[春]死木春

死者になったら、死者に逢える。世界でいちばん愚かな言葉。

そんな戯言が真実であってほしいと、それでも貴方は思っているのだろう。


┃┃


どうしても手放せないものがある。例えばそれは、子供の頃のたからものとか、出せなかったラブレターとか。人が誰しも持つそれは、何も物だけではなく、想いもそうだ。私にとってのそれは、痛みと哀しさが散りばめられているのに、心から放して忘れ去ってしまうことが出来ない。どうしても。



兄が死んだという一言は、私の体全体に衝撃をもたらした。その言葉の意味することを、理解できなかった。まるで意味をなさないただの音のようにすら聞こえた。呆然としたまま案内された霊安室で両親が泣き崩れているのを見たとき、あぁ本当のことだったんだと思った。どうか、嘘であってほしかった。兄の顔は白かった。車に跳ね飛ばされたのに、不思議と体は綺麗だったらしい。温度と色がないのを除けば、眠っているだけのように見えた。「すず!」と兄の呼ぶ声が聞こえた気がした。すず。鈴。兄が呼んでくれる私の名前。

「今度、流れ星をみせてやるよ」

流星群が近々見られることをニュースで知り、いいなあと呟いた私に兄が言ってくれた言葉だった。いい穴場があるんだと。星が好きな友達に教えてもらったと、からから笑っていた。朗らかで陽気なその声が、頭の中で響いていた。嗚呼、そういう人だった。優しくて、明るくて、運動が得意で、勉強が少しだけ苦手。昔から、おとなしくて人見知りな私を引っ張っていって、友達の輪に放り込んでくれた。妹を、家族をいつも大切にしてくれた。人騒がせなところもあるけれど、道端で誰かが転んでいればすぐに駆け寄るようなひと。ためらいなく人に救いの手を差し出せる、稀有な善人だった。

兄の笑い声を思い出してしまったら、もうダメだった。視界がにじむ。なぜ、どうして。いってきますと朝、声を聞いたばかりなのに。確かにはっきりと思い出せるほどの輪郭を持っているのに。けれどいつか忘れてしまうの?あの陽気な笑い声も、すず、と呼ぶ声も。眦をくっとさげた、穏やかな笑みですら。兄が約束を破ったことは、ただの一度もない。だからこれはきっと夢だ。はやく醒めて。醒めて。目覚めたら、一番に兄に会いに行く。怖い夢をみたのだと言えば、兄はいつものように頭を撫でて慰めてくれるだろう。そうして安心したいのに、頭はガンガンと音がなって痛いのに。目の前の景色は一向に変わらなかった。

真っ白で四角いこの部屋が、まるで冷蔵庫のようだとぼんやりとする頭の片隅で思った。凍えてしまいそう。誰か、誰か温めて。あの冷たい兄の体を。


それが、中学2年生のときのことだった。

彼と私の、溶けることない冬の訪れだった。


||


チーン、と音を立てて仏壇の鐘が鳴る。静かに目を瞑り、手を合わせる。

12年間毎日欠かさず行っていることだが、何かを考えてすることはあまりなかった。ただふと、そうしていると兄との他愛のない日常を思い出す。声や顔はもう遠くぼやけているのに、時折記憶の底に沈んだような一場面が思い浮かぶ。これを思い出と言うのだろうか。薄れていく記憶。代わりに濾過したように浮かんでくるものは、容易く忘れることはなかった。永遠などどこにもない。そう思い知らされた12年間。なにひとつ忘れたくないと、頑是ない子供のように泣きわめいて、抱え込んでうずくまっていたあの頃がひどく懐かしく、鈍い痛みを覚えた。


