第7話 或るへびの噺

こんな噺を聞いた。



古く小さな民宿に泊まらせて頂いたときだ。僕はそこの番頭から、向こうの山の寂れた神社で不思議な体験をしたことがある、という話を聞いた。民俗学を大学院で専攻していた僕は、俄然その言葉に興味を持ち、ぜひ話してほしいと尋ねた。番頭は快く、僕の申し出を受け入れてくれた。少し長くなりますが、という前置きで始まったのは、とある蛇の話だった。

「ええ、今でも夢ではなかったのかと時折思うほど、不可思議な出来事でございました」



それはまだ親の後を継いで番頭になるなど、到底考えてもいなかった頃のこと。

ただこの何もない田舎を飛び出したくて、とくに目的もないまま都会の学校へと通っていた私が数年ぶりに帰郷した時のことだった。

大学卒業後のことについて追求する父の声から逃れたくて、そのときの私はふらふらと宛もなく何もない村を彷徨い歩いていた。見渡せば、田んぼと小径(こみち)、まばらに散らばる人家が見える。逆に言えば、それぐらいしかこの村にはないのだった。まるで百年前から時間が動いていないようで、普段通っている大学のある都心部と同じ国であることがなんだか信じ難かった。私もいつかこの村で、時に置いていかれたような生活をするのだろうか。

そんな肌寒い想像をしながら、気がつけば、山の麓の寂れた神社の前まで歩いてきていた。

赤々とした夕日に照らされた小さな鳥居と、苔むし、ほぼ緑色で覆われた石階段。

ああ、懐かしい。そういえば、小さいころはよく、この廃神社に遊びに来ていたのだった。

近所の友達と一緒に、この神社を秘密基地代わりにして遊んでいた。

まあもっとも、親にバレた後は罰当たりだし危ないから止めろ、と叱られたのだが。

そんな他愛のない子供時代の郷愁に浸りながら、ゆっくりと石階段を上がっていく。

とうに打ち捨てられ、管理する人もいなくなって久しい神社だが、賽銭ぐらいして帰ろうという気持ちになったのだ。十年ほど前の、遊び場を貸してくれた礼に。

「おや?」

そんな心持ちで階段を上り、鳥居をくぐった時。低いような、高いような、誰かの声が聞こえた。

驚きながら、辺りを見渡す。

「ひさしいな。こんなところにも、まだ人はくるのか」

賽銭箱の向こう。拝殿の境内に、その男は座っていた。

思わず目を見開く。こんな廃神社に人がいた事にもだが、なによりその男の姿に驚いてしまう。青年、いや少年と言ってもいい幼姿に、黒い着物。黒檀の髪に墨色の瞳。あまりにも整っている容姿は、それゆえに非現実さと怖ささえも醸し出していた。

この少年は、本当に人なのだろうか。

橙色の日が形作る濃い陰影、冷えた山の空気。寂れた神社の独特の雰囲気もあって、そんな事を考えてしまう。

「おまえ、村人か」

男は構わず話しかけてくる。戸惑いながら頷き、答えを返した。

「あ、ああ。里帰りで」

「ふうん、そうか」

ぱっ、と。男はぶらぶらさせていた両足を地面につけ、拝殿から飛び降りた。

そのままこちらへ歩いてくる。心臓が早鐘を打つ。逆光で、彼の顔が見えない。異様な雰囲気に、逃げるべきかと真剣に迷った。

だが悩むばかりでいっこうにその場から動けない私の目の前に、いつの間にか立っていた彼は、ふ、と笑んでこう言った。

「おびえるな。なに、とって食いはしない。ただほんのすこぅし、人と会話したくなっただけさ。酒もある。一杯やっていかないか?特別に、面白い話をしてやろう」

いくらか考えを数巡させてから、私は頷いた。それはその場の雰囲気に抗えなかったからもあるが、純粋に、好奇心故でもあった。この不可思議な現象を、今すぐには終わらせたくなかったのだ。

彼は先程まで座っていた場所に私を誘い、どこからか白いお猪口ふたつと日本酒を持ってきた。とぽりと注がれたお酒に、ふと消費期限という不安がよぎったが、意を決して一口含むと、まろやかな風味が舌に上った。いい酒だ、と素直に思った。賽銭箱を前にして酒を飲むのも、なんだか罰当たりと思ったが。

「それで、面白い話というのは、何でしょう?」

私は隣でゆったりと酒を味わう男に尋ねた。尋ねながらふと、男の童顔に飲酒年齢という言葉が浮かんだものの、つまらぬ疑問と打ち消した。田舎の男など、たいていは学生時代から酒を嗜んでいる。酒、煙草、賭け事、火遊び。それ以外の娯楽が無いゆえに。

