第8話 ひとりぼっちのわすれゆき

記憶喪失というものになった。自分の名前も、家族も、どうやら忘れてしまったらしい。真っ白で埋め尽くされた病室で、見知らぬ医者らしき男にそう告げられたのは半年程前だ。俺本人としてはいまいち実感が湧かないのだが、だが確かに【自分の名前】と呼ばれるものは思い出せない。家族も、友人も、もしかしたらいたかもしれない恋人だって。「俺」という人間を構成したであろう対人関係が、まるで消しゴムで跡形もなく消し去られてしまったように、俺の記憶回路からは消失していた。どうやら本当に忘れてしまったらしい。冷たいシーツを撫でながら、聞いていた言葉を思い出す。医者は患者に出来るだけショックを与えないよう慎重に言葉を選んで語っていた。俺はその様を、まるで水族館の魚を見るような他人行儀な瞳でみつめていた。記憶を喪ったことに対して、焦燥も、悲哀も感じてはいなかった。ただ胸の奥に風が通り過ぎたような心地がした。冷たくて、でも何かを傷つけるには及ばない胸懐だった。そこにはもうなにもないから、きっと痛まなかったのだろう。

はあ、と息を吐く。わざと、大きく。予想通り吐いた息は白い煙となってくゆんで消えた。空気に溶け去る瞬間のその淡いが、きれいだなと思う。冬は好きだ。体を内側から凍らせてくれるような温度をしている。澄んでいて、内部の心痛が寒さでごまかされてくれるような心地がするのだ。未だ記憶は戻っておらず『春』を実感として知らないが、きっと春より冬の方が好きだろう。それぐらい、俺はこの淋しくも儚い季節が気に入っていた。

「おまたせっ」

とりとめもないことをつらつらと考えていると、待ち人がようやく訪れた。声の方を見ると、花雪もかくやと言わんばかりの美少年が立っている。白い肌、白い髪、白の虹彩。纏っているコートもマフラーもすべて白一色で、白に覆い尽くされている。粉雪がほとりほとりと舞い落ちている現在の情景に、紛れてしまいそうなほど彼は白かった。薄く、脆く、儚い。その精巧な美貌も相まって、見るものにそのような印象を否応なく与える。彼は生き物としての温かみは薄いその顔を綻ばせ、俺の方へと寄ってくる。

「ーー芳(おり)」

「もう!またこんな寒い中で待ってたりしてー。中で待ってていいって言ったのに」

「好きなんだよ、外で待つのが」

「はぁ。梗(こう)は本当に頑固だよねぇ。こんな寒いところ、なにがいいんだか」

呆れたように溜息を吐く芳の横顔を眺め、そっちの方がずっと雪の中で佇んでいそうな顔だけどな、と呟く。もちろん、心のなかで。直接言ったら機嫌を損ねると分かっているので。

「はやく行こ。僕は早くあたたまりたい」

そう言ってぐいぐいと人の腕を引っ張って行こうとする芳に、はいはいわかったよとぼやきながらゆっくりと足を動かす。なんとなく、まだこの玲瓏とした空気と離れ難かった。といってもほんの数メートルの距離なので一分もかからず俺たちは店に入る。自動ドアの向こうをくぐり抜けると、紙の匂いとコーヒーの匂いが同時に香った。落ち着く匂いだ。安らぎさえ感じる。芳は店に入るや否やすぐさま俺の手を放し、目当ての本を探しに早足で歩いていった。俺は適当に二人分のテーブルを確保することにする。手頃な席を見つけ、コートを脱いで腰掛けた瞬間、何処かからぺらり、と控えめにページをめくる音がした。

ブックカフェ。本を読みながらコーヒーを楽しめるという喫茶店だ。普通に本も買える。芳が買いたい本があるらしい。俺たちは月一程度で、このカフェに通っていた。

ーー芳は、俺の幼馴染、らしい。

らしいというのは自身に全く身に覚えがないからだ。まあ記憶がないので当然だろう。

あの日、記憶喪失だと告げられた俺に付き添っていたのが芳だ。どうやら俺は交通事故で記憶をなくしてしまったらしく、その事故に芳が偶然遭遇し、救急車を呼んだのも芳らしかった。家族は皆早逝している(らしい)挙げ句に記憶喪失なんて面倒な俺の世話を焼き続けてくれる。足を向けては寝られない。幼馴染さまさまだ。