兄の葬式の時、なにをしていたのかはあまり覚えていない。泣き叫んでいたのかもしれないし、ぼうっと突っ立っていただけかもしれない。

視界の片隅で、私以上に青白い顔をして立っている人を見つけた。兄よりもよほど死人のようだった。

私は、彼を知っていた。彼は兄の友人だった。星好きの、兄に穴場を教えた。_________そして、兄が庇った人だった。

後で聞いた。兄は、一緒に帰っていた友達を庇って暴走車に轢かれたのだと。どこまでも兄らしい死に方だった。

彼の姿を目にした途端、頭が沸騰するほどの怒りが湧いてきた。

(どうして兄が死ななくちゃいけないの。)

ああ違う、違う。彼のせいじゃない。分かってる、この怒りは彼へ向けたものじゃなくて、世界の理不尽さから生まれたものだ。どうしようもなかった。ちゃんと分かってる。でも。

彼が私のことに気づいて、ふらふらとこちらに歩み寄ってくる。私は気づかないふりをして逃げた。もしかしたら無視したと気づいたかもしれない。けれど、そのときは彼と話せるような状態じゃなかった。

会ってしまえば、言ってしまうと思った。どうして貴方じゃなかったのと。なんで貴方ではなくて、兄だったのと。とても酷いことを考えているという自覚はあった。だけど、兄の死の一因に、間違いなく彼の存在があるのだ。

去っていく途中で振り返ると、彼は項垂れていて、帰る場所を見失って迷った幼子のように見えた。



兄が死んでから、我が家は重く静まりかえっていた。家族の誰もが笑っていない。日々がただ淡々と過ぎていく。兄が死んだとき、葬式のとき、私はあんまり泣いたから、今ではもうめったに涙がでなくなっていた。心が空っぽだった。空っぽのまま、あぁ今日が終わったなとぼんやり思って生きていた。兄がいないのに、私も両親も当たり前のように生きていて、生活していく。何かの悪い冗談にすら思えるのに、それが世界の当たり前なのだ。

笑って私の頭を撫でてくれる人は、もういない。そのことを事実として受け止められるようになった。不思議だ。人間は、生きることができるよう、うまくできているらしい。耐えられないと思った絶望にすら馴れるほど。

ただ時々、今がいつなのか分からなくなるだけ。兄の声が聞こえる気がたまにするだけ。私は思うよりずっと普通に過ごしていた。

今日も朝、ピンポーンと音がして覗き窓から見ると、葬式の時の彼だった。兄が庇った、友人の。彼は頭を下げている。また来た、飽きないなと思いながらも、私はけして扉を開けなかった。返事もしない。暫くそうしていると、彼は諦めたように手に持った果物か何かの入った紙袋を取手に掛け、またペコリと頭を下げて去っていった。きっと夕方も来るだろう。彼はずっと、あの葬式の日からこの家に来て、こんなことを続けているのだ。家の誰もがでなくても、扉の前で頭を下げ待っている。まるでそうすることが当たり前のように。そして暫くして、彼は持ってきた果物や花を家の前に置いて帰っていく。朝と夕方、毎日毎日毎日。

償いのつもりなのだろうか。そんなことをしてもらったって、兄はもう帰ってこない。無意味なのだ、とてつもなく。彼だって分かっているだろうに、それでもこの家に来るのをやめない。学生のお小遣いじゃ、毎日手土産を用意するのも苦しいだろうに。

(もういいのになぁ)

兄が死んだのは彼のせいじゃないんだから、別にもういいのに。普通に過ごしてもらっても構わないのに。でもそう思いながら、私は彼にそんなことは言わなかった。扉も開けなかった。本当に”もういい”と思うなら、貴方のせいじゃないと言ってあげればいいのに。家に入れて、線香をあげさせてやればいいのに。私は彼がいつも来る時間に、必ず玄関で座っていた。何もしないのに、待ってるみたいに。あぁとても酷いことをしている。彼だって友人を失ったのに。それも最悪な場面で。彼はこれから、死にたくなるほど重い十字架を背負っていかなければならない。それなのに、私はいつも、扉を開けない。矛盾に満ちた思考と行動。彼と扉越しで相対するときだけ、私の心は忘れかけていた苦悩と葛藤をほんの少しだけ思い出していた。


