第6話 雷に詠う
そのあやかしを見たのは、まだ梅雨が来る前の五月の下旬のことだった。
子供の頃から、不思議なものが見えていた。半透明に透けている人、跳ねる毛玉のような何か、巨大な骨百足。およそ人ではないものたち。そういうものが、物心がついた時から自然と目に映った。
でも俺はそういうものが見えることを、次第に隠すようになっていった。それはそうだろう。皆にとっては見えない方が正常で、見える俺の方が異常なのだ。子供は無邪気で残酷で、大人は自分の常識を崩されるのを良しとしなかった。ひとつも嘘などついていないのに嘘つきだと言われてしまえば、俺が見えているおかしなものを話す気はなくなっていった。母は作家という職業ゆえか俺の話を否定したことはないが、全てを信じているというわけではないだろう。一番きつかったのは、祖父母が母に俺を一度精神病院に連れて行ったらどうだ、と話しているのを聞いたときだ。気味悪げに言ってくれたらまだマシだったのに、心の底から心配そうな声音で、だから一層惨めになった。それから俺は、たとえどんな珍奇なものが見えても見ないふりをするようにしてきた。元来表情に出るタイプではないし、あまり動揺もしにくいたちなのでおかしな態度をとって異質に見られるということはなくなった。
だからその日、そいつに声をあげてしまったのは、らしくもないミスだったのだ。
最初は人間の少年だと思っていた。それが河原に倒れてるんで、「えっ」と声をあげてしまったのだ。これがよくなかった。声に反応してむくりと顔を上げた少年は肌も髪も服も全部が恐ろしくなるほど真っ白で、とても人間とは思えなかった。草に覆い隠されていた白髪が風に吹かれてさあっと舞う。長い前髪に隠されていた瞳の色は、翡翠だった。少年は俺をじっと見つめて、
「おまえ、おれが見えてるな」
この言葉を聞いた時点で、後悔しかなかった。はあと溜息を吐く。何故、迂闊に声をあげてしまったんだろう。だがあちらが認識している以上、無視しても意味がない。俺は渋々口を開いた。
「だから何だ」
だいぶ刺々しい筈のその声音に、真っ白のそいつは何故かにっと笑った。
「そうか!見えるのか!なあ、ひとりはつまらないんだ。話し相手になってくれ」
子供のような陽気な声に、戸惑う。今まで物の怪からこんなことを言われた事はなかった。
「なんで俺がそんなことしなくちゃならないんだ?」
「えーおねがい。なあなあ頼むよ!友達になろうー?」
友達。場違いなその言葉に苦笑してしまう。こいつは一体なんなんだろうか。何故人の友など求めるのだろう。
あまりにもしつこかったので、結局頼みを聞いてやることになった。
人を害するようなものでもなさそうだし・・・まあいいか、と思うことにした。
それからほぼ毎日、学校からの帰り道の途中にあるこの河原でそいつと話すようになった。ここが普段ひと目につかないような場所で良かったと思う。おかげで、ひとりごとを聞かれてもおかしな顔をされない。そいつは不思議な奴だった。どこもかしこも真っ白で、瞳だけが翡翠色。日本人にはまず見られない配色で、六歳くらいの童のようなそいつは、よく跳ねる。いや、走ろうとして、転んで跳ねているだけだ。鞠のようにぽーん、ぽーんと。綺麗にまんまるになって跳ねている姿を見るに、あいつにはどうも骨という物質が存在しないらしい。それからけらけらとよく笑う。物の怪だろうがあやかしだろうが、ここまでポジティブな感情を表にだす奴は初めて見た。
「なあ、なんで跳ねてるんだ」
毎日毎日変わりないその様子を見て、ふいに疑問に思って尋ねた。
「跳ねてないよ、走ろうとしてるの」
ぽーんぽーんと跳ねながら答えるそいつに、さらに問う。
「じゃあ、なんで走ろうとしてるんだ」
「なるため」
「何に」
「かみなりに」
立ち上がって、笑う。片目だけ見えたその表情はいやに晴れやかだった。
返された言葉の意味が掴めなくて俺は口を噤んだ。訳がわからない。走ってなれるものなのか、雷は。仕方がないので話題を変えることにして、俺はまた聞く。
「おまえの名前って?」
いい加減そいつ呼びはどうかなと思っての気遣いだったのに、またも返されたのは、同じ意味の言葉だった。
「かみなりだ。きっといつか、おれはかみなりになるんだ」
将来の夢じゃない、名前を聞いたんだ。大体なんでそんなにお前は雷に執着してるんだ。もういい、俺はずっとお前を【そいつ】と呼ぶぞ。そう言ってやりたいような気がしたものの、俺は結局むっと押し黙った。上半身を倒して草原に倒れ込む。穏やかな風が頬を滑り、草をさやさやと鳴らす。せせらぎの音と相まって眠りを誘う音楽だ。上にはお手本のような青空があった。流れる雲を眺めて、ああ穏やかだなと思った。ぽーんぽーんという音と、けらけらという声がする。他人の笑い声なんて疎ましかったはずなのに、微睡みの最中で聞こえたその音は、煩わしくはなかった。
