ラーニャ・バスリーは忘却を知らない

伊賀海栗

第1話 伯爵令嬢、王子の侍女になる


 ラーニャ・ヌール・バスリーは真っ暗闇の中をずんずんと歩いて行く。周囲には誰もおらず、離れたところから届く鳥の囀りが外の陽気をラーニャに知らせた。羽織ったショールさえ邪魔に思うくらいには温かく、きっと今日は良い天気なのだろう。


 ここは王城であり、この先を右、そしてすぐ左に曲がって真っ直ぐ行けば王族の居住区域に入る。誰に咎められることもなくここまで来られたことに安堵したとき、微かな金属の擦過音とともに右手側の空気に動きがあった。扉が開いたのだと気付いて立ち止まったものの、次の瞬間には何か硬いものがラーニャの額をしたたかに打ち付ける。


「痛っ……」


「うわ、悪ぃ! 人がいると思わなかったってか小さくて見えなかったわ。ごめんね痛かったね大丈夫だった? ……あれ、バスリー家の人だったか、ほんとごめん」


 ラーニャは額を押さえながら顔を上げる。彼女の顔は目元だけを薄い黒のレースが隠していた。弱視のバスリー。それがバスリー家に代々伝わる呪いであり、祝福である。

 目の前にいる男のさらに背後から、また別の人物の気配がした。


「カミル様、どうなさいましたか……」


「可愛い子ちゃんがいたんだけど、迷子かもしれないからさ、目的地まで連れてってあげてよ。俺が連れてってもいいんだけど」


 衣擦れの音と「えぇ……」と困惑した声に、ラーニャは自身が観察されていることを自覚した。


 カミルと言えば第四王子カミル・ハーレス・アルドウサルに違いない。女好きだとの噂は聞いていたが、なるほど確かに口調は軽い。


「ツハール王国の空に輝く藍の星よ。小鳥が歌い踊るすばらしい午後でございます」


 藍の星とは赤から始まり紫で終わるという虹の順番を、王位継承順位になぞらえたものだ。カミルは第四王子であっても、継承権を持つ王子七人の中では第六位であった。


 ラーニャが右足を後ろへ引いて腰を落とし淑女の礼カーテシーをとると、頭上から軽やかな声が降り注ぐ。


「あはは、丁寧にありがとう。で、バスリー嬢はどこへ行くつもりだったのかな。よかったら彼に案内させるけど」


 彼とはカミルの背後にいるらしい側近のことであろう。

 ラーニャは不自然にならない程度に息を吸って腹に溜め、甘く淑やかな声をイメージして声を発した。彼女はこの作業が苦痛で極力人付き合いを避けて来たのだが、王子が相手では仕方ない。


「あの……実は父から花燭かしょくの間へ伺うようにと申し付かっておりまして」


 はにかむラーニャの耳に、側近の訝しむような声とカミルの驚嘆の声とが同時に届いた。続いてラーニャの肩に誰かの腕が回される。立ち位置からそれがカミルのものであることは間違いないのだが。


「あれ、君も母上に用事が? それなら一緒に行こうか、俺も今から行くところなんだ」


 側近と思しき男の声で「はしたないです」と聞こえてくるなり、カミルはそれもそうだなと笑ってラーニャから離れた。その直後、ラーニャの手を恭しく取る手があった。カミルという男は噂ほど軽率ではないかもしれないと、ラーニャは認識を改める。

 そうして、三人は花燭の間へと向かうこととなった。


 王は妻をふたり持つことができるとされる。政治的思惑から娶られる正妃と、王が愛し王自ら選ぶ側妃と。豪華絢爛な花燭の間は寵愛を一身に受ける側妃だけが使うことを許されていた。


 室内へ入って数歩進んだところでカミルの手が離れる。

 揺れる空気と衣擦れの音、そして香り。それらがラーニャに室内の様子を伝えてくれる。側妃リーンはすでにここにいると。


 先ほどよりも深い恭順の意を込めて淑女の礼をとる。左側でもカミルが動く気配があった。


「カミル、仰せによりただいままかり越しました」


「初めてお目にかかります、バスリー伯爵家より長女ラーニャでございます。王国を包む大いなる海、リーン妃殿下。暖かな日差しの降り注ぐ今日という日にご招待いただきましたこと、誠に光栄に存じます」


「ええ、ありがとう。ふたりとも面を上げて」


 ラーニャの近くで空気が動き、彼女の手を取る者が現れた。ひんやりとした柔らかな感触は恐らく侍女のものだ。そのまま手を引かれ、腰を下ろすよう囁かれた。


 椅子へ座る際に、ラーニャは黒いレースの奥で薄く目を開けて室内をさっと見渡した。先ほど肌で感じた通り、リーンに付き従う侍女がふたり、護衛がふたり、茶の用意など雑用をこなすメイドがふたり。テーブルの上には茶と菓子とが並んでいる。

 それらを確認したラーニャは再び瞼を閉じた。


「母上にこちらを」


「あら、わたくしが欲しがっていた本ね。ありがとう、カミル」


 なるほど、それが私の額に当たったかとラーニャは心中で納得した。王族が欲しがるようなものなら、相応の装丁がほどこされているはず、痛いわけである。


 テーブルを本が滑ったと思われる音のあとで、リーンが小さく息を吐く。


「でもね、最近は本を読むのも疲れるようになってしまったの。だからお話し相手がほしいと陛下にお願いして、ラーニャを呼んでいただいたのよ」


「なるほど、バスリー家の者なら話し相手にぴったりでしょう」


「ただ問題があってね」


 言葉を切ってリーンは茶を口に含む。茶器が微かに擦れる音と、「ほぅ」という溜め息とが同時にラーニャの耳に届いた。


「わたくし、これ以上従者を増やしたらいけないと陛下に釘を刺されているの。だからね、カミル。ラーニャをあなたの侍女として使ってちょうだい」


「は」

「え」


 ラーニャとカミルとが同時に声を発した。リーンは手を叩いて少女のように笑う。


「あら、息もぴったりね」




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