でもそれも、もう少しで終わると思っていた。きっと段々と、彼の足も遠のいていくだろうと。だって彼は生きているのだ、兄とは違って。生きていれば、傷や痛みは忘れていく。良いにしろ悪いにしろ、それが人間の営みなのだ。私が徐々に兄との思い出も忘れていってしまっているように。




けれど予想に反して、彼はずっと来続けた。それこそ、本当にずっと。



||


ちりりん、とドアベルの音がして扉が開く。お邪魔します、と声がしたので。どうぞ、と返して兄の仏壇があるリビングの扉を開けた。どこか遠慮がちに、秋久さんは入ってきた。もう兄が死んで、彼がこの家へ通ってくるようになって10年以上経つのに。そう、10年以上、彼はずっとあの日から変わらず、この家へ兄を悼みに来ている。


最初に折れたのは両親だった。両親は兄の死や彼の存在に複雑な気持ちを抱いて、初めは彼にどう対応していいか分からず、無視していた。が、半年経っても変わらず通ってくる彼に流石に悪い気になって、とうとう家に招きいれたのだ。

両親は、最初にまず彼にこれまでの態度を謝っていた。そしてよければ線香をあげてほしい、と頼んでいた。

彼はいえ、と言って俯いた。遠慮がちに。

「・・・俺の、せいですから」

両親は、何も言わなかった。

そんなことはないと、言えなかった。

鈴はその様子を、細く開いたリビングの扉から眺めていた。

彼は線香を上げ、持ってきた花束を供えてから帰っていった。

また来ます、と言って。お茶を飲むこともせずに、そしてそんな彼を両親も引き止めはしなかった。私は彼がリビングから出てくる前に自分の部屋に引っ込んで、彼には結局会わなかった。

なにが変わっただろう、と思った。毎日、毎日。通って、頭を下げて。

漸く家に入れて、兄の仏壇に線香をあげられて、彼はなにか変わっただろうか。少なくとも鈴には、なんにも変わっていないように思えた。

どうしようもない。きっと両親は永遠に、君のせいじゃないとは言えないだろう。弔ったって、彼の心の重石が軽くなるわけでもない。私は未だに彼に会うことができない。薄々いつか来ると思っていたこの変化が、案外あっけないものに感じた。

だから、もう彼は明日からは来ないかもしれないな、と思った。

もうここに来たって、どうしようもないと分かっただろうから。


だというのに、彼は翌日も来た。その翌日も、翌々日も、1年後も。



一年も家に来れば、顔ぐらい合わせるようになる。さらに年月を重ねれば、会話をするようにも。最初の頃は事務的な内容だけだったが、今ではあまり気を使わずに話せるようになった。それでも私達の対人関係は酷くゆっくりで、いつ爆発してしまうかしれない危機感が漂っていた。両親と彼の方が、よっぽど上手く会話していた。

漸く彼の名前を覚えた頃、彼に質問したことがある。

いちばん聞きたかったこと。

「秋久さんは、どうしてここに来るんですか」

そう聞いたら、途端申し訳無そうに眉を下げるので、面倒くさくなって彼が何かを言う前に先手を打った。

「別に、迷惑とかそういう意味じゃありません。ただ不思議なだけです」

彼は毎日お邪魔しているという罪悪感からかなんなのか、お茶も断り、兄に線香をあげ終わったらすぐに家からでていく。ここにいる秋久さんは、とても居心地が悪そうだった。自分がいてはいけない場所みたいに。そんな顔をするくらいなら、来なければいいのに。

