第1話 田舎へ(1)

「今までお世話になりました。それではこれで失礼します」


 事務手続きをしてくれた総務の田中さんにそう声をかけて席を立った。


「今までおつかれさまでした」


 そう答えてくれた田中さんの声を聞きながら、ドアを開けて会社を後にした。


 13年。大学を卒業してから働いてきたこの期間が長かったのか短かったのかはよくわからない。ただ、人付き合いが苦手な自分としてはよく持った方だと思う。

 仕事自体に対して嫌だと感じることはなかったが、年々人間関係の煩わしさが増えていった。特に上司から昇進の勧めを受けて、それをせっつかれ続けたのは堪えた。俺に部下の管理ができるわけがないからずっと拒んでいたというのに……。

 しかし、そんな人間関係に悩む日々も今日で終わった。


 半年前、父方の大伯母の代理人を名乗る人から連絡を受けた。大伯母である紅葉くれはおばさんが倒れたというのだ。

 紅葉おばさんは結婚しておらず、弟にあたる俺の祖父も、その子供である父もすでに亡くなっていたため、唯一の血縁者である俺に連絡が来たらしい。紅葉おばさんはすでに危篤状態だという話だった。

 俺は上司に事情を説明して会社を早退し、連絡をもらった病院へと向かった。



「遠方よりご足労いただきありがとうございます。私は、森山紅葉様の代理人をしています弁護士の鈴木と申します」


 連絡をもらった病院に到着し、看護師の女性に紅葉おばさんの病室まで案内されたところでそう声をかけられた。鈴木と名乗った男性は高級そうな黒のスーツに身を包んだ50前後の男性だ。髪を七三に分けメガネをかけている。


「こちらこそ、ご連絡をいただきありがとうございます。森山達樹です。紅葉おばさん、大叔母はどうなったんでしょうか?」


「残念ですが……。森山様のご遺体はまだ病室に安置されていますがお会いになりますか?」


「ええ、おねがいします」


 俺の答えを聞いた鈴木弁護士によって病室の中へと促される。部屋は個室でベッドの他は小さな棚にテレビが置かれているだけの小ぢんまりとした部屋だった。

 ベッドを見ると穏やか顔をした紅葉おばさんの遺体があった。その優しそうな顔は最後に会ったときと何も変わっていないように見えた。


「大叔母が倒れた原因は何だったんでしょうか?」


「心不全であったようです。私が家を訪ねたときに倒れているのを発見して救急車を呼んだのですが、病院に着いた時にはもう息がなかったそうです」


「そうですか……。1か月前に会った時には特に調子が悪そうなところもなく元気だったというのに」


 鈴木弁護士の回答を聞き、最後に会ったときを思い出す。

 紅葉おばさんと最後に会ったのは1か月前の8月。例年通り両親の墓参りをして、紅葉おばさんの家に泊めてもらったときのことだ。母が亡くなった8年前以来、正月とお盆には紅葉おばさんのところにあいさつに来て泊まっていくのが習慣になっていた。


 その後、鈴木弁護士の手配により病院側とのもろもろの手続きが行われた。

 その手続きが終わると一度事務所に戻るという鈴木弁護士と別れ、1人タクシーに乗って紅葉おばさんの住んでいた家へ向かった。紅葉おばさんの家は病院のある街から車で15分ほど走った先、畑や木々が多く残る町の一番奥にある山のふもとにぽつんと一軒だけ建っている。


 紅葉おばさんの家に着いてタクシーから降りた俺は、主のいなくなった真新しい平屋の家を見上げる。2年前、古くなって痛みも多く、広いだけで不便だからと紅葉おばさんが家を建て替えたのだ。


「せっかく新しく建て替えたのにこんなに早くいなくなるなんて。……これで俺も本当に一人きりになったのか」


 紅葉おばさんから預かっていた鍵を使って家の中に入る。扉を開けた家の中は静まりかえっており、まるで時が止まってしまったかのようだ。

 気を取り直して玄関を上がり、居間へと向かう。そこからは窓越しに紅葉おばさんが育てていた家庭菜園が見えた。これらも育てる人を失って枯れてしまうのだろうか。


 俺の祖母は俺が生まれる前に亡くなっていたので、紅葉おばさんが俺にとっての祖母代わりだった。俺が5歳のころに祖父が亡くなってからもそれは変わらず、我が家と親しく付き合ってくれていた。

 さすがに、父が亡くなって母と俺だけになってからはやや疎遠になったが、それでも会えば俺の祖母代わりとしていつでも優しくしてくれていたように思う。そう思っていたからこそ、母が亡くなってからも正月とお盆には毎年必ず挨拶に来るようにしていたのだ。



 ずいぶんと長い間1人で思い出にふけっていたのか、インターホンの音に気付いて外を見るともう日が暮れ始めていた。玄関に出てみると書類カバンを抱えた鈴木弁護士が立っていた。

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