第10話 学ぶ喜びを破壊する男

 ギャーッという悲痛な喚き声。誰かを恫喝するような威嚇的な声。やめてくれとか、ごめんなさいとか、必死に嘆願する声。それらが遠くから、無数に聞こえてくる。

 僕は知っている。これは悲劇が起きる時に、人間が発する声だということを。

 僕はいよいよ確信を深めた。僕が故郷の時空で何を見たかについて。


 時はわずかにさかのぼる。僕とシャルミラは時空移動して、コンクリート固めのまっすぐな道を歩いていた。

 人っ子一人いない。灰色の町は、もぬけの殻だ。

 これまで人間の多い場所をよく訪れては閉口していたものだが、町の中だというのに人間を一人も見かけないというのは、それはそれで不気味だ。気温は暑いのに、景色は寒々しい。


「ここは」

 シャルミラが恒例の解説を始める。

「カンボジア──改め、民主カンプチアという国の首都、プノンペンだ」

「え、首都なんだ……。人、いないのに」

「それについては複雑な事情がある。このまま歩きながら話して聞かせよう」

「うん」


 規則正しく並ぶ四角い家々が続いているのを見渡しながら、僕はうなずく。


「リイは、冷戦という言葉を知っているか」

「うーん、知らないと思う」

「昨日、オーストラリアで教えた、あれだよ。世界の国々が二つの陣営に分かれた時代」

「ああ、あれ」

「世界大戦のような大規模な正面衝突がないために、冷戦と呼ばれている。戦争そのものは各地にいっぱいあるがね……」

 シャルミラは呆れたようにふうっと息をはいた。


「二つの陣営のうち片方は、労働者を大切にすると言いながら、実際は人々を無理に働かせる国、共産主義国家。もう片方は、人々の自由を大切にすると言いながら、実際は金持ちばかりが得をする国、資本主義国家」

「……あまりいい時代じゃなさそうに聞こえる」

「フフ……どうなんだろうね。ちなみに共産主義国家のリーダーはソビエトで、中国は一応こちら側。資本主義国家のリーダーはアメリカで、オーストラリアや日本はそちら側だよ。君、ソビエトという国は知っているか」

「ソビエト……?」

 僕はむむーっと頭をひねった。

「知ってるような気もするし、知らないような気もする」

「ふむ、なるほど。……民主カンプチアは、ソビエト率いる共産主義国家の一員だ」

「むりやり働かされる方」

「そうだ。それもこの国には今ひどい独裁者がいてね。物知りの人や高度な教育を受けた人は、労働者の敵だ、つまりは反逆者なんだと決めつけて、片っ端から殺してしまう」

「……! こ、殺す……!? しかも、頭がいい人を殺しちゃうの!? それが、昨日言ってた悲劇?」

「……悲劇の一部だ。ここではそれだけじゃない。たとえば、文字が読める人、時計が読める人、眼鏡をかけている人まで、みんな知識人だと責めては、拷問して殺す」

「ええっ!? むちゃくちゃだ」

「そうすることで、全ての国民を、無知で従順な働き者にして、農業だけをやらせようとしているんだよ」

「うえぇ……」

「ここプノンペンに誰もいないのはそれが理由だ。みんな田舎の農場に追いやられた。もしくは殺された」


 想像を絶する規模のことが起きている、と僕は感じた。人間の、理不尽で醜悪な部分がむき出しになったような世界だ、


「この悲劇を実行している独裁者は、ポル・ポトと名乗る男。彼はクメール・ルージュという勢力を率いて、莫大な人数の死者を出しながら、自分たちだけいい生活をしている。……さて」