彼は暫く黙って、項垂れて、そうして。やがて顔をあげて言った。

「ごめん。分からない、分からないんだ。・・・どうして俺は、ここに来てしまうんだろう」

いつかの兄の葬式のときも思った。まるで迷子のようだと。

答えが見つからないのに、来ることだけはやめられないでいる。

帰り道を忘れてしまったんだろう。きっと。

「もし迷惑だというなら、俺はもう、ここには来ない。あなた達を煩わせることは、望んでない、から」

勝手に自己完結した彼に、密かに苛立ちながら鈴は言った。

「だから迷惑じゃないって言ってるでしょう。来たいなら、来れば良い。私も両親も止めません」

その言葉を聞いて、彼の両目が密かに見開いた。はっと空気が喉から漏れる音がした。泣き出す寸前の子供のように見えたのに、彼は涙一粒も零さなかった。泣く資格なんて無いとでも思っているのだろうか。馬鹿馬鹿しい。

_________彼はいつだって、自分を責めているのだった。

俺のせいで。何度も何度も聞いた。きっと百回、彼は私達に謝った。

鈴はその言葉を聞くのが嫌いだった。その時の彼の表情を見るのも。

そう思うのに、その言葉ひとつ止められない自分のことも、嫌いだった。

(どうしてだろう。どうしてかな。)

彼のせいではないと、知っているのに。



___どうして、貴方のせいじゃないと、たった一言が言えないのだろう。





||

両親が死んだのは、私が高校を卒業して暫く経った頃だった。

なんで誰も彼も突然いなくなってしまうのだろう。

両親も兄と同じく、交通事故だった。兄の死にひきずられるように、あの人達は私をおいて逝ってしまった。結局、私はひとりになった。兄のことで、大切なものが壊れてしまうのは、いつだって突然なのだと知っていた。だから驚愕は少なかった。ただ、どうしてと思った。

_________どうしてですか、神様。

そう聞きたかった。

私はこんなにも、失わなくてはならないほどのことを何かしましたか。

けれどあの二人は、もう緩やかに傷つくことはないのかもしれない。

兄が死んでから、老衰していくように静かになっていった両親を思った。

両親の葬式でぼんやりと立ち尽くしていると、秋久さんがやってきて背をそっと撫でた。以前よりも光が薄れた眼をしていた。あぁこれでまたこの人は、背負ってしまったのだと知った。見たくなかったので、顔を背けた。


秋久さんは、私はいいと言ったのに、事実的に私の後見人のようなものになった。私の大学の学費や、生活費などの経済的な面も含めて。

兄が死んでから5年。当時18歳だった彼は今は23歳。まだ新社会人の立場で、自分のことで精一杯だろうに。何を言っても引き下がらないから、私も、もう諦めてしまった。

両親が亡くなってから一年後、私は秋久さんに合鍵を渡した。彼はなんとか断ろうとしていたけれど、「いちいち家に迎え入れるのが面倒くさいです」と言い張って押し付けた。彼の金銭の援助のおかげでこの家を手放せずにすんだのだ。好きなときに好きなだけ兄の仏壇にお参りすればいい。



それから幾年かが過ぎた。秋久さんは今も、兄の仏壇に来ている。流石に朝夕とは来れず、どうしても毎日とはいかなかったけれど、彼は都合のつく限りほぼ毎日、この家に来ている。私は成人して、社会人になった。もう自分のことは自分で面倒を見られるというのに、彼は私の世話をしようとする。彼のなかでは私は、兄に置いていかれた中学生の女の子のままなのだ。彼が頻繁にこの家へ通うのも、もちろん兄が大きな理由だが、私が心配だというのもあるだろう。_________まるで、自分の人生は贖罪のためにあるのだというような行為だった。変わっていないのはあの人のほうだ、と鈴は思う。今でもふと、泣きそうな幼子のように見えるのだ。帰り方を忘れてしまった、泣けない子供。悲哀が満ちた瞳を見るたび、鈴はそう感じる。


