FINZIONE
西野ゆう
第1話
そっと。そうっと。呼吸はいつも通り。足取りもいつも通り。そっと。そうっと。
本屋の中。書架に圧迫されるような狭い通路で、あの人とすれ違う数秒間、実際は呼吸も足取りもいつも通りなんてできやしない。ツンと鼻の奥にプールの水が入ってしまったように詰まる呼吸。ジェットコースターが最初の加速をする瞬間のようにフワリとする足もと。
「――なんだよねぇ。酷いと思わない?」
「え? う、うん。そうだね」
まずい。気付かれたかも知れない。隣を歩く級友の話なんて全然耳に届いていなかった。私の心臓の音だけがどんどん大きくなってゆく。
「でしょう! もうホントヤダなぁ」
そうか。彼女は私に話しているのではない。誰にも話していない。自分の口から言葉を連ねて吐き出しているだけだ。私の彼に向けた一方通行の想いと等しく、形にしただけで満足なのだ。
「じゃあ、あたし、この後講義だから」
「うん、また明日ね」
透き通ったガラスケースの中にドールハウスまである、雑多な本屋。その雑然とした空気の中、彼女は、胸に溜まった嫌な気分を吐き出して浄化したのだろう。この、知識の森のような店内を颯爽と歩いて出ていった。
私はお気に入りのクッションに腰を下ろし、イヤホンを両耳に押し込む。すれ違った彼は、身体の大部分を書架に遮られながらも、私の視界の中にいた。
私の中にだけ流れる曲も、彼に向けた歌に聞こえる。ラヴソングでもないのに、その言葉の意味が全て恋に結びついて聞こえるのは、幻聴を越えた幻惑だろう。
鼻めがねを掛けるためにその形をしているかのような鷲鼻の店主が、背後の窓を開けた。秋の風は突然に小さな森を吹き抜ける。
「フィンズィオーネ、フィンズィオーネ!」
本というの木立を抜けた風が、どこからともなく声を運んできた。イヤホンを外すと、どこかで小鳥も鳴いている。
今の声は何だったのだろうか。歌劇のような重厚な響きを持った声。季節を進める躊躇など感じさせない風。
「フィクションだ、フィクションだ」
今度は囁くように聞こえた。小鳥が歌っているような軽く跳ねる声だった。秋を賛美するような軽い風。
しかし私の前で、何やらひそひそ話をしているかのような上下巻のペアは、行儀よく並んだまま。外からは見えない小鳥がチィチィという声を聞かせるばかり。
また風が吹く。まだ夏の名残を見せようと揺れる風。
「架空の人物。架空の感情。架空の物語……」
心の中に声が直接響く。
「フィンズィオーネ」
再びハッキリと歌声が聴こえた。フィクション。架空の物語。イタリア語で歌われる、架空の恋に苦しみ病んでゆくオペラの一節。
「架空の恋。架空の恋。片想いなんて架空の恋だよ」
本の森と見えない小鳥と風が、いつまでも子供の私を嘲り笑っているようだ。季節が進むように早く大人になれと。
「何よ、みんなで私をからかって」
私は憮然とイヤホンを耳に戻す。曲は甘ったるい恋を歌うラヴソングに変わっていた。聴きながら彼を見る。
「いいのそれでも。私はそれで。これで構わないの」
本たちに
本物の恋を求めて砕け散ってしまうなら、架空の恋でも溺れてしまった方が良い。それに、本物が優れているとは限らない。
私は架空の物語があふれる場所で、架空の恋に身を預け続けた。
FINZIONE 西野ゆう @ukizm
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