無名夜行 終わらぬ夜の観測者

青波零也

終わらぬ夜の観測者

「どうだい、いい月の夜だ。外に散歩に行かないかい?」

 その誘いに対し、Xはきっと、相当困った顔をしたのだろう。

 何せ、私がこの場から観測できるのはディスプレイに映るXの視界のみであり、X自身がどのような顔をしているのか、どのような仕草をしているのかは、鏡でも置かれなければ知りようがない。

 ただ、スピーカーから響いてくるX の声がXの困惑ぶりをよくよく表していた。

「しかし、ここまで来るのも、なかなか大変でしたが。外、暗いですし」

 窓の外には大きな月――『こちら側』のそれに比べたら遥かに大きく見える、大小二つのそれを果たして『月』と呼称していいのかはわからなかったが――が浮かんではいるが、その月の明かりをもってしても、夜の闇の中を歩くのは難しい。この建物の外に広がる、鬱蒼とした森の中ならば、尚更。

 しかし、Xの言葉に、目の前の男性はつくりものじみた青白い顔に、微笑みを浮かべてみせる。

「ああ、あなたは夜目が利かないのか。では、あなたには闇を見通す魔法を授けよう。それならば、ついてきてくれるかな」

 ティーカップを持ち上げる細くしなやかな指もまた白く、Xの無骨でやや短めの指とは対照的だ。Xもカップの中に残っていた紅茶を一口で飲み干して、言った。

「喜んで」

 Xの答えに、男性は嬉しそうに真っ赤な目を細めた。

 その穏やかな顔をXの視界越しに観測する限り、この男性が――、町の人々を苦しめる吸血鬼の王には、見えなかった。

 

 

 ――『異界』。

 ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、この世から見たあの世、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。それが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。

 だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。

 そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。

 もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言えない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。

 彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。

 寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚は私の前にあるディスプレイに、聴覚は横に設置されたスピーカーに繋がっている。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。

 今回Xが降り立った『異界』は、明けない夜の世界だった。

 本当に「明けない夜」なのかは、もちろんXには――、そして、Xの視界越しに『異界』を観測する私には確かめようがない。Xの『異界』への滞在時間は数時間が限度だ。降り立った『異界』が偶然夜の刻限であっただけで、時を待てば朝が来る可能性も否定はできない。

 しかし、少なくともXが訪れた町の人々は、口々にこう言っていた。

「ある日から、朝が来なくなったのだ」

「陽の光を失ったままでは、滅びゆくばかり」

「畑もすっかり枯れ果て、我々は生きる糧を失いつつある」

 その言葉通り、町の様子も酷いものだった。所々にぽつぽつと明かりが灯るばかりの寂れた街並み、すっかりやつれ果て、もしくは荒んだ顔をした人々。時には命の危険を感じる瞬間すらあった。無防備に町を歩こうものなら、身ぐるみ剥がれても文句は言えない、そういうことらしい。まあ、Xが無防備と見て襲い掛かってきた命知らずは、逆にこてんぱんにのされていたわけだが。

 どうして、朝が来なくなったのか。その問いに対する答えは一つだった。

「森に住む、吸血鬼の王が我々から太陽の光を奪ったのだ」

 吸血鬼。Xがそう認識した言葉は、彼らの話によれば『こちら側』のそれとほぼ同一のものを指すようだった。

 もちろん『こちら側』では吸血鬼とはフィクションの存在だ。夜の闇に現れ、人の血を啜る不死の怪物。そのイメージは時代やコミュニティによって異なるが、現代の日本においては、人間とほぼ同様の外見特徴ながら、血を吸うための牙を持ち、変身能力やその他魔術的な能力を持ち合わせる超常的な存在とみなされる。人知を超えた不滅の存在である、とされる一方で、日光を浴びたら灰になる、流水を渡れない、十字架や聖水に弱い、ニンニクや強い匂いを持つ香草を苦手とする、など、弱点も多い。中には近年の創作も含まれるが、一般的に「吸血鬼」と聞いてイメージされるもの、としてはこんなものだろう。

 とはいえフィクションである以上、私は実物を知らないし、Xだって出会ったことはないはずだ。そもそも、ものを極端に知らないところのあるXが、『こちら側』で語られる吸血鬼の特徴をどれだけ把握しているのかも怪しいが。

 ただ、吸血鬼というものを知らずとも、目の前の人々が悲痛な声をあげている、という状況にXが心を痛めたのは間違いないようだった。自分も力になりたい、何かできることはないか、と問うたXに、町の人々はこう言った。

「吸血鬼の王と話をしてくれないか。朝が再び来るように、と」

 率直に、随分と人任せな話だ、と思う。ただ、色々と手を尽くした結果として旅人に頼らざるを得ない、という結論になったのかもしれない以上、私が軽率に判断することもできない。そして、『異界』に私の声が届かない以上、『異界』における物事の決定権は私ではなくXにある。

