第2話 魔女の墓


暗い暗い森の奥。生物なんていなさそうな、寂れた木々の乱立地。不吉を代名詞にしたようなそこに、ポツンとなんでもないように、ひとつの墓は置いてあった。名前を刻まれてさえいなかったら、ただの形の整った石だと思うだろう。それくらいあっけなさで、供え物もなく、墓のために整地をされたわけでもなく、ただたまたま空いた所に、それはあった。逆に言えば刻まれた名前と享年だけが、それを墓と示す痕跡だった。灰色で、くすんでいて、その墓は随分と古そうだった。でも今さっきそこに置かれたような真新しさも感じる。何故なんだろう。

「これは・・・?」

「それは魔女の墓だよ」

声が聞こえた。

視線をそちらの方へ向けると、ひとりの男が座っていた。墓から1メートル程離れた木に寄りかかって、本を読んでいる。鴉の羽のような艷やかな黒髪に、伏せられていてもなお輝く金色の瞳。男は、ぱらりとゆっくり、注意深くページをめくっていた。蝶の羽ばたきのような音だった。それでいて、酷くどうでもよさそうにしていた。仕草はとても緩慢としていて真剣なのに、つまらないものを仕方なく読んでいるかのように。こんなに暗いのに、文字が分かるのだろうか。男は読み進めながら言った。

「そこは魔女の墓地さ。誰にも覚えてもらえなかった、最後の最後までひとりきりだった魔女の」

まじょ、そう呟くと男は何がおかしいのか、ククッと笑ってみせる。

いや、嗤い、なのかもしれない。愉しそうで、なのにどうしてかとてもくだらない茶番劇をみているような。退廃的な空気を纏った笑みだった。

「どうして、魔女は死んだの?」

「誠実だったからさ」

「誠実だと、いけないの」

「いけないね。魔女は気紛れでなければいけないんだ。不実で、曖昧で、不透明で、不気味。魔女は自分の欲望に忠実でなければいけない。己のワガママのために、何かを誰かを躊躇なく踏み躙らなければならない。そうでなければ」

わらいながら滔々と語るその男を、何故だか私は可哀想に思った。何故だろう。何故、その瞳が。金に爛々と煌めくその瞳が、哀しみに揺れているように思ったのだろう。

「______そうでなければ、魔女はころされてしまうだろう?」

ふいに先程とは違う種類の笑みを、男は浮かべた。やさしくて、こどものようにさびしげ。置き去りにされてしまったものの、あまさとなつかしさがそこにはあった。

ああ、その微笑で思い出す。そういえば、あなたは、本当にどうしようもないとき、そういうふうに笑っていたっけ_______。

うれしいときに、わらえばいいのに。どうして心の底からかなしいときにしか、あなたはやさしく微笑まないのだろう。とても臆病な天邪鬼。心が反対をうつしてしまう。

その金の瞳を見て、過去がグラグラ揺れだす。ううん、違う、揺れているのは、私の頭?

魔女、殺した、誰が。誰が、魔女?誰が、殺した。午後三時の御茶会(ティーパーティー)。湯気立つ紅茶、アップルパイ。それから、それから?あかい、あかい、血?これは、だれの血。だれの、赤。あふれる、ながれる、とまらない。とまらない。いたい、くるしい、頭が重い。いつのまに、たおれてた。床が、冷たい。視界がどんどん、ふさがって。

めをとじるすんぜんにみたのは、蜂蜜をかためたみたいな、きんいろの_____。


ふと、墓の方を見やると、刻まれた名前が見えた。



”Ashley・Torres(アシュレイ・トレス) 1664.11.23”



