積ん読書店
西条彩子
積ん読書店
その本屋の違和感には、入ってすぐに気がづいた。陳列の様相は本屋のそれなのに、種別に並ぶはずの一切がバラバラなのだ。
単行本、文庫本、四六判。新書も漫画もお構いなし。出版社別でも作家名順でもない。そのうえどれも、どこか少しくたびれている。埃とカビが混ざったような独特のにおいもした。
古本屋だったか。雑誌が外に並んでいたから、子どものころよく見かけた普通の本屋だと思ったのだが。
「積んでますか?」
突然背後から聞こえた女の声に、僕は「わっ」とすくみ上がった。恐る恐る振り返ると、ショートカットの女子大生ふうの子が、口角をにーっと持ち上げている。
白いワンピースに紺色のエプロン。その胸元に、『田中』と名前の入った金のネームプレートが光っていた。
店員らしき彼女、田中さんは、防波堤にいる釣り人をのぞき込むように僕を見て、再び尋ねた。
「お兄さんも本、積んでますか?」
返事に困った。本屋なんて店員が話しかけてこないのが常だし、あったとして「何かお探しですか」程度だ。でもって本を積んでるかと訊かれれば、積んでいる。
なんだここは。
僕は大股で三歩下がって、店の外に出た。
営業先のはじめて降り立った駅、徒歩一分。ドーナツ屋と銀行ATMのあいだ。賑わう商店街にあるにもかかわらず、行き交う人はみな素通りしていく。古い店構えだし、駅ビルに大手書店が入っているせいもあるだろう。このご時世でよく潰れないものだと感心していたのだった。
西日に照らされる看板を見あげると、『積ん読書店』とあった。僕は眉を寄せながら中に戻り、柔らかにほほえむ田中さんに歩み寄った。
「あの、ここって」
「はい。店名のとおり、積ん読書店です」
「それはつまり……」
「誰かが積んでる積ん読本を集めた本屋、ってことですね」
なんだそりゃ、と素で言いかけて口をつぐんだそのとき、田中さんの肩越しによく見知ったタイトルを見つけた。
「『サピエンス全史』……!」
田中さんが「おっと」と横に逸れ、僕は背表紙を指でなぞった。
話題になったときに買った本だ。うちの本棚の片隅で上下巻、厚い存在感を放っている。
「ユヴァル・ノア・ハラリですねえ。そちら積ん読書としてとても人気がありますよ」
「積ん読書としてとても人気」
「はい。学校の図書館にもありましたが、読み切れた人はいたかどうか」
田中さんはニコニコと語る。
「あ、その横のジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』も人気の一冊ですね」
それもたしか挑戦しかけて挫折した。背表紙を傾けると、画家のミレーが描いた表紙が見えた。
「田中さん。ここでいう人気はすなわち、買いはしたけど読んでいない。より多くの人に積まれている、と」
「そういうことです」
僕は棚を見回す。
昔の岩波から出ているニーチェやショーペンハウエル、スピノザの哲学書は、持っているのがステータスっぽい気がして買ったことがある。ドストエフスキーやトルストイのロシア文学もそうだ。SFの王道アシモフもギブスンも、表紙で買ったはいいが読むテンションになれずに積んだ。日本の古い文学、泉鏡花や中島敦も途中で投げてしまった。『黒死館殺人事件』など一文であきらめた。
「お、『SLAM DUNK』もある。僕も愛蔵版のやつ買ったまま積んでるや」
「はあ?」
田中さんが目と口を丸くした。
「え待ってください。どんな青春送ったらこの名作を通らない人生になるんですか」
「人気を避けて『I’ll』にいった青春があってもいいじゃないか」
「読んでください。帰ったら即! 読んでください。最初のころの絵はちょっととっつきにくいかもしれませんけど。そして映画も観てむせび泣いてください」
「スラダンへの愛が深いなあ……」
すごまれてたじろぎ逸らした視線の先、お気に入りのタイトルを見つけた僕は「げっ」と声を上げる。
「貴志祐介の『新世界より』じゃん!」
「あ、それ私も積んでます。長いから臆しちゃって」
それこそなんてことだ。ちょうど上中下巻並んだ文庫を僕は掴み、田中さんに突き出した。
「帰ったらすぐに読むんだ。あーーー、いや、やっぱ休みの前の日がいい。徹夜することになるし」
「したんですか」
「僕はした。会社遅刻した」
「でも積ん読って、読んだら積ん読じゃなくなっちゃうんですよ!」
田中さんが両手を胸の前で握って言った。僕は一瞬呆気にとられた。
「ごめん、ちょっとなに言ってるかわからない」
「だからぁ、積ん読は積んでおくことに価値があるっていうか。私普段は漫画とかライト文芸ばっかなんですけど、頭のよさそうな本も結構あるじゃないですか。でもってそういうのって、つい買っちゃうじゃないですか。とはいえ食指が動くかっていうと、せっかくブランド物の服買ったのにもったいなくて着れないみたいな、そのぅ……」
「……箪笥の肥やし的な?」
「それです! 積ん読は我々の本棚を育てるんですよ! 釣った魚に餌はやらないんです!」
わからなくもない力説をされ、ためらいがちにうなずく。
実際、あの本が家にあるけれど、今読みたいと思う本は……と手を伸ばした本はたくさんあった。
難解そうな本を読んでいる自分を想像する。
名著を嗜む自分を、奇書に手を出す好奇心のある自分を想像して本を買い、――積む。それらがいつでもそばにある安心感と、ほんの少しの罪悪感のもと、僕は本に手を伸ばす。それはまるで、親へ反抗した青いころの自分を思わせた。
ここに収められた本たちも、思いを同じくする人々の読書を推し進める力になっているのかもしれない。
誰かの愛読書は誰かの積ん読書なのだ。
「そうだったかも。積まれた本がこんなにあるってことはそれだけ本が買われたことだし、そのぶん読まれている本もあるってことだもんな」
「そうですよ。ここは孤独な読書家たちの心の拠り所なんです。積ん読がなくなったら、読まれる本もまたなくなると言っても過言ではないかも」
田中さんがにっこりと笑う。
「だからお兄さんも、自信を持って積ん読してくださいね」
店内をひととおり眺めたが、結局買わずにそこを辞した。田中さんは「どうせ積んじゃいそうですもんねえ」とからからと声を転がして僕を見送ってくれた。
少し歩いて振り返ると、本屋があったそこにはシャッターが降りていた。看板さえもなかった。
ドーナツ屋に学生が入り、銀行ATMからおばさんが出てくる。そのあいだを気にする人は、やっぱり誰もいない。
戻って確かめようかと頭をよぎったが、やめた。積ん読書もまた一期一会。機会があれば読んでいた。そういうものなのだと思うことにした。
――それからしばらく経った休日のある日、僕はふらりと『積ん読書店』のある駅で降りた。商店街のほうへ行くと、シャッターが半分開いているのが見えた。僕は駆けだしていた。
中を覗いたら、紺色のエプロンが平積みされた雑誌の隅に置かれてた。胸元に光る金のネームプレートには『沢部』とある。僕の名だ。
きっとここはそうやって、ひっそりと営んできたのだろう。察した僕は、白いシャツとデニムの上からエプロンをかぶり、シャッターを開けた。誰かの積ん読たちに光がさす。
やがて一人の客が入ってきた。安楽椅子で読書を嗜みそうな老紳士だ。物珍しそうにきょろきょろしている。
僕は静かに近づき、後ろから声をかけた。
「積んでますか?」
僕の口角はきっと上がっている。
積ん読書店 西条彩子 @saicosaijo
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