暫くすると二人分のコーヒーと本を購入した芳が戻ってきた。

「おまたせ。あーよかったー。最後の一冊だったよぉ」

「よかったな」

狙いの本が手に入ってご満悦な芳に、微笑みながらそう返す。

受け取ったコーヒーを冷ましながら飲んでいると、芳が「梗って、案外猫舌だよね」と言ってきた。

「そういうところは変わらないなぁ」

「・・・・・・そうなのか?」

「うん、まあ」

そう言われてもあんまりピンとこない。

けど生活に必要な知恵は覚えていたし、案外そんなものなのかもしれない。

「・・・・・・梗は、思い出したいって思う?」

ふいに芳が、真剣な顔になって静かに尋ねる。

「・・・・・・どうだろうな。いまのところ、なんとかやっていけているし」

実際問題、記憶喪失のまま生きることになんらかの不都合はない。家族はもういないし、恋人もいない。現在の友人関係は芳ただ一人だ。人間関係においても困ることはーー。

(嗚呼)

「芳は俺に思い出してほしいのか?」

問えば、予想外なことを聞かれたというように目を丸くさせる芳。それから左手で耳たぶを触りながら、苦笑しながら言った。

「えー。どうだろうなあ。今の梗とも充分やっていけてるし。まあ、そりゃ、記憶戻ってきたら嬉しいけどね」

芳は左手を耳から離し、コーヒーカップをゆっくり持ち上げながら続ける。

「まあでも、無理して思い出す必要はないんじゃない?失くした分の思い出は、これからまた作っていけばいいんだし」

「そうか」

コーヒーを冷ますのを忘れてすすってしまったせいで、舌に痛みを感じ、少し顔を顰める。熱さに伴って、コーヒーの苦味が口の中に広がった。

「それはそうとさぁ。梗ってばなんでこのさっむい時期に外で待つのかなぁ。見てるこっちが寒いし、罪悪感が何処からともなく湧き出るからやめてって前言ったでしょ」

それなら微妙に遅刻する癖を直せばいいのでは。

「前って言ったって、この前の一回きりだろ」

まるで前々から言っているみたいな口ぶりだが、自分は一回しか言われたことはないと反論する。・・・・・・なんだかこれ、反抗期中の子供が親に対して使う言い訳みたいだな・・・・・・。内心でそう思いながらも愚痴のように言った言葉に、芳は予想外に綺麗な微笑を浮かべて言った。

「そうだよ。だから、もう言わない」

首を傾げる。にこりと芳は笑ったままだ。

芳は、こういうところがあった。唐突に、理論不明な言動を示す。とてもうつくしい顔で。まるでそれが、太古の昔から当たり前に行われている儀式かなにかのように。

「なんで」

そう聞いたことになんら深い意味はなかった。ただの好奇心、弾み、会話の流れ。そんな、何気ない疑問からなるたった三文字の質問だった。簡潔で、簡単で。返答に価値を求めていない、世間話みたいなもの。

だけど、芳は。

「僕は」

花が咲くような笑みで。透明な目で。それなのに、どこか底しれない恐ろしさを含みながら言った。

「やぶられてしまった約束は、もう二度としないの」

それが必定であるかのように。




たった半年の付き合いでも、分かることはある。

例えば、芳は嘘を吐くとき、左手で耳を触る癖があるのだ。




***




人間として欠けてはいけないものが、おまえには致命的に足りないと父に言われたことがある。飼っていた猫を殺したのがバレた、中学2年生の冬のことだ。思い切り殴られた頬を抑えながら公園のブランコに座っていると、幼馴染である朔夜(さくや)が、何処で聞きつけたのかいつの間にか隣のブランコに座っていた。

「芳は落ち込むとすぐこの公園に来るよな」

そう笑いながら、いつものように話しかけてくる朔夜を突き飛ばしてしまいたくて、抱きつきたくて、ようするに情緒がぐちゃぐちゃだった。いいからほっといてほしい、とも思った。胸中にあるのは数え切れないほどの「どうして」ばかりで、諦念と屈辱と悲哀が心のなかで渦巻いていた。父のこれまで聞いたことのないような冷たい声が恐ろしくて、そしてそれ以上に、父の怒りに染まった瞳の中に、僅かな恐れを見てとって、ああもうこの関係は壊れてしまうのだな、と悟ったから。