男はああ、と頷いた。猪口から口を離し、沈みかけの夕日を仰ぐ。

「とおいむかし、むかしのことだ。この神社に古くから伝わる、大蛇伝説の噺」

墨色の瞳孔の色彩が。いっそう薄く、透明になったように見えた。


「この神社はな、大蛇を蛇神として祀るために建てられた。恐れるものを畏れるものへ。山を訪れた人間や動物を節操なく丸呑みにする大蛇を宥めるために。荒ぶった魂を儀礼と贄で和御魂にする。よくよく人間は、そういうことをするよなあ。

だが大蛇は戸惑った。何故なら蛇は、怒っても、荒ぶってもいなかったから。蛇はただそういう風に生まれた本能として、人を喰らっているに過ぎなかったから。

だが曲がりなりにも神格に祀り上げられてしまった蛇は、そう容易くは死ねなくなった。蛇は長い長い生に飽き、いつしか山奥に引っ込むようになった。

たまに山の奥深くまで迷い込んでしまった人間を食らい、それ以外は惰眠を貪った。

そういう日々を百年、繰り返した。

だがある日のことだ。変わった娘が蛇の縄張りに迷い込んできた。

そう―――馬鹿な、娘だった」

馬鹿な娘。そう口にした彼の表情は、どこか寂しそうで、だが何故か愛おしそうでもあった。

「蛇が初めて出会った時、娘は七つか八つの女子(おなご)だった。蛇はいつものとおり、娘を捕食しようと思った。だが。娘は、自分よりふたまわりも大きい大蛇に、笑みを浮かべて言ったのだ。

『こんにちは、へびさん』

少しも恐れが浮かばぬその顔に、蛇は戸惑った。何故なら蛇は、恐れに顔を引きつらせ、悲鳴を上げながら逃げ惑う人間の姿しか知らなかったから。人間の笑みという表情があることさえ知らなかった蛇は、この娘は本当に人間であるのかと本気で悩んだ。もしや、人の姿をしているだけの、何か別の珍妙な生き物なのでは?と。それは蛇が初めて知覚する、未知だった。

娘はそんな蛇に近寄ってきて、さらに言った。

『ねえ、ここにすんでいるの?だったらわたし、ここにきてもいい?きっとここならみつからないわ。おねがい、いいこにするから』

恐れ知らずとは、まさにこのこと。娘は蛇の胴体に触れてさえいた。蛇が疑問に思って問うた。

『おまえは、おれのことを知らないのか?』

娘は答えた。

『知っているわ。村の大人はみんな言うもの。この山には人を食らう、恐ろしい大蛇がいるって』

蛇はさらに問うた。

『なら、おまえは。おれが恐ろしくはないのか?』

娘もまた答えた。

『いいえ。もっと恐ろしいものを、知っているもの』

蛇は、娘をこのうえなく愚かだと思った。このような子供、己はいつでも丸呑みに出来る。

だが、蛇は娘を食らわなかった。娘の言葉が気になったからだ。

『おれより恐ろしいものとは、なんだ』

蛇はそれが気になった。これまでずっと、恐れられることしか知らなかったから。

娘は笑って、答えなかった」

かなかなかな。ひぐらしの鳴き声が響いていた。男が、酒をお猪口に注ぎ足す。

ひとくち揺すって、彼は話を再開した。

「それからだ。娘は、よく蛇の縄張りを訪れるようになった。娘は一昨日のように、昨日のように、そしてきっと明日もそうであるように、蛇に変わらず話しかけた。自らを一切恐れぬその姿に、蛇はまたいつものように尋ねる。

『おまえが最も恐れているものとは、なんだ』

蛇はそれが知りたかった。だから娘を食べないでいるのに、娘は答えない。

だから蛇は娘を食べれない。そんな日々が、何年も何年も続いた。

あるとき、娘はうまい実のある木を見つけたのだと蛇を誘った。

またあるとき、とても綺麗な花があったのだと両手に抱えて蛇の所にまで見せに来た。

雨の日は病になっていないかと心配して見に来たくせに、翌日自分が熱を出していた。

信じがたいことに、蛇の身体に乗ったことさえある。

その全てを、蛇は許した。だって知りたかったから。

・・・その娘を、蛇は知りたかった」

彼は少しだけ楽しそうな顔をした。少しだけ。もう戻れない幸いを想うみたいに。

「そんなくだらない日々が幾年も続いて。娘が、十五になった頃だろうか。

その娘が、悲しげな顔をするようになった。いつも能天気に笑っていた娘が。

何があったのかと蛇が問うた。娘は悲しげに答えた。

『もう、此処には来れなくなるかもしれない』と。

なぜ?と蛇は問うた。

娘はいつかのように笑って答えた。

『私は親なしの忌み子だから。村の皆の役に立たないといけないの』

娘は、月日が経つうちに黒々と美しくなった黒髪を靡かせて語った。とびきり素敵なことのように。

『ねえ、領主さまが、私を妾のひとりに加えてくれるんだって。私は美しいから。この村が領主様の覚えめでたくなったら、年貢だって、軽くなるかもしれない。だから』

蛇は娘の言っていることがよく分からなかった。領主さま、というのはいったい誰だ?それが、此処に来れなくなるのと、いったいどう関係があるのだろう。

だが娘は言葉を続ける。蛇にはまるで分からない、話の続きを。

『―――だから、此処に来るのは、今日が最後』

ごめんね、と微笑んで告げた娘に。蛇は瞬間、腹の底が沸き立つほどの怒りを感じた。

そして次に、そんな自分に戸惑いを覚えた。自分は、この娘が此処に訪れてくるから相手をしてやっているだけだ。娘が此処に来ることを強制などしていないし、最初の頃はどうせすぐに飽きると思っていたではないか。その瞬間が、ほんの少し予想外に先だっただけだ。何を怒ることがある?