 シャルミラは足を止めた。


「この場所はトゥール・スレンという地名をしている。あっちにある大きな建物は、高等学校として使われていた建物だ。だが今は生徒は一人もいない。理由は分かるかな」

「……勉強ができる人を殺しちゃったから。それと、この国にもう勉強ができる人はいらないって考えたから」

「そういうことだ。よく分かったね」

「勉強が許されないのって、よくあることだし」

「いや、それは時代と地域によるが……」

「そうなの? 僕は学校行ってなかったと思う」


 シャルミラはおどろいたように僕の方を見た。


「思い出したのか。故郷での生活を」

「う、うん……。だから僕、勉強はちっとも……」

 言いかけて僕は口をつぐんだ。

 学校に行っていなかったのは確かだが、勉強はしていた。

「ちがった。勉強は、僕の大切な人が、こっそり教えてくれてた。だから、読み書きや計算はできてたよ」

「そうか……」


 シャルミラは複雑な表情になった。僕の記憶が戻って嬉しいのか、それとも……悲しいのか。僕には読み取れなかった。

 しばらくして、シャルミラはまた語り始めた。


「……勉強が禁じられた今、この建物は別の目的のために流用されている。ここはね、逮捕したたくさんの人々を、ひそかに拷問する施設になったんだ」

「拷問……」

「ここでひどい仕打ちを受けた人々は、あまりの苦痛に耐えることができなくなって、ついに自ら『私は反逆者です』とうその告白をするようになる。反逆者ならばすぐに殺してもらえるからね。要するに、死んだ方がずっとましだと思えるほど、苛烈な拷問が行われている」


 僕はぶるりとふるえ、一歩シャルミラの方に近づいた。


「自称反逆者は処刑場に連れて行かれる。処刑場はあちこちにあって、それらはヴィエル・ピケットと呼ばれている。……今回は、高校には入らないし、ヴィエル・ピケットにも行かない。拷問も殺し方も、あまりに残虐だからね」

「分かった」

「しかしせっかく来たのだから、高校に少し近づいてみよう」

「それって、大丈夫なの? 怒られない?」

「さあ? 自分たちがクメール・ルージュの『同志』だと主張すれば、大丈夫じゃないかな」


 それは本当なのか、極めて怪しいと僕は思った。シャルミラのうそのつき方は信用しているのだが。


「そういえば今回、シャルミラと僕の服装、ほとんど同じだね」

 黒い長袖のシャツも、赤いチェック柄の長い布を首に巻いているのも、黒いサンダルをはいているのも一緒。ちがうところは、僕が長ズボンでシャルミラがロングスカートってところだけ。

「うん。これは国民服と言って、この国の人はみんなこれを着ているんだ」

 僕は目を丸くした。

「みんなこの服!?」

「労働するのに、おしゃれは不要だからね」

「……変なの……」

「そういうわけで、リイ、今はそのかごをポケットに入れておくことをおすすめするよ。下手に目立つと危ない」

「え、あ、分かった」

 僕は首からかごのひもを外して、そっとポケットにしまった。


「行こうか」

 僕たちは、元高校校舎の目の前まで来た。

 そしてかすかに聞いた。

 喚き、嘆願、そして恫喝。閉ざされた施設をも突き抜ける、ありえないほどの苦痛の叫び。それが、たくさん、たくさん。

 呼吸が、浅くなっていく。また過呼吸になるのは嫌だから、僕は必死で気持ちを落ち着けようとした。シャルミラがそっと僕の肩に手を置いた。僕はめまいがして、ひざに手をついた。かすれた声で言う。