 ならば、Xの答えは一つだ。

「わかりました。今から行って、頼んでみます」

 Xは頼まれたことには否と言わない。そういう人物だ。

 吸血鬼が住む森に行くにあたり、Xが借りたのはランタン一つ。

 そんな軽装で大丈夫か、という問いには「これが一番慣れているので」と返し、武器はいらないか、という問いに「話し合いに行くのに武器を持つ理由がありません」と返した。Xらしいと思う。Xの余裕は「危険が及べば即座に『こちら側』に帰還できる」ことに由来するのだろうが、仮にそうでなかったとしても、全く同じことを言ったに違いない。長い付き合いになってきた今、これはもはや確信に近い。Xとは、そもそもがそういう人物なのだ。

 かくして、Xは鬱蒼とした森にかろうじて存在する獣道をランタンの明かりだけを頼りに歩いてゆき、吸血鬼の王が住むという古城にたどり着いた。サンダル履きで森歩きは辛いのではないか、と思うのだが、Xの足取りに何一つ不安はなく、「慣れている」という言葉は誇張でもなんでもないということがよくわかる。

 場違いまでに大きく、かつ繊細な装飾の施された門の前に立つと、手も触れていないというのに、来るのを待っていた、と言わんばかりに重々しい音を立てて開く。その向こう側に立っていたのが、

「ようこそ、お客人。ここまで来るのは大変だったろう。中でお茶はいかがかな?」

 絵に描いたように整った、しかし妙に血の気の引いた顔立ち。すらっとした体を礼服で包み、その上に漆黒のマントを羽織った、まさしく「吸血鬼」然としたこの男性であった。

 男性はXが何者なのか、どうしてここに来たのか、などと問いかけてくることもせず、「客人」としてXを迎え、丁重にもてなした。柔らかな蝋燭の明かりの下、白いクロスのかかったテーブルの上には、湯気を立てる茶に、素朴な見た目のクッキー。匂いや味といった情報は『こちら側』には伝わらないが、Xの反応から相当の美味であったらしいことは想像できる。「おいしいです」という率直な感想に、男性は穏やかに笑ってみせたものだった。

 これには、Xもやや面食らったのか、話を切り出すタイミングをすっかり失ってしまったようだった。

 そんなこんなで今に至った、というわけだ。

 ぱちり、Xの瞬きに合わせてディスプレイがちらつく。男性の言う「魔法」は、単にXの目の前に手をかざすだけであったが、確かにここに来るまでとは異なり、ランタンの頼りない明かりがなくとも、はっきりと夜の森を見通すことができた。それは、「暗いのにはっきりとものの輪郭が捉えられる」という、なんとも奇妙な視界であった。

 男性は伸びをして、うきうきとした調子で言う。

「うん、いい風だ。こういう日は籠り切りもよくないな」

「そうですね。冴えた空気が、心地よいです」

 体感に属する情報はわからないが、Xの言を信じるならば、冷えた空気に、背筋が伸びるような感覚なのだろう。しかし寒さを感じるほどでもない、というところか。心地よい、と感じられる程度であるらしい夜風が、木々を揺らしている。自然のざわめきだけがわずかに耳に届く、静かな夜だ。

 二人は、月明かりの下、夜の森をゆく。交わされるのは他愛ない話。Xがどこから来たのか、何をしてきたのか。数多の世界を巡る旅の話――旅といっても、我々がXに課している試行のことであるが――には、男性はころころと表情を変えてみせ、『こちら側』で見ているだけでも、彼がXの決して上手いとはいえない話を心から楽しんでいるのが伝わってくる。

 それでも――、ここに来た理由は、きちんと告げなければならない。

 求められた話が一段落したところで、サンダル履きの足で下草を踏みしめ、Xが切り出す。

「それで、私がここに来たのは、……森の外の、町の人たちに頼まれたから、なのです」

 おや、と男性が眉を上げて、今まで明るかった表情を、わずかに陰らせた。

「この、明けない夜をどうにかしてほしい、と?」

「はい。彼らは困窮を極めていました。このままでは、そう遠くない未来に、人は生きていけなくなる。そして、あなたが、彼らから昼という概念を奪ったのだと、聞いています」

「それは、」

 男性が口を開きかけたところで、不意にあらぬ方向に視線を向ける。ただ、Xも一拍遅れて違和感に気づく。

「……音が、」

 わずかにスピーカーから聞こえてきたのは、Xの低い声。ただ、言い切る前に口をつぐんだらしい。もしくは「黙って耳を澄ませた」、と表現するのが正しかったのかもしれない。すぐに、風が立てる木々のざわめきとは異なる音が聞こえてきたから。

