時空の迷い子 〜小さな赤いかご〜
白里りこ
第1話 全てをなくした子
怒号、悲鳴、泣き声、喚き声。
興奮した人々、吹き荒ぶ湿気を帯びた風、金属のようなきつい匂い。
誰かが僕の胸ぐらを乱暴に掴んで激しく揺さぶる。
「おい! お前があの子をここまで連れて来い! 出来なかったらどうなるか、分かってんだろうな!?」
分かってる。でも駄目だ。あの子はとっても優しい、僕の大事な……大事な……。
***
ふうわり、ふわり。ふわふわり。
ああ、ここはきれいだなあ。いいところだなあ。
辺りは真っ黒で、四方八方に小さな光が散らばっている。まるで夜空に包まれているみたいだけれど、ちっとも怖くない。時はゆっくりと流れていて、空間は果てしなく広い。どこにも危険はなく、一人きりで安心して、ふわふわと漂っていられる。
こんな穏やかな気持ちになったのは、人生で初めてな気がする。だって僕は、……僕はこれまで、……。
あれ? 何も、思い出せない。
まるで、生まれた時からずっと、この場所に浮かんで過ごしていたかのように思える。そうじゃないって、分かっているのに。
でも本当に何も分からない。ここに来た経緯はもちろん、家族のこと、友達のこと、自分の容姿、年齢、性別、出身地、名前まで、記憶から消えてしまっている。
困ったな。自分が誰だか分からないのは、もやもやする。がんばって何か一つでも記憶を思い出せないかと、思考をぐるぐる回転させながら、僕は当てもなく浮かんで移動していた。
……ああ、一つだけ、覚えている。僕には、何よりも大事な人が、一人だけいた。どんな人かはすっかり忘れてしまったが。
絶対に思い出さなくちゃいけないのに、頭の中は空っぽでどうにもならない。僕はだんだん悲しくなってきた。ついさっきまで気持ちよく漂っていたのがうそみたいだ。
ふと、前方に、何か物体が見え始めた。近づくにつれ、それが人間の形をしていることが分かった。その人は、うずくまって膝を抱えたまま、少しずつ回転している。幾何学的な模様のついた青緑色のゆったりとしたワンピースを着て、頭には薄くて白いヴェールをかぶっている。そこから薄茶色の豊かで長い癖っ毛がのぞいていた。肌の色にはほんのわずかに黄色味が混じっているように見える。
僕はその人にぶつからないように避けようと思ったけれど、動きが制御できなかった。僕は僕が人間であったことは覚えているが、どうも今は違う形をしているらしい。どうやって身動きを取ればいいのか、全く分からない。もたもたしているうちに、僕は着実にその人に近寄って行ってしまう。
どうしよう。こわい。ぶつかったら怒られるだろうか。ぶたれたりしたら嫌だなあ。だいたい僕は、ただ一人を除いて、人間という生き物が嫌いなのだ。できることなら、あの人からもはなれていたい。
そう思っていると、その人は──その女の人は、体を真っ直ぐに伸ばすと、僕に向かって手を広げた。そして、両の手のひらで、僕のことを捕まえて、優しく抱っこをした。僕は全身がぞわぞわとした。
「来たようだね。初めまして」
彼女の声は高く澄みきっていて、柔らかで、聞いているとほっとする。僕がいだいていた彼女への警戒と嫌悪感が、早くも溶け始める。
「は、初めまして。あの、僕は」
「大丈夫、分かっているよ。ここに来る子はみんな、多かれ少なかれ記憶をなくしているからね」
「えっと……?」
彼女は琥珀色の瞳で僕のことを愛おしそうに見た。
「私の名はシャルミラ。ここに住んでいる天使だよ。君のように記憶をなくして魂だけの存在になった人間の子どもを、故郷に帰すという仕事をしている。大丈夫、君はまだ生きているし、君のことは必ず助けるよ。安心しておくれ」
言っていることが半分くらい理解できないが、シャルミラは敵ではなさそうだと僕は判断した。天使っていうくらいだから、人間じゃなさそうだし、嫌わなくてもいいかもしれない。
シャルミラは僕のことを四方八方からじろじろと見た。
「ふむ。これまで色んな形の魂を見てきたけれど、君は小さくて丸くてふんわりしているね。上質な大福餅のようだ」
「ダイフクモチ?」
「とある国の菓子の名だよ。君も見てみるかい、自分の姿を」
