第5話 熊を狙う毒
曲の終わりには盛大な拍手がラーニャとカミルを包む。
まるで自分の背に羽根が生えたかのようだった、そう感じたラーニャの頬は紅潮していた。
「なかなかの出来だった」
「見えない割には、ですよね」
「いや、君の目の事情まで加味したら最高と言えるさ。……見えないまま踊れるのは、世界広しと言えどバスリー家だけだろ」
「確かにそうでした」
このダンスは確実にラーニャの心に変化を与えていた。それが悔しいと思いつつも、恐怖を克服した感動には代えがたい。
カミルに連れられてダンススペースを出ると、瞬く間に人々に囲まれる。どこからか現れたムフレスがカミルを守るように傍に立った。
それからしばらく、ラーニャがカミルに付き従いながら参加者との談笑を楽しんでいると、豪奢な衣装に身を包んだ男がやって来た。二番目の兄だとカミルが耳元で囁く。
熊のような風貌の彼がカミルに笑いかけた。
「ずいぶんと優秀で可憐な侍女を持ったものだ」
「おかげさまで」
「女泣かせもおしまいか?」
「さぁ、どうでしょう」
当たり障りのない会話が続く。
カミルはラーニャについて「そばに置いているうちは身を守る盾になる」と言ったが、それはその通りで誰も彼を脅したり嫌味を言ったり、または安易に悪巧みにそそのかすことができなくなるのである。
ダウワースがラーニャに視線を向け、彼女の目の前で手をひらひらと動かしてみせた。微かに首を傾げたラーニャを、ダウワースはフンと鼻で笑う。
「何も見えていないのか」
「何もというわけではございません。まぶたを開けていれば明暗くらいはしっかりわかりますわ。あとは匂いや音、それにわずかながら識別できる色で大体のことは判断がつきます」
嘘である。
しかしバスリー家の能力者は嘘をつかぬ日がない。必要があれば眉ひとつ動かさず神さえ冒涜できよう。
「なるほど、それで生活には困らないと。確かにさっきのダンスは良かったな。あとで、オレとも踊ってくれよ」
ダウワースの言葉にラーニャは思わずカミルの腕を強く握った。カミルは主だから身を預けることができるのであって、他者にそれは無理だ。しかも第二王子を相手に足を踏んだり恥をかかせてしまったら命さえ危うい。
「初めてできた俺の侍女をからかわないでください。俺が嫉妬する」
「わははは! ああ、その気持ちはわかるぞカミル。なんであれ初めて手にするモノってのは大切にしたいもんだよな」
いま、カミルはラーニャを守ったのかもしれない。そう思ってラーニャはまたひとつ安堵した。一方で、ダウワースへの嫌悪はひとつ増えた。人間をモノ扱いするのは王族と言えど不快なものだ。ラーニャは加点方式も減点方式も、どちらも採用しているのである。
不快な熊がグラスを掲げた。
「では、カミルの初めての侍女に乾杯しようじゃないか」
バスリー家の記憶は誤魔化されない。それが本当に些細な違いであっても。
「あら? 甘い香りですね! ダウワース殿下のお飲み物はなんですか? 私もそちらが飲んでみたいわ」
空気を読まないラーニャの言葉に、その場にいる全員が呆気に取られた。
「は?」
眉を顰めたダウワースに、カミルが「ごめんなさい兄上」と曖昧に笑う。
しかしラーニャは止まらない。間違いなく、ダウワースのグラスには異変が起きている。会場中のどのグラスと比べても微かに
「だってハーブティーより甘い香りがしますでしょう? えっとこれはヘグジャスミン……よりもっと甘いお花、なんだったかしら」
「チッ!」
ダウワースは近くのテーブルからパンを手に取るとグラスの酒に浸し、落ちた食べ物をついばむ鳥の群れの中に放り投げた。
その場にいた者もそうでない者も、誰もが放り投げられたパンを注視した。
野鳥がぴょこぴょこと跳ねながら近づいてパンをついばむ。他の鳥も近づいてそれを口にしようとしたとき、最初の鳥がえずいた。すぐに嘴の端から泡を吹いて転がり、群れの鳥はみな飛び立ってしまった。
「思い出しました、サソイグサでしたね! でもまさかそんなもの飲むわけないですものね。ふふ、勘違いかしら」
沈黙が落ちる会場の中で、呑気なラーニャの声だけが響く。
サソイグサは春に咲く黄色の花で見た目に美しく、香りもいい。だが全草に強い毒性を持つため育成と管理は厳重な注意が必要であった。
カミルが震える声でラーニャに問う。
「ラーニャ、サソイグサの毒を飲み物に混入させる場合の手法について述べられた文献を知ってる?」
「はい。アリフ・サッバーグ著『身近な毒に関する研究、サソイグサの章』によると最も簡単な方法は葉や根を煎じて抽出することです。この場合、液体で持ち運ぶこととなりますので相応の容器が必要となります。また、特有の甘い香りが広がる場合があります。香りをたてないようにするには粉末にする方法がありますが、冷たい飲料には溶けにくく――」
「……身体検査だ」
ダウワースが呟いた。即座に近衛騎士が会場を囲み、ひとりひとり持ち物を検めることとなった。
カミルがラーニャの肩を抱く。リーン妃は扇を握り締めている。第三王子は「ぼくもやるのか?」と文句を言っていた。
そんな中、ガラスの小瓶を持つ者が発見された。
「説明してもらおうか、ムフレス・ジャービス」
そう言った近衛の手の上には黒のレースと、ラーニャの小指の先ほどの小さな瓶とが並んでいた。
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