あゝ。だけど。でも。なぜだろう。蛇は嫌だと思った。その言葉、笑顔、その娘の全てが、突然すべて嫌に思った。心臓が苦しくなった。なぜ。こんな感覚は知らない。こんな感情は知らない。こんな痛みなど、知る由もなかった。

離れたくない。一緒にいたい。でも、どうすればいい?どうしてそう思うのかも、分からないのに。蛇は考えて、考えて、考えて、そして。


―――次に聞こえたのは、娘の悲鳴だった。

どこかが痛んだような気がした。

でも蛇は、構わず娘を呑み込んだ。苦しかった。これより大きな獲物を食らったことなど、幾度でもあるのに。腹の中を藻掻く感触に、心の底からの安堵を蛇は感じた。

でも痛かった。痛かった。痛みは失くならなかった。

蛇の目玉からはいつのまにか、水滴が垂れていた。

それを涙というのだと、蛇は知らなかった。娘に聞いたら、教えてくれたのかもしれない。


その日から、娘の姿を見たものはいなかった。

―――そうして、蛇は、永遠に痛みを取り除く方法を失った。」


愚かだと思うか、と彼は聞いた。その蛇を愚かだと思うか。と。

私は、

「・・・そう、ですね」

愚かだと思った。同時に、哀しいと。悲しい噺だった。

「知らなかったんですね、蛇は」

いろいろなことを。たぶん、娘が好きだったことさえ、知らなかった。

彼はこちらを見つめた。縦に伸びる瞳孔は、金の色へと移り変わっている。

震える指先を抑えながら、私も彼に尋ねた。

「もしも人を、大切にする方法を知っていたら。もっと違う結末がありましたか」

我ながら陳腐な問いだと思った。もしも話だなんて。なんの役にも立たない。

「わからない」

彼は俯いて、そう答えた。うちひしがれているような様子に、ひぐらしの鳴き声が突き刺さる。そのまま永遠も過ぎ去って行ったような数秒間の後、彼はまた夕日を仰ぐ。

きっと何百年も前から変わらぬ美しい景色を。いつか、蛇も娘と共に見たのだろう。

私の耳に、痛みの咳嗽(がいそう)が突き刺さる。

「どうすればよかったかなんて、今でもわからない」

でもおれは、と男は呟いた。悲しげな響きだった。

「おれはへびだから。へびだから。

大事にする方法なんて、丸呑みにする以外にわからない。

だけどどうして。腹の中で蠢くあいつの感触が、何故か虚しくて。せつなくて。

吐き出そうとして吐き出せずに、とうとう腹の中で藻掻くものは止まってしまった」

夕焼けを背にして、男はゆらりと影のように歩いていく。

その下半身はいつの間にか、青緑の鱗で覆われた、爬虫綱有鱗目の生物の”ソレ”に成っていた。

「おれはあいつを喰らってしまったから。あいつはおれの腹の中で溶けて消えてしまった。

・・・もう二度と、出会えない。あいつが一番恐れていたものも、その理由も、永遠に知ることは出来ない。あんなに知りたかったのに。

―――それがこんなに悲しいなんて、どうして誰も教えてくれなかったんだろう」

せつない声音とは裏腹に、くるりと振り返ったその顔はただただ静かに凪いでいた。

橙色の光に照らされた男の姿は、下半身が異形の蛇であるにも関わらず美しい。

私は、なにも言うことができなかった。

言葉が出ないのは、憐れみ故だろうか。畏れ故だろうか。

蛇は、私の様子を察したようにふっと笑った。

「なにも言わなくていい。なんだか話したくなったから話しただけ。だから忘れてもいい。

此処に愚かな、一匹の蛇がいただけのはなしだ」

そう言って。男は、男のかたちをしていた蛇は古びた鳥居の向こうへ去っていった。

きっと山奥へ帰っていくのだろう。娘を食らった場所へ。

後ろに伸びる大蛇の尾の影も見えなくなって。ようやく私は、張り詰めていた息を吐いた。

ふと上を見上げて目に映った夕暮れは、泣きたくなるほど哀しい色をしていた。



これが、私が経験した数年前の出来事です。

あの蛇がどうなったのか、今でもあの神社でひとり佇んでいるのか。

もう私には知りようのないことでございます。






もしも来世があったなら、おれも人になれただろうか。

あぁだけど。きっともう。

―――おまえはおれを、あいしてはくれない。



『或る蛇の独白』

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