無名夜行 欲望と無欲の天秤

青波零也

欲望と無欲の天秤

 Xの視界を投影するディスプレイに映し出されているのは、鏡越しの、彼自身の姿。

 だが、それは常日頃から私が目にしている「いがぐり頭の冴えない中年男性」の姿とはまるで異なっていた。

 五分まで切り詰められていた髪は、いかなる魔法によるものかそれなりの長さに変じ、後ろに流す形できっちりまとめられている。普段は彼の老け顔を強調する効果しかない白髪も、こう見るといい味に思えてくるから不思議だ。

 服装も、見慣れているゆったりしたトレーナーにラフなズボン姿とは打って変わって、糊のきいた真っ白のシャツに黒いタイ、服に疎い私でも格式高いものと一目でわかる、しっとりした質感の黒のジャケットとスラックスでまとめたフォーマルなスタイル。足元ももちろん履き古したサンダルなどではなく、つやつやに磨きあげられた黒い靴。

 服装と髪型でこれだけ変わるのだな、と思わずにはいられない。顔立ちや表情からくる「冴えない」という印象こそ完全には拭えていないものの、体つきと姿勢は元々とびきりいいのだ。背筋を伸ばして立つ姿は案外さまになっている。

 とはいえ、X自身は無精髭の消えた顎を撫で撫で、まるで落ち着かない様子であり、横に立つ漆黒のイブニングドレスを纏った女性がその様子を見て愉快そうに笑う。

「よく似合ってると思うけど?」

「そう、ですか、ね」

 Xが女性に向けるのは、表情こそ薄いが、明らかな疑いを込めた目だ。本来『こちら側』からは「Xの視界」しか観測できないため、鏡越しとはいえX自身を観測できるのはなかなか珍しい機会である。

「信じてない?」

「……こういう格好、慣れてない、ので。少し、違和感が」

 控えめな表現を選んではいるが「違和感しかない」というのが本音であろう。Xは感情表現こそ乏しいものの、本音は言葉や仕草から滲んでしまいがちである。誤魔化す、包み隠すということが極端に苦手なのだ。

「まあ、すぐに慣れるわよ。それに、今だけだしね?」

 はあ、とどこか曖昧な返事をするXの腕を女性がぐいと引く。鏡のある部屋を離れ、高らかに靴音を鳴らしながら行けば、目の前に現れるのは大きな硝子の扉だ。二人でその前に立てば、音もなく扉が開き――、途端に視界に飛び込んでくるのは、上品な照明に彩られた広々とした空間、行き交う礼装の人々、並び立つスロットマシンにルーレット台、カードゲームを執り行うためのテーブル。

 ――つまり、いわゆる「カジノ」というやつだった。

 傍らの女性が腕を突き上げる。

「さあ、じゃんじゃん稼ぐぞー!」

 Ⅹはきっと、「どうしてこうなった」という顔をしていただろう。そのくらいは、私にも十二分に想像がついた。

 

 

 ――『異界』。

 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、この世から見たあの世、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。それが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。

 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。

 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。

 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言えない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。

 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。

 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚は私の前にあるディスプレイに、聴覚は横に設置されたスピーカーに繋がっている。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。

 今回、Xが降り立ったのは、どこからどう見ても高級なカジノにしか見えない『異界』だった。

 そして、当初、Xは門前払いを食ってしまったのだった。それはそう、サンダル履きに部屋着同然の格好をした、どこからどう見ても不審者丸出しの中年男性にはまるでふさわしくない場所だ。いっそ、今までの『潜航』で門前払いされることが少なかった、という事実の方が不思議ではある。

 閉ざされた扉の前で途方に暮れるXだったが、

「あら、お久しぶり、旅人さん!」

 そんな彼に声をかけてきたのが、過去の『潜航』でも何度か見かけた、一人の魔女であった。

 この場合の「魔女」とは、単に「魔法の使える女性」を示す言葉ではない。

 そもそも「魔法」という言葉自体が『異界』を観測する我々には定義しがたいものだ。『潜航』の中で『こちら側』では起こりえない数々の不可思議をXの視界越しに観測してきたが、『こちら側』ではあり得ない現象も、その『異界』の中では当然のものであり、「起こりえないこと」を示す「魔法」という言葉は相応しくない。

