第2話 野望を語る貴族の娘


「ご覧、リイ。あそこに、濃い藍色の着物の女の子が、一人で歩いているだろう」

 シャルミラが指差したが、僕はそれよりも、シャルミラの服装が一瞬にして変わっていることに驚いて、まじまじとシャルミラを見ていた。僕と同じような灰色の着物と長細い布を着けている。髪型は何だか複雑な形に結われていて、どうやったらそんな形になるのか僕には分からなかった。

「こら、私を見てどうする。あちらだよ」

「あ、うん」


 僕は背伸びして、目の前の道の先に目をやった。柔らかな太陽光の下、本当に多くの人間が行き来しているので僕は悪寒がしたけれど、何とかシャルミラの言う女の子を見つけられた。藍色の服を着ている、つややかな黒髪の子。僕の殻と同じ、十二、三歳に見える。


「いた」

「今回はあの子についていくよ」

「ふーん……?」

 藍色の女の子に、シャルミラは真っ直ぐ腕を伸ばして手のひらを向けた。僕は困惑して、シャルミラが腕を下ろすまでじっと見ていた。

「何、今の」

「『仲良し念波ねんぱ』を送ったのだよ。こうしておけば、彼女は我々に少し親切にしてくれるようになる」

「……便利だね」

「そうだな。さあ、ついていくぞ」


 道はそれなりに広く、両脇に木でできた建物が所狭しと並んでいる。どの建物も屋根が長い三角のような形をしており、立派なたたずまいだ。

 そんな中、藍色の女の子は、朱色の丸い物体がぶら下がっている建物に、するりと入って行った。


「料理店だ。我々も入ろう。リイはお腹が空いているだろう」

「あ、うん、多分」

 シャルミラは店の入り口にかかっている布を手でよけて店内に入った。店内には長い机がいくつかあった。好きな場所の椅子に腰掛けて良いようだ。

 シャルミラは迷わず、例の女の子の斜め向かいに陣取り、僕も隣に座るようにと促した。壁に貼ってあるお品書きをさっと見たシャルミラは、とっとと注文を告げた。

饅頭マントウ羊湯ヤンタンを二人前、それから青梗菜チンゲンサイの炒め物を一皿頼むよ。あとお茶も二人前」

 お茶の他は、僕には想像もつかない料理だった。魂の言葉を使えるおかげか、お品書きは読めるのだが、実際にどんな味がするかは分からない。


 続いて女の子がぺらぺらと注文を入れた。僕の殻と同じくらいの年頃なのに、一人ですごくたくさん頼むんだなあ、と僕はぼんやりと思った。

 やがて、料理が届いた。当然、見覚えはない。僕は注意深く匂いをかぎ、シャルミラを見上げた。

「フフ……」

 シャルミラは笑った。

「この白いのは饅頭、蒸しパンみたいなものだよ。こっちは羊湯、羊肉の入ったスープ。これは青梗菜という野菜。食べ方はこう」


 シャルミラは二本の細い棒を右手で器用に持って、野菜を口に運び、次いで饅頭を手に取ってほおばった。

 僕はおそるおそる手を伸ばして、饅頭を持ち上げて、かじってみた。そして目を丸くした。

 ふわふわ、もちもち、ほんのり甘くて、温かい。

 僕はシャルミラの手つきをちらちらと見て真似ながら、饅頭も羊湯も青梗菜も、夢中になって食べた。空腹に染み渡る、ありがたい食事。気づけば僕はぽろぽろと涙をこぼしていた。