だんだんと俺はそいつに会って言葉を交わすことを楽しく思い始めた。あいつとの会話は生産的なものは何も生み出さないけれど、気が抜けて落ち着くのだ。うららかで心地よい。その不可思議で平和な日々は、梅雨になっても続いた。傘を差しながら、もう草むらに寝転べないのは残念だったけれど降り注ぐ雨粒を蛙のように飛び跳ねながら弾いているのを見るのはおもしろくて好きだった。俺は稚い子供のようなそのあやかしを、存外嫌いではなかったのだ。水滴が跳ねる川の音も、蒸しばむ初夏の訪れのような空気も。
そうして、日々は過ぎていった。
そいつに最後に会った日は、嵐だった。早朝から轟々と風が鳴り雨が弾丸のように降り注ぎ、高校は休校となった。遅めの朝食をたべながら、ふと頭に過ぎったのはあの真っ白なあやかしのことだ。鞠のように跳ね、けらけらと笑う間抜けな奴。あやかしなのだからきっと大丈夫、平気な筈だ。何度そう自分に言い聞かせても、浮かび上がってくる焦りのような感情は止められなくて、パーカーを着るなり傘も持たずに部屋を飛び出していった。ああ俺今馬鹿なことしてるなと頭の片隅で思った。激しい雨粒が身体を穿っていく。
全身に水滴が叩きつけられ、もはや前が見えない。まだ朝なのに辺りが灰色で光がなかった。風も強い。吹き付ける雨風に邪魔されながら河原へと走った。息継ぎのため口を開けば遠慮容赦なく水が口内に入ってくる。目を開けているのさえ辛くて、本当に俺はなんでこんなことをしてるんだろう。
少し様子を見るだけだ。すぐに帰る。そう心の何かに言い訳しながら河原へとひた走る。ばしゃばしゃと靴で水が跳ねる音もばちばちと雨粒が道路に叩きつけられる音も煩かった。少し静かにしてほしい。ぽーんぽーんという音が聞こえない。あのけらけらという笑い声も。
普段の何倍もの時間を掛けて河原に辿り着くと、そいつは雨に打たれながら空を見上げ佇んでいた。
呼ぼうとして、俺はそいつの名前を知らないことを思い出した。けれどそいつは一向に動かない。どこかに向かう様子もなくただ灰色の雨雲を見ている。
「なに・・・」
してるんだ、そう尋ねようとしたら、そいつが俺に気づいたように此方の方に顔を向けた。こんな土砂降りの雨の中、顔なんて見える筈がないのに、俺にはそいつが笑っていることが分かった。
いつか見た片目だけ見える笑み。翡翠色の眼窩に小さな灯りのようにひそやかに輝きが滲んでいた。
晴れやかで、澄んでいて、誇らしげで、それでいてほんの少しだけせつなかった。
見ていろよ、そう言われた気がした。声なんて聞こえないのに。
そいつはぐんと足を前に出して、頭も前に出して、最後に体を進ませ駆けていった。この豪雨の中、少しもスピードも落とさずぐんぐん進んでいく。雨粒を弾き飛ばして。この間まで転んで鞠のように跳ねていた奴が、光のように走る。輪郭は曖昧な線となり形を失っていく。でも不思議なことにどんどん遠く離れていっても見失うことはなかった。吸い寄せられるように視線が釘付けになる。そいつは次第に上を向き、上がっていき、しまいには直角になった。息を呑む。真っ白なそいつが、少年の姿ではなく龍の姿をしていたからだ。勿論映画やアニメに見るような雄々しい成龍ではない。見れば誰もが子供の龍だと判断するような、細く小さな白練の龍。けれどどんどん進んでいく。降りしきる雨も、鳴り響く風も関係が無いというように。
伝説上のその生物が雲を突き破って上へ向かうのを見て、白い躯体に煌めく燐光が目に写って、眩しかった。弱々しいだなんて欠片も思わなかった。
なぜだか知らないが、このとき、俺の耳に幼い日の記憶の声が蘇った。まだ小学校に上がる前の頃。原稿を書いていた母の横からとある言葉を指さして、これはなにと聞いたのだ。
『これ?ああ、この言葉はね、遠くで鳴る雷という意味なのよ。読み方はね________』
_________________えんらい。
『きっといつか、おれはかみなりになるんだ』
白龍の姿が数多の灰色の雨雲に覆い隠された数秒後、どぉんと遠くから音がした。
果てなき空の向こうから。
一回きりだけだったけど、灰色の雲を一瞬だけ光らせたその光景が目に焼き付いて離れなかったのは、きっと雷にしてはささやかなその音が、心臓を強く揺さぶったのを感じたからだ。ぶるりと身体が震える。瞼をきつく閉じて、きっと俺はこれを忘れないと思った。
雨が変わらず肌に痛いくらいに食い込んでくる。でも、頬に滑り落ちた水滴ひとつだけが、何故かとても熱かった。次に目を開けたとき、俺は声もなく呟いた。
たった二文字。【そいつ】を顕す言葉。きっとそうであろうと思った。
あぁ、いまようやく分かったよ、お前の名前。
____________________________遠雷。
遠い遠い空の上、雲を突き抜けて光った、俺のともだち。
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