 人の気配だ。複数の足音、そして押し殺した声。

 男性は、今までの柔和な表情が嘘のように緊張に満ち満ちた顔で、音の聞こえてくる方向を見つめている。

 やがて、木々の奥で光がちらつき始める。魔法で夜目を得た今のXにはやや明るすぎるように映るそれは、ランタンの光と、松明の炎か。それが、徐々にこちらに向かってくるのが、わかる。彼らが何を言っているのかは明確にはわからない、が、それが苛立ちや怒気といった負の感情を煮詰めたものである、ということは、風が運ぶ音で何とはなしに察する。

「どうやら、君に頼んだのも、『保険』でしかなかったようだね」

 男性はぽつりと言った。Xが「ああ、」と妙に合点のいった様子で言う。

「私が話をつけようとつけまいと、彼らは今日この日に、動くつもりだった」

 そういうことだ、と男性は肩を竦めた。その様子は飄々としているようで――、深い諦めを湛えているようにも、見えた。

 おそらく、Xもまた私と同じように感じ取ったに違いない。首を傾げるような気配とともに問いを投げかける。

「あなたは、彼らの願いを叶える気は、ないのですか」

「ないんじゃない、『できない』んだ」

 ――何せ、この明けない夜をもたらしたのは、私ではないのだから。

 その告白には、Xも少なからず驚いたらしく、彼には珍しく少しだけ声を張った。

「では、夜が明けないのは、何故?」

「私も過去の文献を調べてみたのだがね、どうやら、数百年に一度、そういう時期があるようだ。誰がもたらしたわけでもなく、元よりそういう定めなのさ。今までの通りなら、時間さえ経てば再び朝が戻ってくるよ」

「それを、どうして、言わないのですか」

「言ったさ、信じてもらえなかったがね」

 自分たちを餌としてしか見ていない吸血鬼の言うことなど、信じられるはずがない。町の住民たちは誰もがそう言って、彼の言葉を受け入れなかったのだ、という。

 私だって、彼の言葉を素直に飲み込んでいいのか躊躇する。別にこの男性を疑いたいわけではない、が、町で聞いた話と彼の話は事情がかけ離れすぎていて、どちらを信じるべきなのか、これだけの情報ではまるで判断がつかない。

「悩ましいところさ、私はできる限り人間と親しく暮らしたいのに」

「しかし、あなたは、人間ではなく、吸血鬼なのですよね。人の血を吸って生きる、怪物の一種」

「ああ。それは正しいよ」

 Xの問いに、男性はあっけらかんと言った。

「だが、人の血が糧であるということは、『人がいないと生きてゆけない』ということなのさ。彼らが滅びれば、私も滅びる。ならば、普段から親しく接し、人間から糧を得る分、協力して共に生きてゆきたい。私はそう思って、いるんだが」

 上手くいかないね、と男性は木々の向こうに揺れる炎を見つめる。最初は小さかった光も、既にはっきりと見て取れるほどになっていた。目を凝らせばそれぞれの人影は手に松明やランタン以外の何か持っている。どうも、それは鎌や鋤といった農具――、いや、彼らにとっての「武器」であるらしい。

 渦巻く不安、苛立ち、理不尽への怒り。それらが彼らを突き動かしている。仮にXが間に立って彼らを説得しようとしたところで無駄だろう。ひとたび決壊したものを、元の形に収めるのは極めて難しい。そういうことだ。

「さて、お客人。あなたはここを離れた方がいい。巻き込まれて痛い目に遭うのは、望むところではないだろう」

 確かに、この男性と共にいれば、確実に巻き込まれる。「吸血鬼の協力者」とみなされるのは間違いないだろう。ここで試行を中断するのが利口な判断だ、というのが私の本心であったが、それに反してXはかぶりを振る。

「見届けられる限りは、見届けますよ。……私の役目は、『観測』なので」

 Xは極めて真面目な観測者だ。私からの命令を、可能な限り忠実に実行し続ける、優秀な異界潜航サンプル。だが、きっと、今回の場合は単に真面目さだけによるものではないのかもしれない。

 相容れない二つがどういう形で交わって決するのか、言葉通りに「見届けたい」。そういう意志が、感じ取れた。

 男性は、目を見開いてXを見たが、やがて、柔らかな笑みを浮かべた。

「では、見届けて……、それから、よかったら、今日の日のことを、覚えていてほしい」

「ええ。夜の散歩、楽しかったです」

 どこか緊張感に欠けるXの言葉に、男性は声をあげて笑った。

 迫りくる炎と敵意を前に、涼やかな風に闇色のマントを靡かせて、男性は笑顔のまま一歩歩み出す。

 Xはそれを、じっと見つめていた。

 見届けて、いた。

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