「あら」

 藍色の女の子が驚いたように声を上げて、僕を見た。

「大変! 大丈夫? どうしたの?」

 僕はちゃんと説明できなくて、ただ泣くしかなかった。代わりにシャルミラがさりげなく答えてくれた。

「彼は記憶をほとんどなくしているんだ。何も分からずに立ち尽くしていたところを、私が保護した。きっと、色々思うところがあるのだろう」

「まあ、そうだったの。それは気の毒に」

 女の子は、持っていた布袋から、薄くて長細い布を取り出して、僕に差し出した。

「はいこれ、手ぬぐい。涙をふいて」

 僕は親切にされたことに戸惑いながらも、布を受け取った。

「……あ、ありが、とう……」

「いいのよ。あっ、そうだわ。点心は食べる? 胡麻団子があるから、あげるわよ。あたし、調子に乗って注文しすぎちゃって、食べきれないの」

 女の子が、まん丸い食べ物がのった皿を僕の前に置いたので、僕はますます戸惑った。

「いいの?」

「もちろんよ。それはね、米粉の生地に、あんこを──豆を煮たものに砂糖と胡麻油を加えたやつね、それを包んで、胡麻をまぶして揚げたおやつ。おいしいわよ。食べてみて」


 僕は言われるままに胡麻団子をかじった。そして目を丸くした。

 揚げた胡麻のサクッとした食感と、生地のもっちりした食感、あんこの甘い風味。こんなにおいしいものがあるなんて知らなかった。僕は一心に胡麻団子をかじった。

「喉に詰まると大変だから、お茶もちゃんと飲んでね」

「うん……」


 とうとう僕は、全ての料理をすっかり食べ尽くしてしまった。幸福のあまりまた涙がにじみそうになるのを、ぐっとこらえる。

「すごくおいしかった。二人ともありがとう。僕、こんなにお腹がいっぱいになったの、初めて」

「まあ、そうなの?」

「おや、そうなのか」

 女の子とシャルミラは同時に言った。シャルミラは続けてこう質問してきた。


「それは、記憶を失う前のことかい?」

「え?」

「初めてというのは、これが記憶を失ってから初めての食事だからかな? それとも、生まれてから一度も、満腹になったことがないのかな?」


 僕は首をひねった。しばらく熟考していると、だんだんと思い出してきた。かなりぼんやりとした感覚だが、多分これは故郷にいた頃の記憶だ。


「……元から、たくさん食べたことがなかったと思う」

 僕が答えると、女の子が心底驚いたように叫んだ。

「ええーっ!? そんなことってある!?」

「ありえなくはないよ」

 シャルミラが説明する。

「家がとても貧しかったり、親からの虐待で食事を抜かれたりすることも、あるからね。そして君は、少なくとも虐待の方はあったんじゃないかと私は思う」

「……そうなの?」

 僕はまばたきをした。シャルミラはうなずいた。

「リイ、君、頭をなでられるのが苦手だろう」

「え? あ……」

 そういえば僕は、時空の狭間でシャルミラが頭の上に手をかざした時、こわくなってさけようとしていた。

「……うん。苦手」

「大人から日常的になぐられたりしていると、頭の上に手があるのがこわくなるものだ」

「へえ」

「そんなことがあるのね。私、知らなかったわ……」

 女の子は神妙な顔をしていた。

「記憶を取り戻したら、安全なところで生活できるといいわね。うまくいけば、親元をはなれて他の家の養子になったりできるかもしれないわ」

「そっか」

「そうよ」


 そんな話をしているうちに、店が混んできたので、僕たちは外に出ることにした。話をしながら道を進む。

 その時だった。

 男の人がすばやく近づいてきて、女の子が持っている布袋をひったくって、逃げ出した。


「えっ?」

 女の子は事態を飲み込めないでいたが、僕はすでに走り出していた。すぐに泥棒の男に追いつき、その手を掴む。

「オイ、はなせ!」

「そっちがはなして。その袋はお前のじゃない」

 僕は男の人に振り払われないよう、力いっぱいしがみついていた。しかし、大人との力の差は歴然だった。もうだめだと僕が思った時、どこからともなく縄が出現した。縄は勝手に動いて、泥棒をぐるぐる巻きにしてしまった。泥棒はもがきながら、倒れた。