____________でも、未だにもういいと言えない鈴も、ちっとも進めていないのかもしれなかった。



||




春闌くあたたかな空気が流れている午後2時、麗らかな日差しを受けている一本の桜木の側で、男は空を仰ぎ見ていた。白く薄い雲が浮かぶ、澄んだ青空。ひらり、ひらりと、白紅の花弁(はなびら)が舞い落ちる。こういうのを、いい春日和というのだろうな、と彼は思った。桜の木は、ある一軒家の庭に植えられているものだ。だが、彼の家の庭ではなかった。焦茶色のドアを眺めながら思う。どうして入れないのだろう、と。この家は彼の家ではなかったが、いつでも入れる権利を家主から貰っていた。事実、彼は今まで何度もこのドアをくぐった。もはや、自分の家と同様に馴れている建物だった。

それなのに、どうしてと彼は思う。どうして、この足は動かないのだろうと。門の前までは来れたのに。きっと、昨日見た光景のせいだろうと、彼は回顧した。



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昨日も、今日のようにいい天気だった。雲ひとつない青空に、あたたかな気温。休日の散歩を楽しんでいたら、ふと鈴がかつて通っていた高校の近くの道で足を止めた。懐かしんでというわけではない。なんの気なしに上を眺めたとき、あまりに澄んだ青空に似つかわしくない光景が目に入ったからだ。

「・・・え?」

校舎の屋上、フェンスを越えて僅かな幅の床に、女子高生は立っていた。

ぐらぐらと。今にも落ちそうに、頼りなく。彼女は手をどこにもつけず、その不安定な足元に立っていた。俯いていたため、表情は分からない。慌ててあたりを見渡してみたが、周囲の人間は誰も頭上の異様な光景に気づかないようだった。学校は土曜日のため、数人の教師と部活生などはいるのだろうが、それでも気づきにくいのだろう。

(・・・まさか)

ただの悪巫山戯であればいい。けれど、脳裏をよぎったある想像が消えない。長い前髪で目を隠し、俯きながらよろよろと佇んでいるその姿に、どうしてか鈴を連想してしまう。鈴はもう成人していて、子供ではないのだと分かっているのに。でも、陽正_____彼女の兄の葬式で泣きじゃくっていた姿を、彼女の両親の葬式で光の灯らない目でぼうっと立っていた様子を______どうしても、思い出してしまう。

ぐらり。女子高生は一歩を踏み出した。そこに地面はないのに。

「・・・・あ」

頭から落ちていく。体が宙をかく。ようやく周りは異変に気づいたらしく、悲鳴をあげている。でも、もう遅い。もう間に合わない。

僕は思わず手を伸ばした。ここからじゃ届きもしないのに。当たり前に、彼女の体は僕とは離れた所に落ちていく。

だんっ!という音と、ぬちゃっ!という音が混じり合って聞こえてきた。

悲鳴が大きくなる。ここからじゃ見えない_______あの女子高生の、死体は。それから、集る野次馬が見守る中、彼女は救急車で運ばれていった。青いブルーシートを頭から掛けられて。ああ、間に合わなかったのだと思った。

(_________あぁまた。俺の前で人が死んだ)

どうしてあの女子高生は死んでしまったんだろうか。遺体はぐちゃぐちゃで、見れたものじゃなかっただろう。きっと痛かっただろうに、どうして飛び降り自殺なんか。そのままぼうっとしていると、近くにいた同じ制服の女子高生の噂話が聞こえてきた。

「あの子ね、なんか、恋人が死んじゃったらしいよ。1ヶ月前」

「え、なにそれ。じゃあ後追いってこと?」

その会話が聞こえた途端、金縛りが解けたように体を震わせ、急いでそこから離れた。走る。走る。息が切れる。息苦しさで千々になる思考のなか、先程の彼女たちの会話がぐるぐると頭の中を回っていた。

恋人が、死んで、後追い。それは、________つまり?

