第11話 戦後の町のおしゃべりな女性


「ふざけんな!」


 僕がドイツの首都ベルリンの地を踏んで、急激に冷たくなった空気を吸い込んで、最初に聞いたのがこのどなり声だった。

 男が一人、古びた露店で新聞を買おうとしているらしいのだが、店員と口論になっている。客の手には、分厚い札束があった。


「先週の百倍の値段って、正気じゃねえだろ! 俺の今の手持ちはこれだけだ。つべこべ言わずに値下げしろ!」

「お客さん、今のこの国に正気の奴なんざいませんよ。あんたも含めてね。値下げはできかねます。新聞ごときにそんな躍起にならないでもらえます?」

「そ、それが店員の言い草か!? 自分が売ってる商品だろうが!」

「はあ……。どうしてもでしたら……その札束に加えて何か価値のある物品を渡してくれたら、売りますよ。たとえばその腕時計ですとか」

「なっ!? これはやらん!! 戦争に出た時に支給されたのをそのままもらいうけた、俺のじまんの品なんだぞ」

「では、お引き取りを。次のお客さんのじゃまになってるんで、すみやかに願います」

「……くっ!」


 客は怒った顔をして去った。次の客はどさっと店員の前に札束を三つ置き、タバコを一箱だけ受け取っている。

 何かが変だというのは僕にも感じ取れたが、うまく言葉にできない。僕は無言でシャルミラを見上げた。


「ハイパーインフレーションだね」

「ハイパーイヌ……何?」

「ハイパーインフレーション。ものすごく簡単に言うと、お金の価値がものすごく下がって、ものの値段がものすごく上がっているんだよ。だから、何か買うためには、たくさんのお札が必要なんだ」

「あー……。何でそんなことに?」

「国際関係がうまくいかず、財政にも失敗したから、かな。ドイツは第一次世界大戦で負けたから、勝った国々に対してお金を支払うことになってしまった。このことが一番、ドイツを苦しめている問題だと言える」

「……? 難しい」

「私も詳細までは暗記できていない。すまないね」

「いや、シャルミラが謝るようなことじゃないけど……」


 僕はうつむいた。赤いかごと、くたびれた白ワイシャツと、吊りのついたズボンが目に入る。ちなみにシャルミラは濃いグレーのほっそりしたワンピース姿で……いや、今はそんなことより。


「僕おなかすいちゃった」

 シャルミラはきょとんとした。

「君、さっき山盛りのバナナチップスをひとりじめしていたじゃないか」

「そうだけど。だめ?」

「フフ……だめではないさ。何かおいしいものでも買おう」


 シャルミラは、持っていたおしゃれな小さいかばんに、あふれんばかりの紙幣を生成した。


「あっちにパン屋がある。かなり並ぶことになるが、そこは勘弁してくれ」

「分かった」


 そこは、石だたみの広い道に面したパン屋で、大きなガラス窓からは、棚に積まれたパンの数々がよく見えた。

 僕たちはそのパン屋の前にできている長蛇の列の一番後ろに、おとなしく並んだ。列にいるのは女性ばかりで、僕の一つ前の人も女の人だ。

 彼女は並ぶのにあきてひまをもてあましているのか、きょろきょろとせわしなく周囲を見ていた。すぐに僕たちに目をつけて、遠慮なく話しかけてくる。


「アラめずらしい。東洋の人?」

「いや、確かに東洋人の血は混じっているが、私たちは元からドイツ人だよ」

 相変わらず、とっさにうそをつくのがうまい天使だ。

「そうだったのね! それにしても、ぼうや、学校はどうしたの?」

「学校は……」

「この子は見た目のせいで、学校でいじめにあってしまってね。今は家で勉強をしているんだ」

「まあ! それは気の毒に」

「ずっと家にいても気が滅入るだろう? だからたまにはこうして一緒に買い物に出かけるんだよ」

「それはいいことね。よかったわね、ぼうや」

「う、うん……」


 僕は戸惑いがちに返事をした。


「うちもねえ、子どもが三人いるのだけれど、みんな食べ盛りで大変なのよ。近ごろじゃ食べ物すらろくに手に入らなくて、貧しいおうちの子が亡くなったりしてるでしょう?」


 すごい勢いで話が脱線していく。僕はぽかんとしていた。


「本当なら私も子どもにもっと食べさせたいけど、毎食の小さいパンと、家庭菜園で採れた野菜のスープだけで限界! 私は造花を作る内職をしているのに、もらえる賃金なんて紙くず同然で。情けなくなってくるわ。子どもたちが毎日、おなかがすいたって泣くんだもの」

