えほんの旅路

ちえ。

第1話

 静まり返った店の中。たくさんの人が訪れる、駅の商業ビルでワンフロアを占める大きな本屋さんも、閉店後に作業を終えた店員さんが出て行ってからは、非常灯だけがチラチラと差し込んで、静寂に包まれていた。

 人は知らないだろう。実は、そんな時間なんてほんのすこしだけで。

 真っ暗な一室で、ぼくらの時間は動きだす。


「今日もいそがしかったわねー!」


 大きな声で雑誌のおねえさんが声をあげた。


「どうせ立ち読みでしょ?やだやだ、買ってもくれないのに手垢や皺なんかつけられて」


「売れなかったらすぐに送り返されるのよ?私たち雑誌に生まれなくてよかった」


 ビニールに包まれた上等な専門書たちが、ひそひそとおねえさんをばかにした。


「売れずにずっと棚の留守番してるオバちゃんたちが、デカい顔しちゃってさ。俺は売れっ子作家の書いた本だから、もうすぐこことはオサラバだ。隣の同僚に先を奪われちゃったけど、次は俺なんだから」


 お勧めの新書コーナーに山積みにされたお兄さんが、やれやれと呆れたように口をはさむ。


「物珍しさで買っていかれた本なんて、扱いが知れとるわ。一番大切にされるのは、我々のような人類のともにして娯楽よ」


 小説のおじさんは、大きく構えてフンと笑った。


「なによなによなによ、偉っそうに!一生運命の出会いでも待ってなさいよ。永遠に棚当番してるくらいなら、立ち読みでも面白いって思ってもらえるほうがいいに決まってるじゃない」


 雑誌のおねえさんはちょっぴり歪んだ胸を反らした。

 それから、哀れっぽい声を出して、ぼくたちを横目で見た。


「でもねぇ、一番かわいそうなのは、やっぱり絵本よ。あの体験コーナー、かわいそうで見てらんないわ。文字も読めない子どもたちに汚されてヨダレをつけられて、意味もわからずに投げたり叩いたり、破けて回収される本もあるじゃない。私、絵本にだけは生まれなくてよかったわ」


 その言葉に、ぼくたちは何も言えなかった。

 ぼくはまだ、きれいな姿で棚の中にいるけれど。子供たちが自由に手に取れる体験コーナーに置かれた仲間の絵本たちは、おねえさんが言うようにひどい状態だった。

 日中無邪気な子供たちにふりまわされて、時折聞こえてくる彼らの悲鳴に、ぼくたちは棚の中で震えていた。あれがぼくたちの未来なんだと思うと、恐ろしかった。


「そんなことないよ。ねぇ、じいさま」


 角が潰れ、最初のページが少し破れた先輩の絵本が語りかけたのは、入り口わきの文具コーナーに置いてある再生紙のじいさまだ。


「そうじゃなぁ、わしには色々な記憶が混ざっているから、正確なことは忘れてしもうたが。いい本っていうのは綺麗な本でも高級な本でも人気がある本でもないのぅ」


 のんきなじいさまの言葉を、周りの本たちは笑った。


「あのじいさん、本でもないくせに。みすぼらしい紙質でおこぼれで置いて貰ってるっていうのに、知った風にさ」


「トイレットペーパーにならなかっただけ命拾いしたんじゃない?再生紙なんてわたしたちとは住む世界が違うのよ」


「我々のように、崇高な生まれではないのだからしかたあるまいよ」


 じいさまは何も答えずに、ただ先輩絵本といっしょにのんびりと笑っていた。

 今日も夜の本屋さんは、だれかれの自分がどんなに素晴らしいかと自慢する声で、朝日がさす頃までにぎわった。



 ある日突然、ぼくの運命が決まった。

 小さな男の子がぼくを大事そうに抱えて、母親の元に走っていく。


「お母さん、これ!ぼくがひまちゃんによんであげる!」


「ありがとうこうちゃん。お兄ちゃんねぇ。それじゃ、ひまちゃんの一歳の誕生日プレゼントはこの本にしよっか」


「うん」


 うれしそうな男の子の胸に大事に抱え込まれて、ぼくは生まれてからほとんどの時間を過ごした本屋さんを出た。

 この男の子なら、ぼくを大事にしてくれるかもしれない。先輩絵本みたいに、ひどい状態にならなくて済むかもしれない。ぼくはとても緊張していたけれど、そう思ってホッとしてもいたんだ。