その文字を頭が認識する寸前、意識が重くなり体がグラリと傾いだ。

そのまま地面に倒れるはずだった体を、いつ移動していたのか傍にきていた男が優しく抱きとめる。

「まったく、しょうがないなぁ。おやすみ、アシュリー」

その呆れたような、やっぱり何処か悲しげでやさしい声音を知っている気がして、何か言わなければいけない気がした。

「レ、ティ、」

音のなるまま何かの言葉を紡いで、それだけで意識は闇に飲まれてしまった。

あぁ私、あなたに。




男は段々と薄れ消えていく少女を抱きかかえながら、悠然と歩いて先程の木に寄りかかった。彼女の、墓の、そば。

「ばかだねアシュリー」

男は笑う。嘲笑う。わらう。

まるで、くだらない喜劇を見たように。

あるいは、どうにもならない悲劇を見たように。

ああそうとも、此処には何の価値も意義もない。堂々巡りを続けるだけの、心底呆れた茶番劇だ。

ゆっくりと、すぐそこにある彼女の墓を見る。男が作った、魔女アシュレイの墓。転がっていた丁度いい大きさの石に、名前と享年月日を刻んで置いただけ。彼女の骸が埋まっている地面に。とても雑で無遠慮な墓地の作り方。けれどそもそも、男は墓を作る意味が分からない。男は人間ではないから。どうして死んでしまったのに、人は態々手間ひまかけて死体の置き場を作るのだろう。食べることも触れることもできないものを供えておくことも理解ができないから、この墓場に供え物はない。この墓地は、男以外に訪れるものが誰もいない。

そのことが哀れで、可哀想で、男は空気に溶けていく腕の中の魂に微笑んだ。空虚な微笑だった。

「ばかだね」

自分が死んだことさえ忘れてしまって、ただこの森を彷徨い続けるだけのアシュリー。悪人にも無慈悲にもなれなかった魔女アシュレイ・トレス。魔女は傲慢で悪逆で残酷でなければいけない。そうでなければ、孤独で寄る辺のない異端の彼女たちは、数の暴力で火炙りにされてしまう。畏れられなければならない。魔女に手を出してはいけないのだと、心身に思い知らせてやらねば。そうでなければ未知と異端を排除したがる人々に、魔女は殺されてしまう。だのにこの愚かな少女は、そうなることを疎んだ。悪人になることを、誰かに嫌われることを拒んだ。ああ馬鹿だ、本当に。力をもつ善良愚鈍なるものなんて、利用され尽くして消費され、捨てられるのがオチじゃないか。

馬鹿なアシュリー。馬鹿な魔女。

オレは何度だって言ったのに。そんなのちょっと賢ければ、誰にだって分かることなのに。友達を欲しがった寂しがり屋な少女。いつも誰かを助けたくて、頼まれたなら何でもやった。誰より魔女に向いていない。最期の日、馬鹿みたいに御茶会の準備をしていた君は、招いた客に殺されるなんて思っちゃいなかったろう。そこにオレがいたのなら、けして死なせはしなかったのに。騙されて、利用されて、ゴミ箱に投げ捨てるみたいに殺された。それなのに、どうして君の魂には、憎悪が欠片も見当たらないんだろう。ただ、この森を彷徨うだけ。昔魔女の屋敷があった、すでに荒れ果てたこの森を。そこになんの意味があるっていうんだ。どうせなら、君を殺した村人たちを皆殺しにするとか、復讐の気概をみせればいいのに。今の君には難しいだろうから、そうなったらオレが手伝うよ。もっとも、君を殺した奴らはとっくにオレが八つ裂きにしたけど。でも、アシュリーは此処を彷徨って自分の墓を見つけるだけ。ずっとずっとそれだけ。自分の墓のことをオレに尋ね続けるなんて、本当にバカみたいじゃない?

流石に答えるのも飽きてきたよ。

だってずっとそれしかしてないんだもの。

どうして。憎めばいいのに、恨めばいいのに。

君を利用するだけ利用して、殺した村人たちも、使い魔のくせに守れなかったオレのことも。用済みになったらいらないなんて、君、まるで可燃ゴミのような扱いだよ。それでいいの。

でも、そうだった。君はとびきり愚かで間抜けだから、こうなったんだっけね。誰かを憎むことさえできないなんて、君、人としてもなにか欠けてるんじゃないの。君が魔女として生まれさえしなければ、なんて思ってみたこともあったけれど。そんなんじゃきっと、村人に生まれついていたっておんなじような死に方だ。何も変わらない。騙されて利用されて怒りもせずに諦めるだけ。

