第12話 小さい国を行き交う人々
ドッパァーン!!
と、貯水タンクでもひっくり返したかのような雨が降ってきた。
スコールだ。
ルワンダでも雨季などにはこんな雨が短期集中で降る。こういうのはおおむね三十分から一時間程度で収まるものだから、早く屋根のあるところに避難してのんびり雨宿りするのが得策だが、今回はそうはいかなかった。
僕とシャルミラは、シンガポール動物園というところで、朝から元気に、アジアゾウにバナナを与えているところだった。
「ああ、降り出した。みなさま、どうぞ屋根の下へ」
飼育員さんが、えさやりの順番待ちをしている人々に呼びかける。
「お客さん? 途中でも構いませんから、屋根の下にお入りください」
「でも」
僕はすっかり困ってしまって、飼育員さんとアジアゾウを見比べた。
「この子たち、僕がバナナのかごを持ってはなれようとしたら、すごく悲しそうな顔する! これを無視なんて、僕にはとてもできない……」
「問題ないですから! ずっとそちらにおられては、かぜをひきますよ!」
「だってもうこっちに鼻をのばしてるんだもん! ごめんね、今すぐあげるよ。はい。本当に器用だね、みんな……」
僕のちょっと長めの髪も、シンプルな白いTシャツとジーンズも、歩きやすいスニーカーまでも、みるみるうちにぬれていく。ちなみにシャルミラも似たような服装で、さっさとえさを全部やってしまって屋根の下でくつろいでいた。
このシンガポール動物園は、動物たちがほとんど自然に近い環境でのびのびと暮らしているのを間近で見ることができる、めずらしい動物園だ。僕はそもそも動物園なんて初めて来たけれど、多くの動物園はこんなに緑豊かじゃないし、動物との距離も遠いし、おりに入れられて眠るだけの生き物しか見られないそうだ。だからシンガポール動物園は世界中の人間から人気を集めているという。
……あの後、つまり僕が故郷の国を思い出した後、僕たちがすぐにルワンダに飛ばずに、こんなところに寄り道をして遊んでいるのには、一応理由がある。
最初こそシャルミラは、すぐに僕を帰そうとして、僕から正確な情報を引き出していた。
僕は僕の住んでいた村がルワンダのどこにあるのかを教えた。それから、虐殺が僕の村にまで及んだ日付が、一九九四年五月五日であるということも。場所と時間が分かれば、シャルミラは確実に僕を送り届けることができる。でも僕はそこで、待ったをかけた。
「シャルミラはそれでいいの?」
「ん? どういうことかな?」
「僕を帰したら、また時空の狭間に戻って、寝ちゃうんでしょ」
「そうだが、それが何か?」
「だってシャルミラ、旅をするの好きでしょ。このままだともうおしまいだけど、それでいいの?」
「……旅が好きなのは否定しないよ。しかし遊び半分で仕事をするわけにはいかない。これで終わりでいいんだ」
「そうかなあ? だってシャルミラってば、自分の好みで行き先を決めたり、行き先で見かけた人を楽しそうに見てたりしてたよ? 本当はもっと、自由に行動したいんじゃないの?」
「……」
「僕が帰る前なら、もう少し旅ができるでしょ。僕だって、ルワンダ虐殺の現場に今から行くの、気が重いし、こわい。心の準備をしてからでないと帰りたくない。だからさ、ルワンダは後回しにして、シャルミラの行きたい時空に行こうよ!」
シャルミラはひどく狼狽して、目を泳がせた。いつも飄々とした態度のシャルミラでも、取り乱すことがあるんだな、と僕は思った。
「……最終的にリイを帰すことにつながるのであれば、能力の行使は許可される。リイが心の準備をしない限り帰らないと主張すれば、たいていのわがままは通る。だから、リイの提案は……悪くないかもしれない」
「でしょ?」
「……。まさかこんな形で、リイに気遣われる時が来るとはね。君、最初はおどおどしていて、何事も受け身だったのに、いつのまにそんなに強くなったんだ」