 だけど、それが思い違いだって、すぐに気が付くことになった。


「あーー、あっ、きゃっ」


『こうちゃん』と呼ばれていた男の子がにこにことぼくを赤ちゃんの前につれてきてページを開くと、ヨダレまみれの小さな手がわしっとぼくの端っこをつかまえた。


「ひまちゃん、プレゼントだよ。この絵本ね、まえにみておもしろかったの。ぼくでも読んであげられるよ。ひまちゃんもすぐに読めるようになるからね」


『ひまちゃん』と呼ばれてる赤ちゃんは、こうちゃんの妹らしい。本が何かなんてわかっていないようで、握ったぼくの端っこを口に入れようとしていた。

 こうちゃんは慌ててぼくを引っ張ってひまちゃんの口から離して、最初のページを開いてみせた。


「えっとね、ひまちゃん。ぼくがよんであげるよ」


「あーあーー」


「あかくて、まあるいりんごが、ころころ、ぽんっ」


 ひまちゃんの小さな手が、ぽん、ぽんとぼくをたたく。まんまるな目がじっとぼくを見つめてる。

 こうちゃんはうれしそうに、赤はこの色、りんごはこれだよ、おいしいよ、とひまちゃんに説明してる。

 ぼくは初めて、ぼくの中身を褒められてうれしくなった。



 ふたりはとても、楽しそうにぼくと遊んだ。

 時にはひまちゃんがぼくを放り投げたり、踏んづけたりした。汚れた手で触ったり、こぼれたジュースがしみをつくったりも。

 そのたびに、こうちゃんとおかあさんは、ぼくをきれいに拭いてくれたし、居心地の良い棚に戻してくれた。

 ぼくのぴかぴかでぶあつかったページに消えない汚れが染みついて、何度も折り曲げられた場所はガサガサに色が剥げてきた。

 だけどもう、ぼくは汚れることもボロボロになることも怖くなかった。


「にぃに、りんご、あか」


「そうだよ、ひまちゃん」


 ひまちゃんは言葉を覚えて得意そうに僕を指さした。こうちゃんはお兄ちゃんらしく、すましてひまちゃんの頭を撫でた。


「あかくて、まあるい、りんごが、ころころ……」


 ひまちゃんは文字を読めるようになった。

 おかあさん、おとうさん、こうちゃん、おじいちゃんやおばあちゃん。皆の前で胸を張って自慢げにぼくを読み上げる。

 はじめてあったときの、こうちゃんみたいだ。


 ずいぶん長い間、ふたりはぼくと遊んでくれた。

 ぼくは、絵本に生まれてよかったなぁ、と思うようになっていた。



 それから、しばらく経って。

 ぼくは居心地の良かった本棚にずっといるようになった。

 そうして、みんなが寝静まったあとで、ここにいる本たちとの会話を楽しむようになったんだ。


 擦り切れそうな古い文庫本のおじさんが、何度も何度も繰り返し読まれたことを誇る。

 その隣で新しくきたばかりの文庫本のお兄さんは、自分もそうなりたいと意気込んでいた。

 ぼくとおなじ棚の絵本たちは、こうちゃんとひまちゃんと一緒に遊んだ頃を懐かしみ、思い出話に花を咲かせる。

 袋に入ったまま大事にしまわれている特別版のおねえさんが、大切にされていることを自慢していた。

 雑誌のお姉さんがどれだけ自分が役に立ったのかをうれしそうに語り合っている。


 本屋さんに並んでいた時みたいに、自分がいかに綺麗で高級で人気があるだなんていう本はいなかった。

 ぼくたちは、本屋さんに並んでいた時とは違って、自分がなんのために生まれたのかもう理解していたんだ。


 ひまちゃんが言葉を覚えて文字を読めるようになったこと。

 ぼくの成し遂げた、一番すごいことはそれだった。


 ぼくたちは、誰かのために生まれてきたのだから。誰かにとってどんな意味があるのかが一番の価値だった。

 他の本と比べられるものなんて何もない。競う必要なんてない。

 本屋さんにいたころは、まだそれを知らなくて。ぼろぼろになった先輩絵本たちを憐れんで恐れていた。

 思えば、先輩たちがどう思っているかなんて、聞いたことはなかったんだ。

 そして、再生紙のじいさまが何を言いたかったのかなんかも。


 たくさん読んでくれたから汚れて傷んでいった。ずっと一緒に過ごしたから、古くなって色褪せてしまった。よれよれのページは、ぼくらが必要にされた証だった。

 そして、いつか必要じゃなくなる日が来たって、ぼくたちが一緒にすごした時間はなくならない。ぼくはこうちゃんやひまちゃんの歴史の一つになった。


 こんなにうれしいことが、他にあるだろうか。

 ぼくはいつかくるお別れも、もう怖くはなかったんだ。



 そのお別れは、ある日突然思いも寄らない形でやってきた。

 ぼくは、きっと捨てられるんだと思っていた。運が良ければ再生されて、じいさまみたいになるのかなって。

 だけど、ほかの絵本たちと一緒にきれいに拭きあげられて、箱に詰め込まれて、辿り着いたのはたくさんの子どもがいる場所だった。

 他の場所からきた絵本たちも、びっくりしたようにきょろきょろと周囲をうかがっていた。

 ちょっと先についた絵本のおねえさんが、教えてくれた。

 ここは新しくできた子どものためのふれあい施設で、ぼくたちはここでもう一仕事するために集められたんだって。



 それから、たくさんの子どもたちのわくわくした顔を見て過ごした。

 ぼくはすっかり古びていて、お世辞にもきれいなところなんてなかった。

 一度大きく破れてしまったページが丁寧に透明のテープで貼り合わされている。それでもよろこんでくれる子どもがいるんだ。


「あー、これ、私が小さかった頃に好きだったやつだ!」


 懐かしい声が賑やかな部屋の中で響いた。

 エプロン姿の少女は、いつか見たまんまるな目でぼくを見て、きらきらした顔で笑った。

 ひまちゃんだった。

 おかあさんと同じくらいの背丈になったひまちゃんが、大事そうにぼくを抱いた。


「ねー先生、読んで」


「うん、じゃあひさびさにこの本を読もうかな」


 そういって、すっかりと大人びた声でひまちゃんは久しぶりにぼくを読み上げた。

 ああ、ぼくは。

 絵本に生まれてきて、ほんとうにしあわせだった。



 もしぼくがまた本屋さんの本たちと話すことがあったなら、ぼくはきっと、再生紙のじいさまと同じことを言うのだと思う。

 いい本っていうのは、見栄えでも人気でも肩書きでもないって。

 でもそれはきっと、本屋さんから旅立ってしかわからないものなのかもしれない。

 薄汚れてボロボロのぼくの旅路は、とてもしあわせだったよ。


 きみたちに会えたことが、きみたちに何かをしてあげられたことが、ぼくが生きてきた中で一番誇らしい大成功なんだ。

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えほんの旅路 ちえ。 @chiesabu

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