菜は、6月だというのに長袖のカットソーの上に、同じく長袖のブルゾンを羽織っていた。決して派手な顔立ちではないが、唇は薄く、しかし二重瞼の下にある眼は大きく、均整の取れた目鼻立ちをしており、肩口で切り揃えられた黒髪がよく似合っている。肌の色は驚くほどに白く、その白さのせいで肌のところどころが桃色がかっていて、関本は一瞬目を奪われた。

 そして、その白さと対比するような彼女の抱える黒い霧、死もまた同様に関本の驚かせた。今までに経験したことのない死であることはわかっていたが、それは関本の想像を遥かに超越した濃度であった。

 「よくできました」

 まるでテストで良い点を取った小学生に対するように、彼女は関本を褒めた。

 「バカにしている?」

 「とんでもない。自分の癖ってね、特性ってね、なかなか直せるものじゃないんだよ。やろうと思ってできることじゃないし、とっても勇気が要ることなんだよ。だから、凄いって思ったの。本当だよ」

 「それは、どうも」

 「捻くれてるなぁ。もっと素直にならないとモテないぞ?」

 「ご心配なく。元来他人からの人気は必要としてないし、そもそも人気は出ない」

 「こりゃあ一筋縄じゃいかなそうだ」

 おかしい。自分と会話している彼女は、どこにでもいる、ごく普通の20歳の女の子だ。少し距離間が近いけれども、自分が知っている範囲の女学生と何ら変わらない。あんなにも色濃く死に包まれるような人間ではない筈だ。関本は、既に彼女について考えてしまっていた。—興味を持ち始めていた。

 「さて、ラストオーダーだし、二軒目行く人」

 重苦しい感情を抱きながらも、尾崎以外の学生とも話をしているうちにお開きの時間になったようで、平田が声をかけた。その呼びかけに、ほとんどの学生は賛同した。

 「平田、悪いけど僕はこれで」

 元々一軒目すら来る予定はなかった。ここから更に、というのは酷であったため、立ち上がり平田に耳打ちをした。

 「おう。寧ろ悪かったな、騙すような誘い方をして。でも久々に話せて良かったよ」

 「騙すような、じゃなくて騙したんだ。そうだな、僕もそう思う」

 「悪かったって。次からは正々堂々誘うよ。来てくれてありがとうな」

 できれば誘わないで欲しいと思ったが、口にするのはあまりに野暮だ。実際、平田と久しぶりに話せて楽しかったのは本当だし、何より、向こうもそう思ってくれているのだから、水を差したくはない。

 平田が会計をしてくれると言うので、各々が代金を用意していると、関本の横から声が上がった。

「私も明日は一限だし、ここで失礼しようかな」

 翌日の朝から講義があるという尾崎も、二軒目へは行かず帰るようだ。

 「おう、尾崎ちゃんも来てくれてありがとう。合ゼミもよろしく」

 「うん。誘ってくれてありがとうね平田くん。こちらこそよろしく」

 平田が会計を済ませ、ゼミ生たちが店から出る。どうやら二軒目へ向かわないのは、自分と尾崎の二人だけのようなので、まさかこんな夜中に女性一人歩かせるわけにもいかず、自然と他のゼミ生とは違う方向へと、二人で歩みを進めてしまっていた。

 どうやら彼女も自分の向かう駅の電車で帰るようだった。視えてしまった手前、これ以上彼女との関わりを深めるわけにはいかない。そんな思いとは裏腹に、関本はどうしようもなく彼女に興味を持ち始めてしまっていた。湧き上がるマグマのように、確実に、それはまるで、恋の始まりのように。

 「なんかごめんね。送ってもらう形になってしまって」

 「いや、帰路が同じなだけだから、気にしないで」

 「もう、また目を見ること忘れちゃっているよ」

 「ああ、ごめん。善処するよ」

 今まで自分が抱いたことのない感情、彼女への興味、それらに支配されて、自分が自分らしからぬことを口走ってしまいそうになるのを抑え、そんな思いを知るわけもなく話を振ってくる彼女に、歯切れの悪い言葉を返すしかなかった。

 回りの悪い頭で聞く話によると、彼女も一人暮らしのようで、フランス語選択で、哲学と心理学に関心があるようだ。それなら哲学科に進学すればよかったのではないかと尋ねると、『言葉』というものの持つ機能や、構造を知りたいのだと。人と人のコミュニケーションツールである言葉を知ることで、それを活かし人の心について勉強したいのだと。あまりにも真っ当な理由であったため、何となくでこの学科を選んだ自分が少し恥ずかしくなってしまうほどであった。話を聞けば聞くほど、彼女のような人間が死に近いとは、到底思えなかった。