「強い、のかな? でもちょっと自信はついたかも。やるべきことがはっきり分かったから」
それで僕たちは、二〇一二年のシンガポールに来たのだ。
ラフなかっこうに衣装替えをして、シャルミラは上機嫌だった。
「ここは私の担当領域ギリギリの時代だよ! 私にとってはすごく新しい時代なんだ! シンガポール自体は仕事で何度か来たが、観光目的なのは初めてだな! さあどこを見て回ろうか。世界一美しいと言われる動物園は一度入ってみたかったな。それからこの年にオープンしたばかりの施設もあるからそっちにも行きたいね」
すっかり浮かれてしまっているシャルミラに連れられて、僕は動物園に来ていた。
アジアゾウに全てのバナナを与えてから、僕はようやく屋根の下に逃げ込んだ。当然、全身ずぶぬれである。
「うぇ……パンツまでビチャビチャ……気持ち悪い」
「君、本当に根性あるね」
シャルミラは面白そうに僕を見ていた。
「ちょっとこっちへおいで。衣装替えの応用で、体もかわかしてやれるから」
僕たちは屋根の下のすみっこに移動した。シャルミラがパチンと指を鳴らす。すると本当に、僕の全身はすっかりかわいていた。それから服も少し変わっていた。白いシャツじゃなくて、灰色と白と黄色の大きなタータンチェックで、えりとボタンのついたシャツになっている。
「フフ……ちょっとだけおしゃれさんになったね」
「あ、ありがとう……」
やがて雨は止んだ。僕たちはアジアゾウに別れを告げ、会ってみたい動物たちのいる所をぐるぐると歩いて回った。僕はキツネザルとマレーバクに会いたかったし、シャルミラはキリンとホワイトタイガーに会いたがった。これら最低限の場所をめぐり、あとはおまけで出会えた動物たちにあいさつなんかをしながら、僕たちは動物園を出た。この動物園は広すぎるので、全部見て回ると日が暮れるそうだ。そうなる前に、シャルミラが言っていた新しい施設の方に行かなければならない。
「あーおもしろかった!」
「そうだね。私も満足している」
「よかった」
「フフ……ありがとう。さて、次なる目的地はガーデンズ・バイ・ザ・ベイ。まずは近くまで地下鉄で移動して、昼食を取ってから訪れるとしよう」
「分かった」
「さて、最寄りの地下鉄の駅はどこだったかな」
その時、なぜか、はるか上の方から声が降ってきた。
「ん?」
「おや……」
誰かが何かを言っている。耳を澄ますと、声はどんどん近づいてきて、すぐにはっきりと聞き取れるところまで落っこちてきた。
「シャルミラーッ!!」
それは、怒れる堕天使、ティルダードの声であった。
「あ、忘れてた」
「追いつかれたか……残念」
空から降ってきたティルダードは、地面に衝突してぺちゃんこになる前に、大幅に減速して、ストンときれいな姿勢で着地してみせた。そしてシャルミラに食ってかかった。
「お前、いくらなんでも俺への悪意が強すぎないか!? わざわざ二十ヶ所も回らせるのはさすがにやりすぎだろ! 俺が時空移動の痕跡を追えるったって、見つけるのは大変だし時間もかかるんだぞ!? 南極大陸に行く羽目になった時なんか、危うく死という概念を理解しちまうとこだった!!」
「何だ、真冬の南極大陸にでも放り出せばさすがに諦めるかと思ったのに、ずいぶんとがんばりやさんなストーカーだな」
「ストーカーじゃねーよ! 俺は楽園の最初の住人を募集してるだけだからな」
「熱心な勧誘どうも。しかし無意味だよ。彼はもうやるべきことを心に決めているからね。大切な人と一緒にルワンダ虐殺を生き延びるんだとさ」
ティルダードは一瞬、体が岩みたいに硬直した。それから素っ頓狂な声を上げた。
「は!? リイの故郷、分かったのか!?」
「うん」
「俺が言うのも何だが、そんならどうしてお前らはこんなとこをほっつき歩いてんだ?」
シャルミラが歩きながら手短に説明すると、ティルダードは目を皿のようにした後、手をたたいて笑い出した。