「知ってる、僕これ知ってるよ。僕が見た悲劇は戦争じゃなかった。虐殺だった!」

「……そうか……。それは、ここでのできごとか?」

「ここじゃない。ちがう時空」

「気の毒に」

 シャルミラは僕の肩に置いた手に力をこめて、いたわるように言った。

「思い出すのはつらいだろう。記憶のふたを無理にこじ開けるのは……心に大きな傷を作る、非常に危険な行為だ。でも君は思い出さなければならないんだね」

「うん……っ」

「少し待ってくれ。私は手伝えるかもしれない。今、世界の虐殺事件をリストアップする。数は多いが、こういう悲劇はほとんど暗記できているはずだから……」


 その時、「おい!」というどなり声がおそってきた。僕がびくっとして声のした方を見ると、一人の若い男がずんずんと歩いて近づいてきていた。

「ひえっ」

「そこの二人! 何故労働に従事せず、こんな所にいる!」

「ああ、見回りの人かな」

 シャルミラはつぶやくと、手のひらから男に仲良し念波を送った。そしてお得意のうそを披露する。

「おや、だめだったのか? 私はここの関係者だぞ。下っ端だけどね。今日はこの子に、『勉強したらこういう目にあうから、絶対に勉強をするな』と教えに来たんだ」

 男の目から警戒の色が徐々に薄れていき、男の声にはもはや敵対心は残されていなかった。

「それはまあ理に適ってるけど……ここは秘密の場所ってことになっているじゃないか。軽々しく他人を連れてくるな」

「分かった。すぐに去ろう。しかし時間が余るな。エレファント・バーにでも行って休憩するか」

 シャルミラは僕に向かって言った。そんなものは知らないし、言われても困るのだが。

「エレファント・バーって……ここからだとけっこう歩くぞ。いいのか?」


 怪しい人物のことを心配するとは、今回の仲良し念波はかなり強力なものだったらしい。こうなってはもうシャルミラの思い通りだ。


「そうだ、君、見るからに模範的な同志じゃないか。そのようすなら、車を持つことを許可されているんだろう? 乗せていってくれないか。一緒に飲もう」

「え? 俺も?」

「まだ忙しいのか?」

「いや、もう今日の仕事は終わりで……」

「だったらいいじゃないか」

「……言われてみればその通りだな」


 どういう理屈だ。僕はひそかに呆れた。


 男は、プラク、と名乗った。僕たちはプラクの車に乗せてもらい、すぐに目的地に着いた。

 エレファント・バーは、町の閑散とした暗い雰囲気とはまるでちがう、華やかできらきらした明るい場所だった。大きい立派な長机に、いすが等間隔で並んでいる。その真向かいで、お店の人が上品な立ち姿をして客を待っている。お酒のびんがたくさん並んでいて、どうやって飲み干すのか分からないほどだ。


 シャルミラは慣れたようすで注文をした。

「カクテルを二つ。私はファム・ファタール、彼はコスモポリタン。それとこの子にスイカジュース。支払いはこれで。釣りはいらないよ」

 シャルミラが差し出したものを見て、店の人は明らかに驚愕していた。

「え、何? どうしたの」

「フフ……。この国は、『お金は資本主義の象徴だ』って言って、お金を使うのを禁止してしまったんだ。今は物々交換が主流でね。今回は本物のきんの粒を渡した。いくらでも釣りがくるほど価値がある」

「ふーん」

 愚かな独裁者がいると、国の中が意味不明な状態になるんだな、と僕は思った。


 すぐに、飲み物が出てきた。

 小さいグラスに入ったピンクのお酒が二つ。暗い色合いのものがファム・ファタール、薄い色合いのものがコスモポリタン。スイカジュースも。

 それと、山盛りの何かが乗った、白い皿。

「サービスのバナナチップスでございます」

 店の人は言った。何か前にもこんなことがあったなと思いつつ、シャルミラにうながされて、僕はそれを食べてみた。

「……! 甘い……。パリパリしてる。おいしい」

 それにしても、僕の知っているバナナとはずいぶんちがう。僕にとってのバナナは、薄切りじゃないし、甘くもなくて、揚げるのではなく煮込んで食べるもので、食感はほくほくとしているものだ。

 続いて僕はスイカジュースを飲んだ。これもまた甘い。それもすっきりとした甘さで、飽きがこない。


 僕がバナナチップスとスイカジュースに夢中になっている内に、プラクはすっかり酔っ払っていた。カクテルは、あんなに小さいグラスにちょびっとしか入っていなかったのに、プラクは顔を真っ赤にしてぐちを言い始めた。


「わけが分かんないよ。俺は農家の三番目の子で、家は継げないからプノンペンに出て、工場でゴムの加工とかの仕事をやって生活してた。労働者の権利とかはよく知らねえが、生活がよくなるんならと思ってクメール・ルージュを応援してた。それが気づいたら、人を苦しめる仕事に就いてたんだよ。今じゃ立派な拷問係になっちまった。どういうことだ? 意味不明だろ? 俺はどうすればいいんだ」