「そうか。私も内職をやろうか迷っているところだが、紙くずのために時間を割かなければならないとなると、困るな」

「少なくとも造花作りは、手間の割には安い仕事よ。家事の合間に、寝る間も惜しんでやらなくちゃいけないし、それだけがんばっても、お給料はまさに焼け石に水って感じ。まあ、何もしないよりは足しになるから、私は続けているけれど」

「なるほど」

「そもそも、ルール工業地帯を占領されていなかったら、もう少しインフレーションもましだったと思わない? あそこが機能していないからモノが足りなくなっているんでしょう? しかも政府ったらストライキを後押しする始末で、まあそりゃあもちろん必要なことなんでしょうけど、おかげで国中大混乱よ。フランスとベルギーにはもっと冷静になってほしいわね! 占領なんかしたって誰も何も得をしないって、いいかげん分かってもらいたいものだわ」


 またしても話の脱線が著しいが、僕はとある単語が引っかかって、ほとんど反射的に女性を見上げた。


「……今、ベルギーって言った?」

「ええ、言ったわよ。今、フランス軍とベルギー軍が、ドイツのルール工業地帯を占領しちゃってるの」

「ドイツの土地を、ベルギーが取っちゃったの?」

「そうよ。フランスもね」

「……!」


 頭が、かつてないほどしびれはじめた。あまりにしびれが強くて、しゃべることすら難しくなった。僕は黙って、女性とシャルミラの会話を聞くしかできなくなったが、もう二人が何の話をしているかも分からない。ただ一つのことしか考えられない。


 『ドイツの土地を、ベルギーが取った』。


 それって、それって、……あの子が教えてくれたこととそっくりじゃないか! そうだ、僕の大切な人は、僕に読み書きと計算だけじゃなくて、歴史も教えてくれていた。その時の話に、ドイツとベルギーが出てきたのだ。だから僕は、この二つの国の名前を思い出せた。……でも、一体なぜ? なぜあの子は、この二国の関係なんかを、僕に教えた?


 夢中で考えていたから、シャルミラから急に声をかけられて、僕はとびあがった。


「リイ、聞いているか?」

「ぴゃっ」

「順番が来た。店に入るよ。気になるパンがあったら言うように」

「あ、うん……ありがとう」


 入店すると、ふわっと、焼きたてのパンのにおいが全身を包み込んだ。僕は空腹だったことを思い出した。

 並んでいるパンは実に種類が豊富だった。四角くて大きいもの、小さくて丸いもの、固いもの、やわらかいもの、甘そうなもの、甘くないもの。

 そんな中で僕はとあるパンを見つけた。長いパン生地をハート型のような不思議な形にひねってから焼いたらしきもので、表面がつやつやと光っている。棚には、プレッツェルと書いてあった。


「それが気になるかい」

 おぼんを持ったシャルミラが近寄ってきて言った。僕はうなずいた。

「いいところに目をつけたね。プレッツェルはドイツを代表する人気のパンだよ」

 シャルミラはプレッツェルを一つおぼんにのせた。おぼんには他にも、砂糖がまぶしてある丸いパンが二つのっていた。

「これはベルリーナー……と、他の地域では呼ばれているが、ここベルリンではプファンクーヘンと呼ばれている揚げパンだ。中にはジャムが入っている」

「へえ」

「これで会計をしてくるよ。リイは外で待っていてくれ」

「うん」


 僕は店の前にベンチが設置されているのを見つけ、そこに座って足をぶらぶらさせながらシャルミラを待った。シャルミラはすぐに、紙袋を持って出てきた。

「はい、プレッツェル。あとプファンクーヘンは、ブルーベリージャムとサクランボジャムの二種類があるんだが、どちらがいい?」

「うーん? あの、僕、ブルーベリーもサクランボも知らないんだけど、どうやって選べばいいの?」

「おや、そうだったか。ではサクランボの方をお食べ。甘酸っぱくておいしいよ。……まあ、先にプレッツェルを食べた方がいいか。プファンクーヘンの方は、おやつだからね」


 僕はうながされるままにプレッツェルをかじった。

 見た目はすごく固そうだと思ったけれど、そんなことはなかった。外側はカリッとしてて、中身はもちっとしている。塩気があって食べやすい上に、腹持ちが良さそうだ。僕はあっという間に食べ切ってしまった。