 ただし、幾度にも渡る『潜航』の中で、魔法と呼ぶべきものが無かったわけではない。

 それこそが、『異界』を渡るものの持つ力だ。

 我々はXの意識を『異界』と接続する、という形で限定的に『異界』を観測している。もし、人間を肉体ごと『異界』に送り込み、自由に渡り歩く技術が確立されればこのプロジェクトも次のステージに至るのだろうが、実現にはほど遠い。

 だが、Xを通して『異界』を観測するようになって、否応なく理解させられたことがある。

 それは、我々がその方法を確立できていないだけで、『異界』を自由に渡り歩く者は確かに存在する、ということだ。それぞれの『異界』のルールに縛られることなく、全てを超越した、まさしく魔法のごとき力を操る者、「魔女」と呼ぶべきものが。

 この魔女はそういう正真正銘の魔女の一人であり、曰く「とびきりの宝物を探す」ために『異界』を渡り歩いているのだという。同時に、過去のとある『潜航』で出会ってから、それ以降の『異界』でもちょくちょく顔を見かけるようになったのだった。結ばれた縁が互いを引き寄せるのだ、というのが魔女の談。

 ともあれ、我々とは異なる手法で『異界』を旅する魔女は、カジノの扉の前で呆然としていたXに言ったのだ。

「ちょうどよかった、旅人さんに協力してほしいことがあって。一緒に来てくれない?」

「私に、できることがあるなら、喜んで。しかし、見ての通り、門前払いを食らいまして」

 その言葉に、魔女はXの頭からつま先までを見遣り「それはそうね」とあっけらかんと笑った。

「旅人さん、ドレスコードって知ってる?」

「意味は知っていますが、私には無縁の言葉ですね」

 仕方のないことではある。死刑囚であるXの手持ちの服は、数着のトレーナーとズボンに限られる。話によると死刑囚は通常の受刑者に比べると服装は自由だそうだが、何せ外界に出ることが想定されていないのだから、「考える必要がない」のだ。それはXが異界潜航サンプルとして選ばれた後も、何も変わらない。

「なら、私が用意してあげるわよ」

「あなたが?」

「私は魔女よ? ほら、旅人さんの故郷にもあるんじゃないかしら。ボロのような服を纏う村娘に、一夜限りの舞踏会のドレスを仕立てる魔女のおとぎ話、とかね?」

 かくして、今に至るわけだ。

 シンデレラにドレスを与えた魔女よろしく、指先の魔法ひとつでXを見られる姿に仕上げた魔女は、いたってご満悦の様子でXに向き直る。

「さて、旅人さんには、いっぱい稼いでもらわないとね」

「稼ぐって」

 出かけた言葉が、喉の奥に飲み込まれる。

 ディスプレイに映し出されるのは、目の前に立ち並ぶカジノの従業員。全員がぴしっとした揃いの制服に身を包んでいるが、その姿形はまちまちだ。シルエットこそ人間でも、獣のような顔、鳥のような顔、中にはほぼ軟体動物のような者までいる。さすがは『異界』といったところか。

 人間でないものの表情を読みとるのはなかなか難しいが、彼らが一様にものものしい気配を醸し出していることだけは、ディスプレイ越しであってもひしひしと伝わってくる。

 彼らは一様にX――というより、その横の魔女を見据えている。睨んでいる、というのが正確か。やがて、そのうち一人が魔女の前に歩み寄り、言う。

「お引き取りください」

 有無も言わさぬ、という態度だった。しかし、魔女は堂々と胸を張って言う。

「あら、失礼ね。今日だって、ちゃんと『お客様』として来たのよ?」

「あなた様は負債を抱えたままです。全ての返済が済むまで、我々はあなた様を『お客様』として迎えるわけにはいきません」

 その言葉に、Xがぼそりと魔女に問いかける。

「……何、したんですか?」

「そんな怖い目しないでよ。ただ、ちょっと負けが込んじゃっただけ」

 ぺろり、と舌を出す魔女はそれだけ見れば愛らしいが、言っている内容が内容である。

「ほら、あれ見てよ、旅人さん。私、どうしてもあの宝石が欲しくって」

 魔女の赤く塗られた爪が指したのは、並べられたカジノの景品の中でもひときわ高い場所に飾られている、硝子のケースだった。その中には、握りこぶしほどの大きさの宝石が収められている。カットの感じから、ディスプレイに映った瞬間はダイヤモンドのように見えたが、よくよく見れば、その輝きは私の知るどの鉱物とも異なっていた。内側に淡い光を宿し、自ら七色に輝く宝石など、少なくとも『こちら側』には存在しない。

