第5話 春に夢む
遠い遠い昔のこと。北の果てのそのまた向こうの湖に、うつくしい白鳥の群れが住んでいました。そこはいつも冷たい水の停留地。北に住む魔女が湖に住む生き物たちのために凍らないよう魔法をかけた、澄み切った白鳥たちの住処。人間ではとても暮らせないほど寒いその地域は、荒らされていない故にとてもうつくしく、特に瑠璃色の湖と白鳥の純白のコントラストは、まるで御伽噺のように綺麗なのだそう。
白鳥たちはくるくると湖の中を優雅に泳ぎながら、歌いながら生きていました。
そんなある日。魔女が病気で倒れ、死んでしまいました。死んでしまった魔女の魔法は夢のように溶け始め、徐々に湖が凍りついていきました。早く湖から飛びだって新しい住処を探さなくては、白鳥たちも、湖に住まう他の生き物たちも死んでしまう。けれど、それは不可能でした。長い間、本当に長い間、この何処よりも冷たい場所で過ごしていたから、もう彼らは常世で生活することが出来なくなってしまっていたのです。日の差さないこの地で過ごした彼らの身は、太陽の光にさえも溶かされてしまう。氷のように、消えて失くなってしまう。
そして、それ以上に。
彼らはみんな、北の魔女を愛していました。
その身が虚構の氷で出来ているが故に、誰とも触れ合えず、誰にも語られず、誰からも忘れられ、ひとり、氷のように消えてしまった彼女。触れたもの皆凍らしてしまう呪いの故に、生涯、生きているものに触れることはなかった彼女。
湖に住まうすべての生き物たちは、そんな彼女が好きだったのです。
哀しいきみ、やさしいきみ、儚いきみ、うつくしいきみ。
自分たちを心底愛しんでいるような瞳をするくせに、一度も触れようとはしなかった。
白鳥も、魚も、蛙も、竜の落子も、みんな、北の魔女を心から愛しんでいて。
だからみんなは決めたのです。最後の最後まで此処にいよう、と。
彼女の最期に、寄り添うことは出来なかったけれど。
ひとりで、死なせてしまったけれど。
せめて心は、この何よりもうつくしい湖に。これまでそうだったように、終わりの終わりまで、共に。
百年以上その湖に住んできた者たちの結論が、それでした。
それから暫く経って、湖がもう三分の二以上凍ってしまったとき。生き物の三分の二は、氷の中で眠りについてしまったとき。
偶然湖を通りがかった悪魔が、おかしなことをしているな、と立ち止まって首を傾げました。
悪魔は生き物たちに問いかけました。
「どうして逃げないんだい?ここにいたら、凍って死んでしまうだろう?」
僅かに生き残っていた数匹の白鳥は答えました。
「あいしているからです」
「なにを」
一匹だけまだ息をしていた竜の落子が答えました。
「この湖を」
まだ僅かに心臓が動いていた魚が続けて答えました。
「そして、彼女を」
悪魔はくだらないものを見たかのように、呆れた顔で去っていきました。けれどそれはしょうがないことです。悪魔は愛を識らないのですから。あるいは、いつか悪魔が愛に触れる物語もあるのかもしれませんが。
そうしてまた暫くが経ちました。
もう湖で凍っていない部分はほんのボール二個分だけ。最後まで生き残っていたのは、ただの白鳥一匹です。そして、まもなく彼女も死んでしまうことでしょう。羽に染み透った水は凍って一枚一枚を繋ぎ合わせ、もはや羽ばたくことはできません。吸い込む空気は内蔵すべてを凍てつかせるよう。今にも固まってしまいそうな、感覚もない足をかろうじて動かし、ようやっと水面にから頭を浮かせている様子でした。苦しくて、痛くて、冷たくて。それでも、ひとり、ずっと、息をしていて。仲間たちもこんな最期だったのかしら、と彼女は思いました。ああでもこれほど淋しくはなかったかもね。ひとりきりは、それまで以上に冷たくて、寒くて、痛いのです。魔女さまも、こんな気持ちだったのかしら。
ついに視界が白く染まっているとき、目の前になにかが降り立ちました。
黒いボロボロの外套に、鴉のような仮面。氷上に立っているその人は、白鳥をみつめながら言いました。
「おれは死神だ。おまえの魂をひきとりに来た。死んでしまうまえに、なにかひとつだけ、願いを叶えよう」
とても不思議なその人は、不思議なことを言いました。
願いなんて、本当に、叶うのでしょうか。あぁ、でも、これで最期なら。
ぽろりと。白鳥の口から、願いが零れ落ちました。
「・・・・・・春が」
「春が、見てみたいのです」
他にも願いたいことはたくさんあったような気もするけれど、でもふいに魔女と交わした、ささやかな会話を思い出し、気づけばそんなふうに言ってしまっていました。
それは本当になんでもないような、些細な会話。
けれど綻ぶような口許が、未だ脳裏に焼き付いていて。
ーーねえ、妖精が言っていたの。此処は『冬』ばかりねって。私が聞いたら、世界には『春』や『夏』や『秋』があるのよって。夏は燃えていて、秋は少しだけさみしくて、春はとってもあたたかくて、やさしいんですって。生き物はみんな『春』が好きなのよって、言っていたの。・・・・・・みてみたい、きっときれいなのでしょうね。