シャルミラはどこからともなく板を取り出した。この材質は鏡と呼ぶことを、僕は知っていた。鏡に映る僕の姿は確かに、シャルミラの手のひらにこじんまりと収まっていて、丸くて白く、微かに金色の光を発している。
目は無い。口も無い。耳も無い。でも、ものははっきり見えるし、声だって出せるし、音も聞き取れる。不思議なことだ。不思議なことだらけだ。分からないことが多いと危険な目に遭う。僕は身を守るために、なるべく情報を聞き出すことにした。
「あの、シャルミラ、ここはどこ?」
「時空の
「……よく分かんないけど……さっき、帰してくれるって言ったのは、本当?」
「本当だとも。だが私は君の故郷の時空を知らない。帰るには君が自分の記憶を取り戻さないといけない。これからあちこち旅をするから、少しずつ思い出していくんだよ」
「……旅?」
「あらゆる時代のあらゆる場所に行くんだ。そうしたら何か思い出したり、手がかりが見つかったりするかもしれないからね。手間はかかるが、他にやりようがないんだ。さて、準備をしようか」
僕はシャルミラの言ったことを理解しようと頑張った。そして一つ気づいたことがある。
「シャルミラ。世界には、色んな言語があるよね? 僕が喋っている言葉が何語か分かれば、帰れるんじゃない?」
「ああ、そのこと。……私のような天使や、君のような魂は、『魂の言葉』を使って、話したり考えたりする。これはどこに行っても通じる魔法のような言語だから便利だけど、つまるところどこの言語でもないんだ。だから君の母国語は特定できない」
「そう、なの?」
「うん、そうだね」
「それじゃあ、探し出すのは、すごく大変じゃない?」
「そうかもね」
シャルミラは僕を手放すと、何も無いところを両手でくるくると撫で始めた。
「君、どこまで自分のことを覚えている?」
「あ、ほぼ何も……。誰か一人、大切な人がいたことしか、覚えてない」
「自分の名前も年齢も性別も出身も不明なのかな?」
「うん」
「なるほどね」
シャルミラの手のひらの間に、何か液体のような物が出現した。シャルミラは液体を指差して、僕の方にひょいっと投げつけた。
ボンッ、と変な音がして、僕の姿が変化した。シャルミラはまた鏡を持ってきて、僕に見せた。
僕は、人間の子どもの姿になっていた。
灰色の着物姿で、お腹の辺りには黒くて長細い布が巻かれている。くつも黒色。やや長い黒髪を後ろで一つに結っている。肌の色はシャルミラよりちょっと白いくらいか。顔つきは何となく平らに見える。黒目がやたらとくりくりしていた。
「十二歳くらいの男の子の姿だよ。中国人にありがちな顔立ちを参考に、可愛く仕上げてみた。……ちなみに、中国とは何か分かるかな?」
「えっと、どこかの大きな国……」
「そう。東アジアの大国だ。彼らは人数がずば抜けて多いし、様々なところに出稼ぎに行くこともあるから、
「殻?」
「旅では、人間の格好でないと行動しづらいからね、仮の体を作ったのさ」
「あ……ありがとう」
「後は
「僕が……リイ」
「そうだ」
シャルミラは僕の頭に手を伸ばした。僕は咄嗟に身を屈めて、腕で自分の頭を守ったが、シャルミラは気にした様子もなく僕の頭に触れて、ヨシヨシと撫でた。
「安心していい。私はリイが故郷に帰るのを全力で助ける。リイの身の安全も保証する。リイのことは絶対に裏切らない。そのことを、よく覚えておいで」
「……うん……」
「さあ、冒険の旅を始めよう。『時空移動』をするから、私の後についてくるといい」
「ど、どこに行くの」
「そうだね、アプローチ方法はいくつかあるけれど、今回は効率重視で行こう。一番可能性の高い所、中国から回るよ。時代は適当に選ぶ」
「適当……」
「途中で何か思い出したら、遠慮せずに言いなさい」
「分かった」
「よろしい」
シャルミラはまた、どこからともなくナイフのようなものを出して、何も無い空間を、グググッと力を込めて縦に切り裂いた。するとその切れ目を中心に、ぽっかりと大きな穴が空いた。向こう側には見たことのない華やかな街並みが見える。
「おいで。行き先は、中国の唐王朝時代の初期、首都に程近い
シャルミラは穴の向こうに足を踏み出した。僕はシャルミラに隠れるようにして、おっかなびっくり彼女に続いた。
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