 「夏になってきたとはいえ、夜はやっぱり少し冷えるもんだね」

 長袖に身を包む彼女が、両肩を摩りながら言う。

「そうかも。君は寒がりだからこの季節でも長袖を着ているんだね」

 「そうだね、それもあるね」

 それ『も』、ということは他にも理由があるのだろうか。彼女の発言一つにすら、関本にとっては気を引くものになってしまっていた。

 その後も、彼女が振ってくる話に答え、時には自分からも話題を呈しながら歩いていると、目的の駅に着いた。電光掲示板を二人で見上げる。

 「私はもう少し酔いを醒ましたいから、54分の電車かな」

 現在、23時32分。

 「僕は38分ので帰ろうかな」

 「そっか。送ってくれてありがとうね」

 「どういたしまして。それじゃ」

 違う路線の電車に乗る彼女へ背を向け、自分の乗る電車が来るホームへ向かう。考えたくないことを考える。

 —彼女のことを、もっと知りたい。

 馬鹿な考えだ。避けていた人との関わり。それを全て無駄にしてしまう、愚かな欲だ。しかしそれでも、その欲は止まることはなかったし、何より愚かなのは、彼女の死をどうにかしたいなどど思ってしまったのだ。

 そんなことは出来るわけがない。他人の手が及ばぬことなど無数にある中で、生き死になどはその最上級だ。それでも、視えた自分だから、自分なら、何かできるのではないだろうか。その思いに足を動かされ、彼女の待つ電車のホームへ向かい、ベンチに座って手元の携帯に目を落とす彼女の前に立つ。

 「どうしたの?電車来ちゃうよ」

 前に立つ自分に気づいた彼女は眼を丸くして言う。

 「そうなんだけど。そうなんだけど、そうじゃなくて」

 どうにも言葉の出てこない関本を、彼女は訝しげに見る。いたたまれない。勇み足で来たは良いが、言葉が見つからない。言語学科生として恥ずかしい限りだ。

 「連絡先を、僕に教えてくれないだろうか。フリーメールのアドレスでも、電話番号でも、何でも良い」

 ようやく絞り出せたのは、何とも不格好な言葉だった。それでも関本には、自分にできる言葉を尽くしたつもりだった。

 「そのためにここまで来たの?電車来ちゃうのに?合ゼミの時でも良かったんじゃないのかな?」

 「そうなんだけど。そうじゃなくて」

 「さっきと同じこと言っているよ。今日話してみて思ったけど面白い人なんだね、関本くんって。私の周りにはいないタイプだよ」

 「そんなことは、ない。僕という人間はつまらなくて、君にこんなことを言うのすら申し訳ないくらいなんだ」

 「ほら、そういうところ。にしても、どういう風の吹き回しだい?」

 「上手く話せそうにないし、話しても伝わらないと思うんだけど、駄目だろうか」

 「駄目じゃないよ。ただ、周囲との関わりを避けていたようだから、どうしてかなって、気になっただけ。はい、これ私のQRコード」

差し出された彼女のSNSのQRコードを読み取る。一匹の猫のアイコンが画面に表示される。『ひとこと』の欄には、「中庸」の二文字があった。

 「ありがとう。この猫は君が?」

 「実家だけどね。名前はタケル。可愛い可愛い鯖トラちゃんだよ」

彼女はどうやら猫派のようだった。そういえば店の中で見た化粧ポーチも猫のキャラクター物であった。また一つ、彼女について知ってしまった。—もう引き返せないところまで来ていた。

 「時々に留めるけど、僕の方から何かメッセージを送ったりしていいものかな?」

 「当たり前田のクラッカーじゃない。でなきゃ何のために聞いたんだよ」

 「そうか、それもそうか。君の方も、もし何か困りごとがあったら遠慮なく連絡してくれ。と言っても、君は友達が多そうだからそんなことはないだろうけどね」

 「そう言って保険をかけなくても大丈夫だよ。関本君はちゃんと面白い人だよ」

 見透かされたような気がして、一気に顔が熱を持った。情けなくて、みっともなくて、痛々しくて。

 「ごめん。私、本当に良くないね。思ってても言っちゃいけないこと、あるよね。本当にごめん」

 そんなバツの悪そうな関本を見て、尾崎の方も何だかバツが悪そうに謝罪を述べる。

 「いや、いいんだ。君の言う通りなんだ。だから、そうだな、もし困ったことがあれば、何か力にならせてくれ」

 「うん、わかった。その時は連絡するね」

 そうして、それぞれの乗る電車の到着時刻になったので、関本は帰路についた。紛れもなく、恋は始まっていた。

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