「おいしかったか?」

「うん」

「よかった。しかし、パンだけ食べたら口の中がかわく。少し口を開けていなさい」

「ああ、あの……また、水をくれるってこと?」

「そうだ」

「えと……なるべくゆっくり出してくれるとうれしい……」

「承知した」

 次の瞬間、大量の冷水が口の中に出現した。

「ゴボボ!」

 ぜんぜん、ゆっくりじゃなかった。しかも多すぎる。苦労して水を飲み込んだが、一部は地面にこぼれた。僕は何度か咳き込み、ぜえはあと荒い呼吸をしながらシャルミラを見たが、シャルミラは何か問題があったということすら認識していなかった。

「よろしい。また水が欲しければ私に言うこと」

「……ありがとう……」

 気がきくのかきかないのか、よく分からない天使だ。


 僕はあきらめて、プファンクーヘンを手に取った。ぱくんとかじる。こちらは全体がふんわりとやわらかい食感だった。そして味は。

「!? あっま」

「口に合わなかったかな」

「ううん、すごくおいしいよ。甘すぎてちょっとびっくりしただけ……」

 だが、サクランボジャムのすっぱい風味が、このパン全体の甘さとよく調和する。これも、食べ始めたら止まらないうまさだ。

 僕が無心になってパンをむさぼっていると、シャルミラが突然、こんなことを聞いてきた。


「リイはベルギーという国を知っていたのか」

「ん? うん」

「意外だった。君は、オランダを知らなかったから」

「それがどうかしたの?」

「ベルギーとオランダは隣国どうしだ。まとめて一つの国だった時代もあるくらいで、二国の関係はとても深い。なのになぜ、ベルギーの方だけ覚えていたのだろう」

 僕はプファンクーヘンの最後のかけらを口に放り込み、手についた砂糖をなめた。

「……ベルギーはドイツの土地を取ったって、あの子が言ってたから」

「……うん?」

「あの子は歴史を……ああ、そうだ、僕たちの国の歴史を僕に教えてくれた。僕たちの国はドイツの植民地だったことがあるけど、途中でベルギーの植民地に変わったって。でも僕たちが生まれるずっと前に、僕たちの国は独立したんだって」

「……」

 シャルミラはパンが入っていた袋をくしゃっと丸めた。


「リイ」

「何?」

「それは、ほとんど答えだよ」

「ん?」

「そのような歴史的経緯をたどった国は地球上に二カ国だけだ」

「えっ、そうなの!?」

「植民地時代、君の出身国は、もう一カ国と合わせて、『ルアンダ=ウルンディ』と呼ばれていた。後にルアンダ=ウルンディは『ルワンダ』と『ブルンジ』に分かれて、それぞれ独立を果たす。どちらも、アフリカ大陸の真ん中より南に位置する小さな内陸国で、どちらの国でも独立後に激しい虐殺事件が起きている」

「……!!」

「君の故郷はどちらの国だったか、思い出せるか。ルワンダか、ブルンジか──」


 胸がどきどきするのは、期待からか、それとも不安からか。僕は首にかけていたひもをたぐりよせて、小さな赤いかごを見つめた。


「これは」

 僕はゆっくりとかみしめるように言葉をつむいだ。

「アガセチェって名前のかご。中に幸せを入れておいて、逃げないようにしっかりふたをするんだ。このアガセチェは、僕の大切な人が僕のために特別に編んでくれた、小さいやつで……普通はもっと大きいのを編む。色は赤の他にも、茶色や黒があるよ。女の子はね、アガセチェをきれいに編めるようになることが、一人前になる条件なんだ。それでね、アガセチェはね……ルワンダに伝わる、伝統工芸品なんだよ」

「……!!」


 僕は、きゅっとくちびるを引き結んでいるシャルミラの顔を、静かに見上げた。


「ありがとう、シャルミラ。僕は思い出したよ。まだまだ忘れてることはいっぱいあるけど、これだけは間違いない。僕の故郷は、ルワンダっていう国だ」

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