第2話 バスリーの祝福


 ラーニャがテーブルの何もないところへ手を置くと、侍女がラーニャの手にカップを持たせる。小さくお礼を言って、ラーニャは再び母子の会話に耳を澄ませた。


「確かに俺のところは枠も空いてますけど」


「あなたもひとりくらい侍女を持つべきよ。それでたまにわたくしのところへ彼女を寄こしてくれればいいわ」


 王族は専属で付き従える従者の数に限りがある。大きな理由として予算が挙げられよう。かつてハーレムという制度があったこの国において、妃同士、または王子や王女間で対立や派閥が生まれるのは必然と言える。

 すると従者の数で他を圧倒しようとする者が現れ、お互いに競い合って際限がなくなってしまうのだ。


「だがバスリーでは兄たちを警戒させませんか」


「女の子だから大丈夫よ。むしろ、歓迎するかも。奪われないよう気を付けなさい」


 カミルは大きな溜め息をついてからテーブルの上の本を手に取った。パラパラと紙をめくる音が響く。


「バスリー嬢、『タウエレト紀行』百二十八ページは」


「はい、『彼の放り投げた炎纏う槍はクマイルカの背に深々と刺さり』」


「同じく二百ページ」


「はい。前ページの五文字を含みます。『波が私の頬をくすぐる感触で目を覚ました。降り注ぐような星々の煌めきは』」


「俺が君と出会って最初に発した言葉は」


「はい。『うわ、悪ぃ。人がいると思わなかったってか小さくて見えなかったわ』です」


 花燭の間にどよめきが起こる。

 記憶力。これがバスリー家に与えられた祝福である。ラーニャの父も兄も、王の側近として働いている。職務の内容としては、いまカミルが行ったように数多の本や資料の中から、その時に必要な文献を諳んじて献上するというものであった。


 その特殊な能力ゆえに目が遺伝的に悪い……と言われているが。


「はー。そばに置いているうちは身を守る盾になるかもしれませんが、兄たちに奪われた瞬間に俺の人生が終わるのでは」


「あら、彼女のそばでおかしなことをしなければいいだけよ。女の子遊びはほどほどになさいね」


「まじか……いやでも……」


 カミルの言葉はリーンが席を立ったことで掻き消された。話はこれで終わり、というわけだ。


「ラーニャ、そういうわけだからカミルをお願いね。でも、貴女は貴女の信念に従ってもらって構わないわ。それでカミルが失脚するなら、それまでの男ということよ」


 ラーニャは何も言わず頭を下げた。

 恐らくもしラーニャが他の陣営に属しているのであれば、そちらに利する働きをしても良いという意味だろう。

 カミルは「うげぇ」と心底イヤそうな声をあげた。これから敵か味方かもわからぬ者を側に置かねばならないのだから、ボヤきたくもなると言うものだ。


 リーンおよび従者たちが部屋を出て行くと、花燭の間に重苦しい沈黙が落ちた。


「侍女……か。ムフレス、必要な手配を頼む。北宮ほくきゅうに彼女の部屋も」


「本当によろしいのですか」


 ムフレスと呼ばれたのは先ほどからカミルに付き従っていた側近である。ラーニャの記憶によれば、カミルはいつもムフレスしか連れ歩かない。才知に長け、かつ腕利きの魔導士であると聞いている。


「良くはないけどさぁ、仕方ないでしょ。……ねぇバスリー嬢」


「はい」


「残念だけど、俺たちは君を信頼してないんだよね。怪しい動きがあれば、目の見えない君は事故に遭うことになる。それだけ覚えといて」


「承知しました」


 ラーニャがここへ来たのは父の指示によるものだ。父は国王の指示によってのみ動く。そして父がラーニャへ伝えた言葉はただ一つ、「主をお守りせよ」である。

 今回のような場合、主がリーンであるかカミルであるか判断が難しいが……当面はカミルのために働けば間違いないだろう。


 首肯するラーニャをカミルが手を差し伸べて立たせた。


「それじゃ、一応は仲間ってわけだ。ちょっとデートでもする? それとも、お互いにもっと深く知るほうがいいかな」


「では北宮へお連れいただけますと幸いでございます、殿下」


「えっ、ええっ?」


 ベッドを誘ったのはカミルであるはずなのに、そこで驚くのはいかがなものかとラーニャは内心で眉を寄せた。


「北宮までの道行を覚えたいので」


 何もわかっていなさそうな表情で笑いかけてみせれば、カミルはホッとしたように息を吐く。

 その後、納得しないムフレスを手続きのために下がらせて、ラーニャとカミルは北宮へと向かうことになった。


 カミルのエスコートで回廊を歩きながら、ラーニャは再びレースの奥の瞳を薄く開けていた。

 彼女は、いや、バスリー家は目が見えぬわけではない。彼らの記憶力は視界に対してこそ正しく力をふるうのである。一度見たものを絵画のように記憶する能力だ。


 だがその真実は歴代の王によって厳しく秘匿され、対外的には生ける図書館として王に仕えている。


「あーその、何か説明したほうがいい? 曲がる目印とか」


「いいえ、歩数ですとか言葉で言い表しづらい経験によるもので覚えていますから大丈夫です。お心遣いに感謝申し上げます」


 道を記憶してしまえば、次は本当に目を閉じていても歩き回ることができる。などと言うことはできぬため、ラーニャは曖昧な言い回しで笑って誤魔化した。

 ふぅんとわかったようなわかっていないような声をあげて、カミルが再び歩き出す。しかし、その速度は少し遅くなったようだ。


「知らない場所での生活は大変だろうし、身の回りの手伝いに気の知れた者を連れて来てもいいけど」


「一通りのことは自分でできますが、必要があれば呼ばせていただきます」


 しばらく無言のまま歩いて北宮へ到着すると、すでにどこからか連絡が行っていたのか、ラーニャの部屋が用意されていた。カミルはラーニャを部屋まで送り、改めて彼女に向き直る。


「信頼の有無はさておき、君は俺の侍女になった。しっかりと顔を見ておきたいんだけど、それとれる?」


 ラーニャは頷いて目元を覆う黒のレースに手を掛けた。



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