「あーっひゃっひゃっひゃ! こりゃ傑作だ! お、お、おもしれーっ!! 第二地区の天使が立て続けに問題児たぁな! あっはっはっはっはっ腹痛ぇーっ!」
「私は問題行動はしていないよ」
「そんな屁理屈、通用すんのか? お前絶対にネフに怒られるぞ。いいのかよ、忠実で勤勉な天使様が、無駄に遊び歩いちまって」
「いいよ、もう」
「へー? さては、お前もついに仕事をさぼるつもりになったか。ようこそ、こちら側へ!」
「いや、私は堕天するつもりはない」
「何でだよーっ。ぶっちゃけ堕天って、力をなくす以外に大したデメリットねえぞ? 自由で快適なんだけどなー。何でみんなやらねえのかなー」
「ネフ様に背く気にはなれない。だが私も多少、方針を改めるつもりになっただけさ。……ああ、そこ。下りエスカレーター。地下鉄の駅だ」
シャルミラはお金を出して、券売機で三人分の切符を買った。やって来た地下鉄に乗った僕たちは、座席に並んで座ったが、どうもちらちらと周囲から視線を感じる。主に奇抜な白いスーツ姿のティルダードのせいだ。
僕たちは目的地に近い駅で降り、手近なところにあった料理屋に入った。僕はシャルミラにチキンライスなるものをすすめられたのでそれを注文した。鶏肉から取った油とスープで味をつけた白米に、ゆでた鶏肉がそえられており、スライスしたキュウリも三枚ついている。意外とさっぱりした味わいで、僕は気に入った。
ティルダードはカニ料理を注文しており、手なれたようすでパチパチとカニの殻を割りながら窓の外を眺めていた。ここからはガーデンズ・バイ・ザ・ベイがよく見える。海に面したこの公園は、巨大な樹木をイメージした建造物群とそれらをつなぐ橋が特徴だ。
「へえーっ俺も行ったことねぇわ、あそこ。すごいモン作るんだなぁ人間は。橋には登れるのか?」
「登れる」
「じゃあ最初に行こうぜ!」
「なぜ君が決めるんだ」
「……。いいよな? リイ」
「いいよ」
「だそうだ」
「……。ならばそうしよう」
公園を訪れる客は大勢いて、けっこうな人混みを形成していた。僕は少し息の詰まる思いがしたけれど、さっきの動物園も大変な人混みだったので少し慣れた気がする。それに混んでいたのは入り口だけで、吊り橋に登ると人影もまばらだった。僕たちは遠くの町の景色を見たり、はるか下の広大な庭をながめたりしながら、ゆっくり橋を渡った。
途中、シャルミラがはたと立ち止まった。
「困ったな。ここだと屋根まで遠い」
「うん?」
僕が聞き返した瞬間だった。
ドッパァーン!!
と、ダムでも決壊したかのようなスコールが降り出した。
他の客は、キャーキャー言いながらかさをさし、走って吊り橋から撤退していく。
「走るぞ。私はかさなんて複雑なものは作れない」
「う、うん」
「うひゃーこりゃひでーな」
三人で橋を降りた時には全員ぬれそぼっていた。
「二回もスコールにあうとは運が悪いな。二人とも、こっちの物陰に来なさい」
「分かった」
「ちぇー。俺まだ吊り橋にいたかった」
シャルミラがパチンと指を鳴らすと、僕の服も髪もすっかりかわいて元通りになった。礼を言おうとシャルミラを見上げたところ、視界に変なモノが入ってきたので思わずそちらに目をやった。
それは、変なモノではなかった。ティルダードだった。ただし、めちゃくちゃ変な服装の。
「……!」
「これでよし」
「よしって……俺の服、何か……って、はあぁ!?」
ティルダードが叫んだあたりで僕はがまんの限界がきた。
「ぴ……ぴ……ぴゃーっふぁっふぁっふぁっふぁ!!」
「!?」
シャルミラとティルダードがぎょっとして僕を見た。
「リイ、それは笑い声なのか」
「ぴゃふぁっ」
「間違いなく笑ってんぞこいつ! しかも俺を指さして!」
「よかったな」
