第9話 国で一番すてきな青年

 季節は秋だと聞いていたが、それにしては暑いような気がしなくもない。いや、僕の故郷も基本的にこんなものだったかもしれない。日に焼けたコンクリートの道を歩く。潮風が心地よい。


 僕は着心地のいいカラフルなシャツと、動きやすい短パンを着て、麦わらぼうしをかぶり、サングラスという黒眼鏡をかけていた。シャルミラも麦わらぼうしとサングラス、それに涼しげな色合いをした袖なしのワンピース。風に吹かれて、すそが優雅にはためいている。

 オーストラリアの東の海岸を、僕たちはのんびり歩いていた。海を見るのは二度目だけれど、前に見た地中海とはぜんぜんちがう景色だ。サングラスを取って見ると、海は場所によって色が青だったり緑だったりしていて、そのどれもが美しい。


「あれが、グレート・バリア・リーフ。世界最大の珊瑚礁だ」

「サンゴショウ?」

「珊瑚という、海に住む生き物の骨が積み重なってできた、浅瀬のことだよ。珊瑚そのものもきれいだし、水が澄んでいるから魚もたくさんいる。珊瑚礁じたいは世界各地の温かく澄んだ海にあるけれど、中でもグレート・バリア・リーフは大きくて、世界的に有名なんだ。楽しめると思うよ」

「たしかにすごくきれい……。でも、さすがにここからじゃ魚は見えないよ」

「それは、海にもぐって見に行くんだ」

「もぐる!?」

「海にもぐるのが、グレート・バリア・リーフで一番人気の楽しみ方だ。スキューバダイビングっていう、全身でもぐるやつでもいいけど、リイは初心者だし小さいから、浅瀬で遊ぶシュノーケリングがちょうどいいかな」

「シュヌ……何?」

「シュノーケリング。あそこに道具を貸してくれる店がある。今からでもできるかどうか、聞いてこよう」


 僕たちが店に入ると、「ハーイ!」と元気な声がして、短い金髪にオレンジ色のシャツの青年が顔を出した。

「お客さんかい? ワオ、アジアの人かい!? すっごくめずらしいね!! ごめん、俺はあいさつの言葉を知らないんだけど……うちの店に何か用かな?」

「あいさつは、しいて言えばコンニチワだが、普通にハローで構わないよ。私とこの子は日本人の血が混じっているだけで、生まれた時からキンバリー地域に住んでいるオーストラリア人なんだ。ただ、こっちの方に来たのは初めてでね。この子と私でシュノーケリングがしたいんだが、今からでも申し込めるかい?」

「もちろん! 道具も貸すし、俺が案内もしてやるよ。一緒に楽しもう!」

「それは助かる。代金はこれでいいかな?」

「ぴったりいただいたぜ! さあ、遊び放題だ!」

「君のことは何と呼べばいいかな」

「ふふん。俺こそが、オーストラリアで一番イケてる男、その名もトーマス・ジョンソンだ! 気軽にトーマスって呼んでくれよな! あんたらは?」


 変な人だな、と僕は思った。やたらテンションが高いし、自分のことをイケてるって言うし。

 トーマスはシャルミラとせわしなくおしゃべりをしながら、さっさと準備をした。僕とシャルミラの体の大きさを測って道具を選ぶと、最後に水着、というものを差し出した。水中での活動のための服だという。僕もシャルミラも全身をぎゅっと締め付ける黒い水着を貸してもらった。

 僕たちが出てくるや否や、トーマスも水着姿で「レッツゴー!」と歩き出す。僕たちはトーマスの後を歩いて、真っ白い砂地まで降りていった。


「ハーイ、じゃあそこの小船に乗った乗った! 俺がベストなスポットまで連れてってやるよ!」

「よろしく頼む」

「よ、よろしく……」

 ブオーッと謎の音を立てて、小舟は海へと出航した。

「さて、着く前に道具をつけるよ! はい、これはフィン。魚のひれみたいだろ? こいつを足につけるだけで、めちゃくちゃ泳ぎやすくなるんだ。続いてこれ、マスク。目と鼻を守ってくれるよ。最後にシュノーケル。こいつをくわえていれば、水中でも息ができるってわけ」

「へえ、すごいね」


 トーマスは僕たちが道具をつけるのを手伝い、僕たちが海に入るのまで手伝った。シャルミラはさっそく海に顔を突っ込み、足で水を蹴って泳ぎ出した。一方、僕は首から上を水につけるのがこわくて、船につかまって固まっていた。

「ぜんぜんこわくないから、俺と一緒においで!」

 トーマスが陽気にさそうので、僕は勇気をふりしぼって、えいやっと海に顔をつけた。ぎゅっとつぶった目をこわごわと開いてみると、──信じられないくらい、透き通った、彩り豊かな光景が、現れた。思わず感嘆の声を上げそうになって、あわててシュノーケルをくわえ直す。