 そういえば、この魔女は「宝物」を探しているのだと言っていたか。ありとあらゆる『異界』を巡り、彼女曰くの「見たことのないもの、素敵なもの、いっぱい、めいっぱい」を求める夢追い人。どうやら、ここで彼女が目をつけた「素敵なもの」は、この宝石であるらしい。

「だから、全財産どーんって賭けて、更にいくらか借りて挑んだんだけど、いやー、負けちゃった! 大負け! そんなわけで、旅人さんに助けてもらおうって思って」

「助けて……、というのは、つまり?」

「もちろん、私の代わりに、あの宝石を手に入れてほしいの」

 にこり、と晴れやかな笑みを浮かべる魔女に対し、Xはじっと魔女を見て、立ち並ぶ従業員を見て、それから魔女に目を戻して。

「お断りです」

「ちょっとぉ!」

「だって、それは、流石に助ける義理、ありません」

 いくらお人よしにお人よしを重ねたXでも、ギャンブル狂いを相手にする気にはなれなかったらしい。日頃から真面目かつ潔癖のケのあるXだ、自分の中で魔女の話と従業員の主張を天秤にかけて、より「正しい」と思われる方を選び取った、ということだろう。

 魔女の肩にそっと手を置き、Xはいたって真剣に言う。

「借金を返しましょう。話はそれからです。返済するための協力なら、惜しみませんから」

「だってあのスリーセブンさえ揃えば一発逆転でー!」

「一発逆転を狙うこと自体が、間違いです。反省が見えません」

 どこまでも正論をぶつけるXに、魔女は更に言いつのろうとしたようだったが、その両腕をがっしりと従業員に捕まれる。

「それでは、お引き取りいただきます」

「ちょっ、ああっ、旅人さんの薄情者ー!」

 ずるずる、と音がしそうな勢いで魔女が引きずられていく。魔女はXに向けて何やら喚きたてていたようだったが、それはXが己の耳を手で塞いだことで、すぐに聞こえなくなった。「聞く気がない」というポーズをきちんと示すあたり、なんとも律儀である。

 そして、

「……あれ?」

 ぽつん、とカジノに残されたXは、首を傾げたようだった。

 そう、魔女が追い出されてしまえば、Xがここにいる理由もない。とはいえ、他に行くあてがあるわけでもない。己の役目は『異界』の観測であり、この『異界』がカジノの姿をしている以上は、できる限りの観測をすべき――おそらくそう考えているに違いなかった。

 Xは改めて辺りを見回す。ディスプレイに映し出されるのは、『こちら側』でイメージされるカジノとそう大きくは変わらない。それとも、Xの意識を通したことで、彼の持つ知識に引っ張られてそう見えているだけなのか。Xの目で『異界』の姿を観察している以上、その境界線はどこまでも曖昧だ。

 決してうるさくはないが、心が沸き立つバックグラウンド・ミュージック。語らう人々の声や歓声、スロットマシンの回る音色、時折響く鐘の音。様々な音色を聞きながら立ち尽くすXに、先ほど立ちはだかった物々しい従業員たちとは打って変わってにこやかな従業員が近づいてくる。頭から突き出す黒いうさぎの耳は、どうやら自前のものであるらしい。

「お客様、こちらは初めてですか? ご案内は必要ですか?」

「あ、……はい、お願いします」

 客ではない、とは流石に言えなかったらしい。幸いなことに、魔女が追い出されてもXの姿を変える魔法は解けなかったようで、少なくとも「客」としては認識されているようだ。

 従業員の話によると、このカジノは数多の世界の間を行く「船」のようなものであるらしい。そして、一時の刺激と成功の夢を求めて、Xや魔女といった世界を渡る者たちが訪れるのだという。『こちら側』で言う人間とは異なる姿の者たちが多いのも当然ということだ。