けれど、芳には。

何が悪かったのかが、分からなかった。

どうして悪かったのかが、分からなかったのだ。

「どうしたんだ?」

優しく問いかけてくるその無遠慮な声が、鬱陶しい。

なのに、彼へと返した言葉は、まるで縋るように弱々しかった。

「―――朔夜は」

「うん?」

「僕が、猫を殺したって言ったら、どう、思う・・・・・・?」

数秒の沈黙があった。芳の生涯で、最も痛苦を感じた数秒間だった。

「・・・・・・どうして、殺したんだ?」

返ってきた声は、思いの外優しかった。怖くて、彼の瞳を見ることはできなかったけれど。

ふと泣いてもいないのに頬に冷たさを感じて空を仰ぐと、白い綿のようなものが灰色の雲から落ちてきているのが見えた。

ああ、雪だ。どうりで、寒いと。

「苦しそう、だったから」

喉に、肺に、冷たい空気が入っていく。このまま、心臓が凍ってしまえばいいと思った。

震えてしまう声も、全部、凍えさせてしまって。

「病気、で。何日も、何日も。ご飯も食べなくて。だから」

もう年だった。寿命だろうと獣医も言っていた。父と母は、それまで以上に猫に気をかけ、手厚く世話をした。それでも、猫は日々衰弱するばかり。

「ねえ、」

いけないことだった?

「・・・・・・・・・」

苦しんでまで長く生きてほしいというのは。それは、人間のエゴではないのか。

苦痛の時間を引き伸ばすより、一瞬で終わらせてしまった方が、優しさではないのだろうか。

少なくとも、芳にとってそれは、優しさに基づいた行為だった。

「芳が」

朔夜がやさしく芳の頭を撫でる。触れるか触れないかの感触。羽が落ちるよう。

「優しさだと思ってしたのなら、それは、きっと、優しいことだ。

―――でもそれは、猫が死んだことを悲しめない人間が、していいことではないんだ」

・・・・・・優しさは優しさでもそれは、憐れんでいるだけだろう?

優しい手付き、でも、毒のような言葉。言い返せはしなかった。事実だったから。

朔夜も、芳の父も、芳という人間の本性を、知っているだけに過ぎなかった。

きっと、もしも芳が猫を殺したときに泣きじゃくっていたのなら、ほんの少しでも、悲しみを見せていたのなら、父は芳のことを叱りはしても、あれほど冷たい目で見ることはなかったのだろう。

芳が少しも悲しんでいなく、ただの気まぐれに起こした親切心で飼い猫を殺したことが分かったから、あれほどまでに激高したのだ。

事実、芳は少しも猫の死を、嘆いていたりはしなかった。

だって、そうだろう?名前も認識していなかった生き物の死を、どうやって悲しめというのか。

名前など、覚える必要がないと思った。猫。と、そう呼ぶだけで事足りた。

父と母が飼い始めた愛玩動物。いつの間にか家にいて、不都合もなかったのでそのまま放っていた。

鋏で小さな喉を突き刺した感触にも、最期の断末魔のような鳴き声にも、流れ出て広がる赤い血にも、とくに何も感じなかった。怯えもしなかった。

―――わるいこと、なのだろうか。

気まぐれの優しさで、動物を殺すことは。

だって、本当に。優しくしようと思ったのに。

瞼が、あつい。

「僕、心がないの?」

小さい頃からずっと、“そう”だった。

みんなが喜んでいることを喜べない。悲しんでいることを悲しめない。

誰かを想って涙したことも、微笑んだこともない。

愛する人が死んだときには、人は皆泣くものらしい。

たとえば目の前で家族が死んでしまったとして、そのとき、自分は泣けるのだろうか。

想像して、想像できなくて、絶望的な気分になった。

「それは違う」

返ってきた言葉に、指先が僅かに震える。硬い、意志を伴った声。

「だって今、芳は苦しいと感じているだろう?理解されなかったことが、理解できなかったことが、悲しいと思ってる。本当に心が無いのなら、こんなところでひとり蹲っていたりしない」