 トーマスのまねをして足を交互に動かすと、すいすいと前に進める。これも新鮮な体験だった。


 僕たちは本当にたくさんのものを見た。色とりどりの珊瑚。水の中でゆらめく日の光。小さくてかわいい魚たち。それから大きなウミガメも。

 こんなに美しい場所が世界にあったなんて。人間の手が入っていない、ありのままの自然。豊かな海。

 僕の心の状態を心配して癒そうとしたシャルミラの選択は、まちがいなく効果てきめんだった。僕たちは満足して、陸に戻った。シャワーと着替えをすませて、トーマスにお礼を言いにいく。


「楽しんでくれて何よりだぜ! 俺もうれしいよ」

 トーマスは快活に笑ってから、さらりとこう尋ねた。

「ところで、もしかしてあんたら、明日のアンザック・デーの式典を見に行くのか?」

 何それ、と何度目か分からない疑問をいだく僕の横で、シャルミラがうなずく。

「そのつもりだ。キンバリーでは毎年参加していた。ここからはケアンズが近いのだろう? 明日はそこへ行こうと思っている」

「あー、そっかー。だよなあ。でも俺は、やめといた方がいいと思うなー」

 どうして、とまた僕の疑問が増える。

「もしかして、私たちは歓迎されないのかな」

 シャルミラには予想の範囲内のことらしかった。


「そうだな。何しろ、戦争が終わってまだ十五年しかたってない。俺はガキだったしよく分かってなかったけど、まだまだみんなの記憶には新しいだろうね。みんな切実な気持ちで、亡くなった家族や他のオーストラリア人のために祈る。そんな場に、外国人の顔立ちをした、しかも日本人の血が混じった人が来るとなると……うん、おすすめはできない。ただでさえオーストラリアは白人至上主義だし、さらに日本軍はオーストラリア人もたくさん殺した。俺はもちろん、あんたらが戦争に関係ないって分かるし、あんたらは悪い人じゃないって思うけど、みんながみんなそうじゃない。もしもさわぎになったら危ない。うわさじゃ、頭に玉子をぶつけられた日本人もいるってさ」

「そうか。式典に参加できるといいと思って、旅行の日程を決めたんだが……リイもいることだし、危険なことはさけたいね。安全第一ということで、明日は一日ホテルにいようか」


 僕は戸惑いながらもうなずいた。

 トーマスは、僕を安心させるかのように、パッと表情を明るくした。


「そしたらさ、俺が明後日の朝十時に、おみやげでも持ってあんたらのいるホテルまで行ってやるよ。そんでそれから、俺の車でドライブしようぜ」

「……いや、そこまでしてくれなくても構わないのだが」

「なあに、ケアンズの市民代表としての俺からのおわびだ。せっかく来てくれたんだから、少しでもいい思い出を持って帰ってほしいだけだよ」

「トーマス、君は……」

「……ってのは半分冗談。俺、つい先週に彼女にふられちゃってね。明後日のデートの予定がなくなっちゃったんだ。ひまになったし、休日をだらだらと家で過ごすよりは、かわいい姉ちゃんと一緒にドライブしたいなって」

「フフ……ずいぶんと物好きだね。私はこの通り子連れだよ」

「いいのいいの。俺、別にやましい気持ちで言ったんじゃないから。リイにももちろん楽しんでもらいたい。それに、他人に親切にすると、自分も気分がよくなるだろ?」

「……君はやはり、ずばぬけて優しい心の持ち主だね」

「当然さ! 言ったろ? 俺はオーストラリアで一番、イケてる男だってな! 楽しみにしといてよ。グレート・バリア・リーフは遠くから見ても絶景だし、近くにあるデインツリー熱帯雨林なんかもすげえきれいだからさ」


 そういうわけで、僕とシャルミラは、あらかじめ予約をしていたホテルの部屋に入った。ふっかふかの真っ白なベッドに寝っ転がるのは、最高の気分だ。心地よさに身をゆだねながら、僕は何の気なしに、となりのベッドに座っているシャルミラに話しかけた。


「そういえばこれまでの旅で、車って出てこなかったね」

「おや……君は車を知っているのか」

「あ、うん。そういえば知ってるね……」

「牛車や馬車ではなく、ガソリンとエンジンで動く自動車のことだが」

「うん、それで合ってる」


 これまでの時空で車を見なかったのを変には思わなかった。でもトーマスの口から車という単語が出た時に、元から知っていたものとして記憶がよみがえった。


「ふむ。では、第一次世界大戦と第二次世界大戦は知っているか?」

「……うーん? 聞いたことがあるような、ないような……」

「そうか……」


 シャルミラは指先をあごに当てた。それから唐突に、すらすらと解説を始めた。


「アンザックとは、第一次世界大戦でオーストラリア人とニュージーランド人を中心に結成された軍の名前だ。しかし彼らは大敗してしまい、多大な戦死者が出た。そんな兵士たちをとむらうために、この国では毎年四月二十五日をアンザック・デーとして、式典が開かれる。それが第二次世界大戦後、あらゆる戦争で亡くなった全てのオーストラリア人を追悼する式典へと変わった」