「プラク、君、さては酒に弱いな。聞かれてはまずいことを言っているぞ」

「へあ? そうか? でもなあ、俺がやらないと俺が殺されるから、従うしかないんだ。最近、思うんだよ。俺一人が生き延びるために、何百もの人間を死なせていいのかって。ところがだよ、俺が仕事をやめて反抗して殺されたって、代わりのやつが現れるだけなんだ。そしたら、代わりのやつ一人が生き延びるために、また何百もの人が死ぬだけなんだよ。そうなるくらいなら俺が生き延びたいと思ってしまう……。俺はクズだ。生きたいのか死にたいのかもよく分からない。本当は誰かのためになる仕事をやりたかった……。もう疲れたよ。お前ら、俺のことは密告なり何なり好きにしてくれ……」

 プラクは泣いていた。シャルミラはプラクの背中を優しく叩いた。


「しっかりするんだ。とにかく君はこれから、人前で酒を飲むな。今は店を出よう。行くぞ、リイ」

「あっ、うん」

 僕は残っていたジュースを一気に飲み干し、すでに少なくなっていたバナナチップスの残りも全て口に入れた。口いっぱいのチップスをバリバリとかみくだきながら、いすを降りる。

 シャルミラはさっきより大きな金の粒を店の人に渡した。

「これは口止め料だ。プラクが言ったことは誰にもばらすんじゃないぞ。もし話がもれたら、即座に私が君を告発する」

「ヒッ……承知しました」


 僕たちは外へ出た。プラクはまだ涙をこぼしていた。

「プラク、君は酔いがさめてから車で帰るんだよ。事故でも起きたら大変だからね」

「ヒック。わ、分かった」

「私たちはここで失礼する。話を聞けてよかった。これからもがんばるんだよ」


 僕とシャルミラはプラクに背を向けて歩き出した。

「ねえ、どうしてプラクをさそったの? 何か興味があったの?」

「いや、今回はふざけた理由ではないよ。君が全てを思い出す前に、彼の話を聞かせたくなったんだ。悪事に手を染める人間が、本当はどんな人物なのか、知ってもらいたくてね」

「……そっか」

 シャルミラは分かっていたんだ。プラクが根っからの悪人じゃないって。

「でも、悪いことは許せないよね。元々いい人かどうかは関係なく、悪いことはしちゃだめだよ」

「その通りだ。よく分かっているね。悪いことをした者は当然、きっちりと報いを受けるべきだ。それはそれとして、君がこれから故郷で生きていくなら、一人の人間としての悪人と向き合う時が必ず来る。それをどのように考えたらいいのか、何かヒントになればいいと思った。特に、君の故郷には悪人が多そうだから」

「そっか」


 さて、とシャルミラは言った。


「その故郷の話をしよう。私の担当区域内での虐殺事件について調べる必要がある」

 僕はつばを飲み込んだ。

「うん」

「事件は数限りなくあるが、特に規模が大きいとされる事件が起きたのは、第一に中国。第二にソビエト」

「……そう、なんだ」

「だが君は最初、中国のことを、『どこかの大きな国』と言った。自分の出身地に対しての言葉選びとしては不自然だ。そして今回、君はソビエトのことを『知らないような気もする』と言った。覚えていないだけの可能性もあるが、いったん候補からは除外する。そこで、第三の事件の話をしたい」

「うん」

「リイは、ドイツという国を知っているか」

「あ、知ってる」

「……」

「どうしたの?」

 シャルミラは左の手のひらで顔をおおい、重いため息をついた。

「では、ヒトラーという名前やナチスという組織に聞き覚えは?」

「……? ない」

 シャルミラはまたたきをした。

「ない、のか。……いや、まだ断定はできない。一度、ドイツへ行こう。安全のためにも、行き先は事件の始まる十年以上前の時代にしておく。……覚悟はいいかな」

「大丈夫」

 僕は真剣な顔をしてシャルミラを見上げ、力強くうなずいた。

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