 何だ何だ、と道ゆく人々の注目が集まる。シャルミラと女の子が駆け寄ってくる。女の子は泥棒から袋を奪い返すと、きらきらした目で僕のことを見た。


「すごいわ! あなたって根性あるのね! ありがとう!」

「あ、うん……。だってその袋、お金が入ってるでしょ。とられたら大変だと思っただけ。お金は、うんと大事にしなきゃだめだから……」

「本当にありがとう。というか、あの縄は何? あなた、縄なんか持っていた?」

 多分シャルミラが術を使ってくれたんだろうなと思いながら、僕はただ「持ってない」とだけ答えた。

「不思議ね。……まあいいわ、こうして持ち物が戻ってきたんだもの。何かお礼をさせて」

「お礼って……? 今、ありがとうって言ってくれたのに?」

「それだけじゃあたしの気がすまないのよ」

「えええ……」


「それなら」

 シャルミラが口を挟んだ。

「よければ私たちに、観光案内をしてくれるかな。この町の名所に連れて行って欲しい」

 女の子はシャルミラを見上げた。

「そんなことでいいの?」

「それが一番必要なことだからね。リイには色んなものを見せてやりたいんだ。記憶を取り戻すきっかけになるかもしれない」

「へえ……。あなた、名前はリイっていうの?」

「私がつけてやった仮の名前さ。私はシャルミラという。よろしく」

「二人とも、よろしく! あたしは武如意ウールイ。貴族の出身だけど、気にしないで気軽に話してね」

 さらりと言われて、僕はぶったまげた。

「貴族!?」

「ええ。いつもは外に出る時は護衛がいるのだけれど、今日はこっそりお屋敷を抜け出してきたの。一人で町を歩いてみたくて。さあ、こっちへ行きましょう。少し歩くけれど、良い場所があるから」


 武如意は歩き出した。彼女はおしゃべりが好きなようで、次から次へと話題が出てくる。


「あたし、仏教が好きなの」

「ブッキョウ?」

「まあ、リイ、それも忘れちゃったの? 記憶喪失って大変ね。仏教っていうのは、西の国から伝わってきた、とっても有名な宗教よ。仏様っていう方に敬意を払って、自分を律するの。中国では今のところそこまで歓迎されていないから残念。小難しい宗教だから仕方ないけど、いつかもっと広まって欲しいなって思ってる」

「へえ」

「さあ、着いたわ。ここは、この町でも数少ない仏教寺院で、烏奴寺ウーヌースウというの。中には色んな建物や石像があるから、見て回りましょう」


 お寺の入り口には赤い大きな門があった。僕たちはそこをくぐって境内に入った。石だたみの地面を歩いていくと、これまた真っ赤で大きな建物が待ち受けていた。さっき道で見た建物なんかより何倍も立派で、威厳がある。屋根もやたらと大きい。

 建物の両脇にある変な生き物の石像の横を通り、僕たちは建物に近づいた。

「今は扉が閉まっているけど、中には仏様の像があるから、あいさつして」

 武如意は手を合わせて目をつむった。僕たちは彼女の真似をした。

 それから、斜面に建てられた赤い建物などを見ながら一通り寺を回った僕たちは、烏奴寺を出てまた歩き出した。

 今度の目的地はすぐ近くにあった。


 全面的に石でできた、切り立った崖。そこに、さまざまな人工的な四角い穴がいくつもいくつも空いていて、中には石の仏像が何体か立っている。驚くべきはその崖があまりにも大きいことと、そこにびっしりと仏様のための穴が空けられていることだ。崖の高いところにも低いところにも、大きな穴や小さな穴がこれでもかと空いていて、その全ての中に色んな形の仏様がいる。

 自然の力と人間の力が合わさった、圧倒的な光景。見入らずにはいられない。


「これは百年以上前に作られ始めた、千仏崖チャンフォーヤー。今もまだ作っている途中なの。ずっと作り続けるなんて、みんなすごい信仰心よね。これを見た人が、仏教の良さに気づくといいけど」