あーあほんと、ばかじゃないの、君も、オレも。

あれから何年たったのかを、男はいちいち数えていない。あたりまえだ、猫は年なんて数えない。ただ、男はずっとそこにいる。朝も昼も夜も一昨日も昨日も明日も明後日も一年前も一年後も。いままでもこれからもこの先もずっと、きっとこの墓のかたわらにいる。別に好き好んでいるわけじゃない。だいたい毎回毎回はじめましてのような態度が気に食わない。向こうの木々が見えるような青白い半透明な肌も、あの日から髪も爪も背格好もなにひとつ変わらない容姿も腹立たしくてたまらない。何度も自分の墓と向き合うようなその行動が、吐き気がするほど気持ち悪い。なに、誰も墓参りなんてこないから自分でしようって?すばらしいことだね。ああ本当にくだらない。こんな三流劇場、観客だったらぶっ壊してる。けれど男はそれをしない。彼女に、真実を伝えたことだって一度もない。言ってしまえば、その魂がどうなるか分からないから。ひび割れて、今度こそ砕け散ってしまうのだろうか。

彼女の墓の側に寝そべって、彼女に墓のことについて聞かれる。この行為に面白いことなんてひとつもない。不快なことしかないけれど、それでも男が森からいなくなってしまえば、彼女の魂はたったひとりきりで彷徨い続けるんだろう。そうして墓を見つけて、これはなんだろうと首を傾げる。不毛だ。今でもかなり不毛な状況だけれど、それよりもっとなにか救いがない。いや、もうすでに死んでるんだから救いも何もないけど。

それでも、男はその想像をするだけで怖気がたつほど嫌だった。

最初から最後までひとりぼっちだったアシュリー。死んだ後もひとりにしかなれないなんて、それはいったいどんな冗談ジョーク?全然面白くない。だから男はそこにいる。そのためだけに。彼女の問いかけに答えるものになるために。態々人の姿をとってまで。

あぁそういえば。いつかアシュリーは言っていたっけ。生前、ひとりぼっちは可哀想だね、と彼女を嘲笑ったときに。

『ひとりじゃないわ。だって、レティがいるじゃない』

ああそう、と答えた記憶がある。きょとんとした彼女の顔に、宛が外れた、なんて思った。

「ほんとうに愚かだよ、きみは」

ただの黒猫一匹だ。アシュリーの人生にいたのは。

それなのに。それだけで。

ひとりじゃないと、どうして笑える?でも、そうか。なら同じことだ。彼女の生前が一匹の猫の寄り添いで、孤独じゃなかったというのなら。死後もひとりきりにしないために、寄り添い続けるだけだ。

それだけ。猫は気紛れだけど、きっとこれは変わらない。馬鹿で愚鈍で愚かで間抜けな、どうしようもない君の魂のためにいてあげよう。残念なことにオレの時間はたっぷりある。猫は九つの命を持っているって、知ってるかい?きっと、君の魂が擦り切れて擦り切れて最後に砕け散るまで見守ってあげられる。だから安心してまたおいで。また君の言葉に答えてあげる、アシュリー。いままでもこれからもこのさきもずっと。


淡く光を放ちながら薄れていく少女の瞼に、男はそっとくちづけた。

もう感触も温度もない透明な身体を、それでも大切そうに包み込む。


『レティ』


意識を失う寸前、少女が紡ごうとしていた名前を、その鈴鳴るような声を思い出し、男は微笑んだ。心から安堵したような、それでいて愛しいかなしいというような。少女の魂の形代が見えなくなったのを確認すると、男はくぁ、と欠伸をして木に寄りかかり目を閉じた。



使い魔にアシュリーと呼ばれた魔女アシュレイ・トレスと、彼女にレティと名付けられた使い魔の黒猫妖精は、退廃的で甘ったるい、いつまでも醒めない夢の中にいる。

どちらかが朽ち果てるまで、永遠に。



『此処は穏やかで優しく、ばかばかしいほど哀しい悪夢の果て。

どうかいまは安らかにおやすみ、アシュリー。』

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