呪の魄
右足を掴む何かの表面がザリザリとガサつき、その力はさらに強くなる。不意に嫌な気配が強くなる。
「なんだぁ?」
アディソン嬢の声がさらに低くなり、大きな曲刀の鞘がガチャリと床に落ちたのが目の端に見えた。
おかしい。先ほど床面は膝上ほどの高さにあったのに、今見渡すと目線とほぼ同じ高さとなっている。それほど穴は掘ってはいない、はずだ。何だ。何が起こっている。
焦って床の縁に手をかけようとした時、右足首を握る何かにさらに力がこもり、ずるりと床が遠くなり、スコップなど放り出してなんとか伸ばし切った両手の指で僅かに縁を掴む。
このふわふわと心もとない闇の中に、この
そう認識した途端、全身が総毛だつ。
足下から、穴の奥底からぬるりと生暖かい風が吹き上がる。その見下ろした奥はチカチカと赤い。
この闇は。
この闇は一体何だ。
この闇の底はどこに繋がっている。
この死者の国にでも続くような闇は。
そして先ほどの井戸端会議の話を思い出してしまう。
そう思った途端、足元が抜けた。宙ぶらりんになった。
指先だけが
ああ、駄目だ。
もう駄目だ。
俺は引き摺り込まれる。この穴の奥底に。黄泉の国に。
指は既にガタガタと震え、もう力なぞ入らねぇ。冷たく痺れて感覚なんてとうの昔になく、縁を掴んでいるのかどうかすら判断がつかぬ。
だから、もう、駄目だ。
そう思った瞬間、鼻先を白い光が走った。
昨日まで俺とそれを隔てていた月光のような、いや、それよりさらに鋭い光。
思わずペタリと尻餅をついた。
ペタリ? 尻餅?
気づくと俺は床板の縁に座り込んでいた。さっきまでのは何だ?
そう思って再び穴を見るとまた、吸い込まれるような気分になり頭がぐらりと揺れるところをまた光が走る。
目の前数ミリを掠めたアディソン嬢の曲刀。
もし1センチずれていたら。その直接的な恐怖にヒュッと妙な呼気が出て、全身を滝のような汗が流れる。
「てめぇ! 何やってやがる! 上手くいかねえと叩っ殺すぞ!」
見上げたアディソン嬢は
その生々しい姿に急にホッと息をつく。殺されるということはまだ生きているということだ。鼻先がヒリヒリ痛い。ひょっとしたらその剣先は僅かに鼻先に触れたのかもしれない。痛いということは俺はまだ生きている。ここはまだ、あの世ではない。
そう思うと、急に目の前に広がる穴と俺の座る現世の間に隔たりができたような気がした。
そう思うと、バサバサと懐からたくさんの紙が舞い散り、闇の中でも妙に白く光る札が俺の周りや穴の中に落下していった。
そしてそのうちの一枚が俺の左膝に触れ、もう一枚が右足首に触れた。
その紙がふれたところに何か違和感がある。そう思って恐る恐る指先で確かめると何かが淡く、けれども確かに絡みついていることを感じた。
何かがある。と思って触れるとその何かは存在感を増した。足元を見下ろすと穴と思われた部分の表面、おそらく地面がある高さに何枚かの札が中途半端に浮いていて、そこが穴の奥と手前を分けている。この土御門の月光のように光る結界は俺とあの穴の底、死者の国とを確かに分けて隔てているのだろう。
そして床板にへたり込んだ俺の足首はこの穴の上にある。土御門の札の上から掴んだその瘡蓋だらけの手は、死者の国と隔てられたその体は既に恐ろしくはなく、その細く痩せた指はかえって、あぁ、なんだか可哀想だな、と思えた。
そうすると奇妙なことに俺は自分が、俺自身が可哀想に思えてきた。そうするとこれは土御門が言っていた魄が籠った遺骸なのだろう。
傷つけないようになるべくそっとその手を掴む。これ以上、少しも傷まないように。苦しまないように。そう思うと、心がほぅと温かくなった。
レグゲート商会が幸運に満ちていたのなら、シュは確かに幸せだったのだな。そう思えた。
ゆっくりと両手を持って引き上げると、その小さな骸はずるりと持ち上げられ、それをそのまま抱き上げてアディソン嬢に渡す。
もともと小さかったのか、死んでさらに干からびたのかはわからないが、その骸は小柄なアディソン嬢が片手で抱き抱えられるほどの大きさだった。
アディソン嬢がシュをガラスケースに入れてガラガラと部屋の外に出ると同時に土御門がするりと入り込む。
「入ってもいいのか?」
「ええ。厄介なのはあの鏡の体でしたから。近くで祓うと私も祓われてしまいます。遠隔で祓えば魂も魄もなく全て一緒くたに払うしかありません。しかし山菱君は本当に素晴らしいですね。多少は残るかと思いましたが見事に全ての魄が揃っていました。さてここからが私たちの正念場です」
「ああ」
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