 そして、それぞれの遊戯の話に入ろうとしたところで、Xが恐る恐る口を開く。

「その、実は、賭けるための元手がないのですが」

「ご心配には及びません。こちらでは様々な世界の方が訪れますので、それぞれの世界の金銭は価値を持ちません」

「では、何を賭けるのですか?」

「そうですね。活力であったり、記憶であったり、寿命であったり。お客様を構成している要素をチップに変換していくことになります」

 では、あの魔女は一体何を賭けて、何を失い、何を借りたのか。そして、Xに何を賭けさせようとしていたのか。想像するだに恐ろしくなってくる。常々『こちら側』の常識で捉えてはならない存在だとは思っていたが、彼女の感覚もまた、常人のそれとはまるで異なるのだと思い知らされる。

「ほら、お客様も、既にチップを握っていらっしゃるでしょう?」

 従業員の言葉に、Xははっとした様子で己の手を持ち上げる。無骨な手には、いつの間にか数枚のチップが握られていた。光の加減では金色にも見える、透明度のあるブラウンのチップ。果たして、これはXを構成しているうちの「何」が形になっているのだろう。

 しかし従業員がそれに答えることはなく、「では、楽しんでくださいね」と笑みを見せ、その場を去って行ってしまった。

 Xはしばし手の中のチップを指で摘まんだり、回したりを繰り返していたが、やがて意を決したように歩き出す。つややかな靴で絨毯を踏みしめ、ルーレットやカードゲームのテーブルなど、いくつかの遊戯を遠目で見たのちに、やがてスロットマシンの前にたどり着く。

 そういえば、先ほど魔女がスリーセブン云々と言っていたことを思い出す。Xもそれが頭の片隅に引っかかっていたのだろうか。

 スロットマシンの前に置かれた椅子に腰かけ、しばしそれを観察する。見た目は『こちら側』のそれと変わらぬスロットマシン。描かれた柄も見たことのあるものだ。『異界』でも、「7」は幸運を示す数字なのだろうか。あの魔女は7という数字に囚われた末に不運を掴んでしまったらしいが。

 Xの指がチップを一枚拾い上げ、投入する。能天気な音楽とともに、沈黙していたマシンが明るく輝きだす。一呼吸の後にレバーを引けば、ドラムが回転を始める。Xとしては、単に試してみただけのもの。特別、勝ってやろうという気概もないのだろう、タイミングを狙う様子もなく、ドラムを止めるためのボタンをくごく無造作に三つ連続で押し――。

 ぴたり、と。

 三つの「7」が、揃う。

 途端にスロットマシンが激しく輝きだし、勝利を告げる音色がフロア全体に鳴り響く。辺りの人の目が一斉にこちらに向けられ、従業員が駆けつけてくる。こんなことになるとは想定していなかっただろうXは、色とりどりのチップを吐き出すマシンを前に、おろおろと辺りを見回すことしかできないでいた。

「お客様、おめでとうございます!」

 かけられた声に、やっと我に返ったのだろう、Xの視線が声の方に向けられる。見れば、そこに立っていたのは今まで視界に入っていたどの従業員とも異なる、金銀の刺繡が施された立派な服に身を包んだ、影そのもののような人物だった。もしかすると、このカジノのオーナーなのかもしれない。

「これほどまでの幸運を拝見するのは、いつぶりでしょう。どうぞ、お好きなものを持ち帰ってください、お客様にはその権利があります」

 この無数のチップは、一体、誰のどのような要素が形になったものなのだろう。今までこの『異界』が数多の客から得てきたものが、今、Xの目の前に積みあがっているという事実に、見ているだけの私でも眩暈を覚える。

 そして、このチップで引き換えられるものとは、一体どれだけの価値があるのだろう。Xの視線が、フロアの中央、無数の景品が並べられた場所に向けられる。その中には、もちろん、あの魔女が欲していた七色に煌めく宝石もある。

 やがてXが「あの」と控えめに告げる。周囲の視線を集めながら、ほとんど消え入りそうな声でXが言うには。

「これで、全部返せますかね、あの人の借金……」

 結局のところ、Xはお人よしなのだ。どうしようもなく。

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