「ふうん」

「私はトーマスに会った時、自分たちが日本人との混血だと言ってしまった。私はてっきり、そろそろオーストラリアと日本の関係はよくなっていて、むしろ日本人が式典に参加した方が喜ばれるのではないか、と勘違いしてしまったんだ。……すまないね、私の勉強不足だったよ。中国系のふりをする手もあったが、時期的に日本の方が仲良しなんじゃないかと思ってしまった……」

「どういうこと?」

「今、世界は二つの陣営に分かれている。オーストラリアと中国は別の陣営に所属しているから、仲が悪そうだと思ったんだよ。その点、日本はオーストラリアと同じ陣営なんだ」

「……うん? えっと、オーストラリアにとって、日本は仲間で、中国は敵なんだ?」

「そう。だが、第二次世界大戦の時期においては、日本はオーストラリアの敵だった。実際、日本軍はオーストラリア北部の町を空爆した。飛行機に爆弾を積んで町にばらまき、無実の住人をたくさん殺して町を破壊したんだ。だから今、たとえ仲間だとしても、日本人をうらむオーストラリア人はまだまだ少なくないらしい。トーマスが心配していたのはこういうことだよ。……言葉の意味は分かるかな」

「うーん、分からないこともあったけど……飛行機とか爆弾とかは知ってるよ」

「……だろうな」


 シャルミラはふうっと息を吐き出した。


「しかし、それだけ武器が発達した時代に生まれていながら、リイには刃物と血の記憶がある。もしやリイが体験したのは、戦争ではないのだろうか。殺人事件にでも巻き込まれたか? だとすると特定は難しそうだな……」

「……」

「まあ、それについてはゆっくりやろう。明日はのんびりまったりしていてくれ。それで昼ごろに、こっそり式典をのぞこう」

「……え?」

「ここで時空移動の穴を開けるだけだよ。そうすれば、実際に行かなくても、式典を見ることができる」

「あ、なるほど」


 僕らはたっぷり休んで、ホテルの夕食も食べた。カンガルーという動物の肉を使った巨大なピザなる食べ物が出た時はおどろいた。シャルミラに切り分けてもらって、手でつかんで食べてみると、チーズやトマトの上にのった濃厚でやわらかい肉を味わうことができた。さらにおどろいたことに、デザートにはパブロヴァという名の大きなケーキが三段重ねになって出てきた。それも、メレンゲという生地にクリームと果物をこれでもかとのせたものが、三段である。何だかとってもぜいたくをしている気分だったし、一緒に出てきた紅茶との相性も抜群だった。僕は満腹になった。


 翌日、朝食を食べてしばらく休んだ僕たちは、いよいよ式典をのぞいてみることにした。

 始まりは、夜明け前。うんと背の高い石の塔の前に人々が集まって、静かに祈りをささげている。次は、すっかり明るくなった頃に時間を移す。粛々と、兵隊や車がパレードをしていくのが見えた。道の両脇では、赤い花を持った人がたくさん、パレードを見守っている。中にはおいしそうにお菓子を食べる子どももいて、想像していたよりは明るい雰囲気だ。


「人間たちのあやまちによって起きた悲劇は、このように教訓として多くの人の記憶にきざむのが大切だ」

 シャルミラは静かに告げる。

「悲劇を知ることは、平和への祈りを生む。多くの人が平和を望み、悲劇を二度と起こさないよう誓うことで、人間の未来は変えることができる。……そんな考えは絵空事だと笑う人間もいるが、私は信じている。他の担当区域の天使に会ったことはないから、真実は知らないが……。だからこそ、より多くの人間が平和を望めば、人間のあやまちは防ぐことができると、信じているんだよ。アンザック・デーはそのための日だ」

「……悲劇は教訓になる」

 僕はくりかえした。

「祈れば未来は変えられる」

「そうだよ」

 ぴりっ、と脳みそがしびれた。僕はとっさに頭に手をやった。


「……シャルミラ」

「うん?」

「やっぱり僕は故郷で、とてもひどいものを見た。まだ記憶はぼんやりしていて詳しくは分かんないけど……確信したよ。あれは、人間のあやまちのせいで起きた、すごく大きな悲劇だって」

 シャルミラの表情にほのかに影が落ちた。

「大きな悲劇なんだね」

「うん」

「まちがいなく?」

「まちがいなく」

「……ならば、次の行き先には、悲劇の現場を選ぶよ。いいかい」

「うん」

 僕は決意をもってうなずいた。


 次の日、トーマスは僕たちを車に乗せて、素晴らしい景色を存分に見せてくれた。おしゃべりも楽しかったし、ランチもおいしかった。アンザック・ビスケットという、お菓子のおみやげも渡された。

 トーマスは宣言通りに、僕たちにすてきな思い出をくれたのだ。

 だから僕は、めいっぱいの感謝を込めて、トーマスにお礼を言った。

「ありがとう。トーマスは本当に、この国で一番すてきな人だよ」


 こうしてトーマスと別れた僕は、思い出をかみしめて、シャルミラの開けた穴をまっすぐに見すえた。

 向こうには、灰色の町が広がっている。


「行くよ、リイ」


 シャルミラはいつも通りに僕の手を取る。

 そうして僕らは、悲劇の只中にある時空に、足をふみいれた。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る