「よくねー! 何だこれアロハシャツか!? オレンジと蛍光ピンクと蛍光イエローで、ごていねいにヤシの木の柄かよ。目が痛くなる! そんでダメージドジーンズのダメージっぷりもヤベーよ。もはやボロ雑巾だよ。何で片方だけ半ズボン状態にした? ってかやたらジャラジャラとビーズのアクセサリーが……ん? え、頭? あれ麦わらぼうしまで……ってこれまたデッケェハイビスカスついてんな!? これ存在感おかしいだろ!! 花かざりがぼうし本体よりデケェのは絶対おかしいから! ふざけんなよお前、普通に元の服装にしてくれ!!」
「ぴゃーふぁふぁふぁふぁ!」
「元の服装も普通ではなかったよ。どうして私が、あのクソダサスーツを作ってやらなくてはいけないんだ? あんなものは恥ずかしくてとても着せられない。今のしゃれた姿の方が絶対にお似合いだ。あと、これもかけるとよりよい」
シャルミラは、フレームがショッキングピンクのハート型をしたサングラスをティルダードの顔に押しつけた。
「オイ!! バカ丸出しか!? 俺がスゲー調子こいてる奴みたいじゃねーか!!」
「それは元からそうだ」
「ぴゃふぁっふぁっふぁ……はあ……はあ……ぴ……」
「クソッ、こんなことなら最初から俺が買って──あ無理だ、無一文なんだった。シャルミラ、金よこせ金」
「君は強盗か何かか? 断る」
「いやお前と違って物体生成もできねえんだよ俺! ああ何てこった、俺は今初めて、堕天したことを後悔しかけてる……!!」
「ご愁傷様。今後は軽率な行動は控えるといい。いや、もう手遅れかな。そんなことより君、時空をねじまげられるなら、自分の頭上だけ雨の侵入を防ぐとかできたんじゃないのか」
三秒くらい、沈黙が続いた。
「……その手があった──!!」
「つきあってられん。行くぞリイ。私は植物園が見たい」
「ぴ」
僕は笑いすぎてなかば人語を失っていた。
シャルミラは温室へと僕たちを連れていった。ティルダードはやけになったのか何なのか、ぼうしもサングラスもつけたままついてきた。
そこは、熱帯の高地などに生息する植物を集めた、大規模かつデザイン性に優れた温室だった。植物でおおいつくされた山があり、そこから滝が降り注いでいる。植物たちがどこから見ても美しくなるよう、小さな花の一輪まできちんと計算して手入れされているのが分かる。人工物と自然が共に織りなす景色である。申し分ない見ごたえだ。
温室を堪能した僕たちは、そろそろ別の時空に移ろうかという話になった。
「次はどこに行きたいの?」
「ルネサンス期のイタリアかな」
「ん?」
「昔々のヨーロッパだよ。芸術が盛んだった頃」
「へー」
「少し待ってくれ」
シャルミラは言い、指を鳴らした。僕はボタンがたくさんついた上着にぴっちりとしたズボンのようなものをはいた姿。シャルミラは細身で足元までかくれるようなワンピース姿。そしてティルダードはいつもの白いスーツ姿になっていた。
「おお!? これは……グラッツェ」
「君、どうせこの後もひっついてくるんだろう。それにどうせ普段からずっとそのかっこうで時空を飛び回っているんだろう。だから戻した。それとも当時の衣服の方がよかったか」
「いや、これでいい。……あんだけ嫌がってたのに戻してくれたんだな」
「君の働きに免じて」
「へ? 俺が何かしたか?」
「リイがあんなに笑ったのは、出会ってから初めてだった」
「……」
「そういえばそうかも」
僕は言った。
「二人ともありがとう。楽しかったよ」
「……。いや、俺は道化役にされただけだから。何もしてねーよ」
「どういたしまして。君が楽しめたのなら何よりだ」
こうしていると、僕は自分が深刻な状況にあるのをうっかり忘れてしまいそうになる。本当に友達と遊んでいるみたいで、不思議な安心感と高揚感があるのだ。シャルミラを説得して寄り道ができてよかった、と僕は思った。
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