 僕はただただうなずくしかなかった。

 僕たちは千仏崖も一通り見物した。見終わった辺りで、武如意は空を見上げた。


「あら、まだ二カ所しか行っていないのに、もう日が傾き始めているわ。そろそろ帰らないと、めちゃくちゃ怒られそう……」

「それなら戻ろうか。案内ありがとう。とても助かったよ」

 シャルミラがていねいに言った。

「助かったのはあたしの方。それじゃ、申し訳ないけど、町へ戻りましょう」


 武如意は来た道を戻り始めた。ここでも、彼女のおしゃべりはやまなかった。

「あたし、けっこう美人でしょ?」

 いきなり、こんなことを言う。

 僕は、美人がどんな条件なのかも忘れてしまったようだけど、白い肌にふっくらした体型をしていたら、美人ということなのだろうか。

「そうかも」

「だからね、来年には、皇帝陛下の側室として嫁入りをするの」

「コウテイ?」

「この国で一番えらい人のことよ。でも結婚したらずっと後宮にいなくちゃいけなくなって、自由に出歩いたりもできなくなるでしょ? だから今のうちに、自力で町を歩いておきたかったのよ。帰ったら絶対に家の人に怒られるわ。あの人たち、あたしに意地悪ばかりするもの。『嫁入り前の娘が、一人で外に出るんじゃない!』って言うわよ、きっと。どうせ王宮に入ったって、一人で外出なんてできないのにね」

「でも、えらい人の住むところなら、いいところなんじゃないの?」

「とんでもない! 王宮なんてろくなことないわ。役人はみんな腐ってて、お金を稼ぐことばかり考えて、民のための政治なんてちっともやらないんだもの」

「ああ……」

「あたしはそんな王宮を変えたい。だからね、実は皇帝の座をねらってるの。あたしは、史上初の女帝になるのが夢。そうすれば、悪い役人を追い出せるし、政治にだってたくさん口を出せるでしょ」

「すごい」

 僕は感心した。

「武如意は、この国で一番えらい人になるんだね」

「なってみせるわ。……みんなには内緒よ?」

「うん」


 僕が言うと、武如意は立ち止まった。

「あたしの家はこっち。ここでお別れよ。今日は本当にありがとう。楽しかったわ」

 こちらこそ、とシャルミラは言い、ありがとう、と僕は言った。

「リイ、記憶が戻るといいわね。ごきげんよう」

 彼女は背を向けた。僕たちは黙って、紺色の着物が遠ざかるのを見守った。

「武如意、皇帝になれるかな」

 僕がつぶやくと、シャルミラはあっさり、「なれるよ」と言った。

「あの子は本当にやるよ。女帝になって中国を支配する。あの子のことは、武則天ぶそくてんとか、則天武后そくてんぶこうとかいう名で、後世にも知れわたっている」

「そうなんだ。すごいなあ」


 僕たちは何となくぶらぶらと道を歩いていた。僕は少し迷ってから、シャルミラに思ったことを報告した。


「あのね、シャルミラ。僕、大切な人がいるって言ったでしょ。どんな人か、思い出せないけど」

「ああ、そうだね」

「でも、武如意のおかげでほんの少しだけ思い出せた。あの人は、ちょっぴり武如意に似てる気がする。年が近いのに物知りだし、お菓子もくれるし、すごく優しい人なんだ。……さすがに、皇帝は目指してないと思うけど」

 フフ、とシャルミラは笑った。

「それは良かった。この調子で、だんだん思い出していけるといいね」

「うん。がんばる」

「がんばりたまえ。……さて」

 シャルミラも立ち止まった。


「ここではいくつか、収穫があったということで、そろそろ別の時空に移ろうか」

「別の?」

「場所は決めてある。中国よりはずっと小さいが、非常にたくさんの人間にかかわりのある国」

 シャルミラはナイフを手に取った。

「その名も、イギリスだ」

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