幸子さんに

茂由 茂子

連絡先を渡しただけなのに

 僕と幸子さちこさんの出会いは、幸子さんの働く本屋だった。僕の好きなバンドであるレッドホットチリペッパーズが掲載されている雑誌のバッグナンバーを探すためにたまたま入った本屋で、幸子さんが丁寧に対応をしてくれたのが初対面だった。

 

 雑誌のバックナンバーは出版社からの取り寄せとなるそうで、店員さんからすると少し面倒そうな手続きも、幸子さんは嫌な顔一つすることなくやってくれた。「面倒なことを頼んじゃってすみません」と平謝りする僕に「お客様のお手元にお気に入りの本を届けるのが私の仕事ですから」と野原に咲いたレンゲソウのような笑顔で答えてくれたのが、好印象だった。

 

「こんにちは」

「いらっしゃいませ。こちらですね」

 

 今日も幸子さんの働く本屋へと向かうと、レジには幸子さんが居た。僕の顔を見るなり、定期購読のために取り置きしてもらっている音楽雑誌をレジ後ろの本棚から取り出してくれる。毎週店を訪れているからか、いつの間にか顔見知りになった。「そうです」と答えると「千四百三十円でございます」と値段を告げられた。

 

 腹くらいの高さの台にお金を出すトレイが置いてあり、その隣に、この店で使える電子マネーのポップが置いてある。「ペイペイで」と告げる前に、幸子さんはバーコードを読み込むための手持ちのスキャンを握り待ち構えていた。僕が毎回ペイペイ支払いをすることを覚えていてくれて嬉しい。

 

「では商品こちらですね。ありがとうございました」

 

 台の上に音楽雑誌の今月号が置かれる。毎週幸子さんに会うために、発売日の違う雑誌を定期購読している。我ながら健気だと思う。お客さんの少ない日は、幸子さんと世間話をすることだってある。周りを見ると、今日はその絶好の機会のようだ。

 

「あの、突然で迷惑かもしれないのですが。これ」

 

 僕は水色の折り畳んだ紙切れを幸子さんへと差し出した。幸子さんに僕のことを認識してもらってから、もう半年は経つ。だからそろそろ、勇気を出す頃合いだと考えていたのだ。変な汗が背中を流れるが、それを悟られないように必死に取り繕う。

 

「よかったら連絡ください。それでは」

 

 差し出した紙切れを幸子さんが受け取ってくれたので、僕はそのまま笑顔で立ち去った。膝ががくがくと笑っているが、店から出るとそれも心地よい。幸子さんに差し出した紙切れには僕のLINEのIDを書いている。優しい幸子さんのことだから、きっと無碍にはしないはずだ。

 

 この一年間、幸子さんのことをよく観察してきた。どんな人にも丁寧に対応し、笑顔だって素敵だ。定期購読の申し込みをした際に「こんなに丁寧に対応していただけて嬉しいです。僕の担当をしていただけますか?」とお願いしたときも、笑顔で「分かりました」と快諾してくれた。

 

 そのときに口の隙間から覗いた八重歯も愛らしかった。幸子さんはクリスマスにもバレンタインデーにも店に出ていたから、おそらく恋人の類も居ないだろう。そこまで考えて、今日、僕の連絡先を渡した。

 

 ああ、どきどきする。胸が弾けてしまいそうだ。今夜、幸子さんから連絡が来るかもしれないと思うと「わー!」と叫びながら走り出したい衝動に駆られる。

 

 家に帰り、テーブルの上にスマホを鎮座させると、僕はひたすらに待った。幸子さんから連絡が来るのを。彼女の仕事が終わるのは、大体夕方の十八時頃だ。それからすぐに連絡が来るかもしれないけれど、家に帰って落ち着いてからだと十九時あたりになるだろう。

 

 そわそわと落ち着かない。何度も壁掛けの時計を見てしまう。分針が時を刻む度に「あと何分」と数えてしまう。そうして十九時を迎えると、僕の心臓は破裂しそうなくらいに鼓動を大きく立てた。震える指でLINEのアプリを開く。メッセージは誰からも来ていない。

 

 ひょっとしたら、先にお風呂なんかに入っているのかな?

 

 しばらく待ってみる。中々来ない。律儀な幸子さんのことだから、全く連絡を寄越さないなんてことはないだろう。時計を見ながら、幸子さんからの連絡を待ち続ける。

 

 来ない。さすがにおかしい。

 

 心配になった僕は、幸子さんの働いている本屋へと赴いた。本屋は二十一時まで営業している。

 

 店内に入った僕は一目散にレジを確認する。すると、幸子さんとは別の人が接客を行っていた。ということは、幸子さんはすでに店を後にしているということだ。そこである一つの考えが浮かぶ。幸子さんが寄り道をしているということだ。

 

 僕が連絡先を書いた紙を今日渡すなんて、幸子さんは事前に知りようがない。だから、前々から友人と待ち合わせしていたとしても不自然ではない。なんだ。そういうことだったのか。僕は笑顔で大きく二回頷いた。おそらく、明日連絡が来るのだろう。

 

 そう理解した僕は、家に帰ってすぐに風呂を済ませると、気持ちよくベッドへと入った。今日はもう待っても仕方がないと思ったからだ。

 

 しかしこうして安心したのがいけなかった。幸子さんからの連絡は待てど暮らせどやってこない。こうなったら店に行って幸子さんに直接聞いてみようかとも思ったけれど、それは脅しをかけるみたいで気が引けた。あくまでも、幸子さんの意志で僕に連絡をしてきてほしいのだ。

 

 待ちに待った定期購読の雑誌の発売日になると、僕は何を捨ておいてでも幸子さんの働く本屋へと行くという勢いで出かけた。ただ真っ直ぐに本屋を目指す。入店すると「いらっしゃいませ」という声が聞こえた。

 

 そこで僕は違和感に気付く。「いらっしゃいませ」という声が、幸子さんのものではなかったからだ。ゆっくりとレジへと向かうと、やはり幸子さんではない女性がレジに立っていた。「どうかなさいましたか?」と声をかけられてしまったため、「〇×雑誌を定期購読している佐藤です」と答えた。

 

「佐藤様ですね。少々お待ちください」

 

 快活な声で答えた女性は、僕に背中を向けて本棚から僕が購入する予定の雑誌を取り出す。

 

「こちらで御間違いないでしょうか」

「はい」

「それではお会計失礼いたします。千二百四十五円でございます」

 

 あまりにもスムーズにお会計をされてしまったため、僕は放心状態になるのさえ忘れてしまっていた。支払いを終えると「ありがとうございました」と丁寧にお辞儀をされる。幸子さんのことを聞いてみようかとも思ったけれど、たまたま休みなのかもしれないと思い、聞けなかった。

 

 とぼとぼと帰路に着いたが消沈するのはまだ早いと思い直し、来週の来店予定を確認する。来週は月曜日に本屋を訪れる予定だ。そのときに幸子さんの顔を拝めばいい。そうして自分を鼓舞して月曜日を迎えたものの、僕はまた意気消沈することとなった。また、幸子さんじゃなかったのだ。

 

 その後、僕は毎週本屋を訪れたけれど、二度と幸子さんと会えることはなかった。僕は二度ほど、店員さんに「幸子さんはお休みですか?」と聞いたことがある。一度目は「まあ、そうですね」となんとなくはぐらかされながらも、幸子さんが元気であることを知れる内容だった。二度目は「彼女もう辞めましたよ」と聞かされた。

 

 頭が冷静になった今なら分かる。連絡先を書いた紙なんて、渡すんじゃなかった。

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幸子さんに 茂由 茂子 @1222shigeko

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