少しだけせつなそうにしながら、夢見るように魔女が言っていたことを、白鳥は思い出しました。生まれてからずっと、凍てつく空気しか知らず、死ぬまでずっと、雪と氷に囲まれて過ごした彼女の憧憬を。
彼女の代わりではありませんが、白鳥は、見てみたいと思ったのです。
あの哀しい魔女が恋しがった、その季節を。
白鳥もまた、この湖で生まれ、この湖で育ち、この湖しか知りません。春を見たことは、一度もありません。
ただ凍らないだけの、うつくしい場所。
そしてもう、それすら永劫に喪われてしまうだろう場所。
最期に願いが叶うなら。どうしても、ひとつだけ、叶うなら。
此処では永久に触れることの出来なかったその景色を、最後の最後、終わりの一瞬。見てみたいと思ったのです。それをこの瞼に焼き付ける、死に際の空蝉でありたい。
「・・・・・・なぜ、春が見たいと言う?」
死神が尋ねました。未だかつて、そんなお願いごとをされたことはなかったからです。
白鳥は答えます。今にも消えてしまいそうな、弱々しい声で。
「うつくしいと聞きました。やさしいと聞きました。あたたかいと聞きました。生き物は、みんな、それが好きなのだと。ーー最期に見るなら、そういうものがいい」
世界が始まる季節だと。湖の側で笑ったひとは、もういない。
「後悔しているのか?此処に残ったことを」
死神はまた尋ねました。白鳥は笑います。笑って、答えます。
「いいえ、まったく」
ーー私は、私たちは、彼女を愛していました。とてもとても長い間、私たちと彼女は共にいました。たとえ一度も触れ合えずとも、心はいつも繋がっていたのです。この身体のことがなかったとしても、彼女が死んでしまったなら、もうこれ以上はがんばれないのです。心が、先に死んでしまう。さみしくて、痛くて、死んでしまう。・・・・・・ねえ、だから、しにがみさま。私は後悔しているわけでも、絶望しているわけでも、生きたいと思い直しているわけでもありません。こんなのは、ただの、一匹の白鳥の、くだらない感傷だとお思いになってくださいな。それでも憐れんでくださるなら。どうか、叶えてくれたら嬉しいのです。
ーーとても、とても。うれしいのです。
白鳥の言葉を聞いた死神は、ふっと、雪解けのように淡く微笑みました。
「ああ。わかった。その願い、確かにおれが聞き届けた。・・・・・・眠るがよい。おまえは善き命、善き魂だった」
その言葉を最後に。
それまで微かに振動していた白鳥の小さな心臓が、とうとう動きを止めました。
生命活動を停止した白鳥は、下へ下へとゆっくり沈んでゆきました。
湖はもうほぼ全て凍ってしまったというのに、どういうことでしょう?
ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと。白鳥の身体は、水の底に沈んでいきます。いえ、底なんてないのです。どこまでも、どこまでも。遠く、遠く。
いままで嗅いだことのないとてもいい匂いがして、白鳥は瞼をそっと開きました。
もう生きてはいないのですから、身体は何処にもないのですから、きっとそれは錯覚なのでしょうが。
そう、それは白鳥の魂が、きっと最後に見た世界でした。
蝶が踊っています。鳥が歌っています。花びらが舞い、空は青く澄んでいて、海はきらきらと輝いて。やわらかな木漏れ日、そよかな風。萌ゆる新芽は赤子のよう。虫、動物、魚。人間の子供の笑い声。あらゆる生命(いのち)が、溢れていました。たくさんの音で、溢れていました。
そこには、白鳥がいままで見たこともない、うつくしさがありました。
白鳥ははじめて、はじめて、これが”あたたかい”なのだと知りました。
空から薄紅色の花びらが降ってきました。薄く、淡く、儚い。まるで雪のような。
白鳥はそれを見て、あの美しい湖を思い出しました。雪が降り積もるさまは、今の目の前の光景に、どことなく似ていました。
嗚呼。嗚呼。
(い、っしょに、みて、みたかった、なあ・・・・・・っ)
魔女さまと、仲間たちと、一緒に。
それが出来たなら、どんなにか嬉しかったことでしょう。楽しかったことでしょう。
白鳥は、流れるはずもない涙が、零れ落ちているような気がしました。
そして、それが白鳥の、本当に最後の最後に見た記憶でした。
死神は白鳥の魂を抱え、黄泉へと向かい飛んでいます。
春の神の領域に冥道を入れてしまったことを、後で詫びなければなと考えながら。
ふと、死神の視界の端に、小さな、本当に小さな花の蕾が見えました。
「ーーああ。もう、春だな」
その昔。冬にしか生きることのできない生き物が、春を希(こいねが)ったことがあるそうだ。百年余の冬の果てに見たそれは、たいそううつくしかったらしい。
とある小さな白鳥の、
目も眩むほどの春のこと。
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