「――あぁ、でも、そうだな」

「それが一番、芳にとって、辛いことなのかもしれない」

そう言って、朔夜は、芳の目の前に膝をついて、立てた小指を見せた。

きょとん、と目を見開く芳に、とても真摯に、まっすぐに、視線を向けて。

「約束する」と言い放った。

「もし、芳が辛くて辛くて堪らなくなったら、俺に言えばいい。他の誰とも共有できない心が重くて、他の誰にも分かってもらえない現状が寂しくて、死んでしまいたいくらい苦しくなったら。――そのときは、俺が、芳の心を壊してやる」

静寂に、ただ朧々と声が響く。残酷で、少しだけやさしい、朔夜の言葉。

「もう痛みも感じないように。苦しいとも悲しいとも寂しいとも感じないくらいに。俺が全部全部完璧に壊してやる。きっと」

―――約束だ。

「・・・・・・はははっ、なにそれ」

突拍子も無い言葉に、芳は笑った。変わっている幼馴染の、苦いやさしさに。

「―――うん、でも、そっか」

朔夜の約束には、なんの救いもなかった。

けれど、何故だろう。ほんの少しだけ、ほっとしたのだ。





***


(うそつき)

もう何年も前の雪時雨の下で交わした約束は、守られることなく潰え果てた。

嗚呼、嘘だった。嘘だったんだね。


冷えた小指を差し出して、お前のためにお前を壊してやると言ってくれた幼馴染は、もうこの世界のどこにもいない。



***



雨が降っていた。ざあざあざあざあざあざあと。

視界の端へと遠ざかっていく車のライトに、暗闇の中照らし出された、幾重もの銀糸の雨垂れが見えた。

あああああ、という嗚咽は確かに喉から出た自分の声なのだろうか。

頭が痛い。身体が痛い。呼吸をするたびに、内臓が焦げ付くような痛みが腹の奥でする。

自分の中で、いくつもの爆弾が爆破したよう。

いたい、いたい、いたい、いたい、いたい――――−痛い。

「・・・う、あ」

脳が馬鹿になってしまうほどの痛苦に、ぞっとするような寒さが追いつく。

凍えてしまう。夏なのに。

痛みと、寒さと、重苦しい何かによって、瞼が閉ざされていく。

塗りつぶされいく意識の中、

「さくや!朔夜!――――−梗!!」

めったに名前で呼ばない幼馴染みが、己をそう呼ぶ声が聞こえた。



***


蹴られた石のように地面に転がったその身体を見る。

傘は風船のように吹き飛んでいった。

車のバックライトが暗闇に反射しながら遠のいていく。何かの冗談のようだった。

――背筋に伝わった冷たさは、彼を喪ってしまうことへの恐怖ではなく、約束が果たされなくなってしまうことへの恐怖だった。

自分をたったひとり、理解してくれる存在を失くしてしまうかもしれないことへの。

どこまでも自分本位な衝動に嫌悪感を覚えながら、それでも、喉から悲鳴じみた言葉が溢れ出すのを止められなかった。






いやだ。



「やだ、――−やだ、やだ、やだ、いやだ。いやだよ。いかないで。いかないで。いかないで。いかないで。いかないで。いかないで。いかないでいかないでいかないでいかないでいかないでいかないでいかないでいかないでいかないでいかないでいかないでいかないで」



―――僕を置いて逝かないで。


だって。約束、したでしょう。

僕を、――壊してくれるんでしょう?




「いかないで」




***



目が醒めた。

目覚ましも鳴るまえの早朝。心臓も凍ってしまうような、冷たい空気。いつかのような。

ふと目に手をやると、片目から一粒だけ、水滴が零れおちた。

(―――なにか、)

なにか、忘れていてはいけないようなことを、夢に、見ていたような。

大切だったはずの、なにか。思い出さなければいけない気がして。

けれど、どうしても思い出せなくて。

ただ夢の中で聞いた誰かの悲鳴が、鼓膜にこびりついて離れなかった。

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ショートストーリー集 ショートケーキよりはきっと苦い 閏月かむり @uruuduki

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