はあ、はあと煩い呼吸音が聞こえる。生きている証。

落ち着け、と胸中で唱え、息を整える。澄んでいる空と舞う桜の花弁を見て、忘れようと頭を振る。あの光景は、覚えていては毒だ。

そう、理解しているのに。

薄紅色の花瓣(かべん)がひらり、ひらりと舞い落ちるのを見て、思ったことはひとつだった。

(_______あぁ。そういう方法も、あったのか)



気がつけば、鈴の家の前に来ていた。今日はまだ陽正の元へは訪れていないので、今この家へ入ってもおかしくはない。だが、あの飛び降り自殺を見てから逃げるようにこの家へと来たことが、なんだか妙に後ろめたかった。

いや、とかぶりを振って考え直す。何を後ろめたく思うことがあるのかと。

ドアノブに手を伸ばしかけたとき、鈴の声が後ろから聞こえてきた。

「今日はありがとうございました、真柴先輩」

「いや、大丈夫。困ったときはお互い様だよ」

「ふふ。後日何か、お礼でも」

「いいって。・・・あ、でも、今度一緒に食事でもどうかな?俺が奢るからさ」

「それじゃあ、お礼になりませんよ」

「俺にとっては充分だよ」

鈴と、それと_____彼女より少し上くらいの男性が会話をしながら歩いてきていた。

「・・・あ」

「・・・秋人さん?」

家の庭に入る一歩手前で、鈴は俺に気づいてほんの少し目を丸くする。

「・・・ええと、」

何を言うべきか分からない。いや、普通に挨拶をすればいいんだろうけど。

先刻まで鈴と話していた男性も気まずい空気を察したのか、「じゃあ、俺はこれで」と去ってしまった。

対する鈴はきょとんとしている。俺がこの家に来たことではなく、未だに家に入らないことにだ。なにせほぼ毎日通っているのだ。彼女が留守だったときもある。それなのに、どうして今日はドアの前で立ち往生しているのかと不思議なのだろう。鈴は言葉ひとつもうまく出せない俺を見て、緩く瞬きをしてから、

「とりあえず、中に入りませんか?」

と言った。


湯気立つカモミールが注がれたカップが目の前のテーブルに置かれる。彼女が淹れるハーブティーはおいしい。そっと口をつけて飲めば、体が芯から温まるようだった。いつのまにか、ずいぶん冷えていたらしい。

「それで、今日はどうしたんですか」

淡い微笑みさえ浮かべて問うてくる鈴を眺めながら、穏やかになったと思う。あの、飛び降り自殺をした女子高生から連想された、かつての脆く、鋭い凄惨さはもう見当たらない。どうして似ているなんて思ってしまったのだろう。触れるたびに、自分も、他人も、傷つけているような、空っぽで、今にも壊れそうなあの頃の彼女はいない。今は、もうどこにも。

軽く首を傾げている鈴の質問には答えず、代わりに別のことを聞いた。

「さっきの人は・・・?」

「ああ。職場の先輩です。いろいろ親切に教えてくれて。・・・今日も休日なのに、相談したら時間をあけてくださって」

鈴はなんてことのないように言う。実際なんでもないのだろう。

微かに笑みを刻みながら、良い人ですよね、なんて言う。

(・・・良い人。良い人か。)

俺の知っている男という生き物は、通常、下心がなければ自分の自由時間を割いてまで他人の世話を焼こうなどとはしない。あの男は鈴に気があるのだろう。もしくは、本当に底なしのお人好しか。

どちらにしても。

(・・・いいこと、なんだろうな)

ひとりきりだった彼女に、こうやって支えようとしてくれる人が現れたのは、祝福すべき事柄だ。鈴は新しい人間関係を構築して、ひとりで生きられるようになっていく。ひとりでは揺らいでしまう子供の彼女は、終わったのだ。もし、先程の男でなくても、誰か、別の人と心通わせて。家庭をもって、人生を歩んでいく、その未来が来たら。

(どうして)

ああどうして、どうして、どうしてだろう。それは素晴らしいことのはずなのに。嘆くべきことなんてあるはずもないのに。泣きじゃくる中学生の彼女が、泣けなくなった虚ろな十代の彼女が目に写る。煩いくらいに。止まない、止まない。此処に、この家に、別の誰かが来たら。

________鈴がそれを、望んだら。

(_______俺はもうここに、来れなくなる)

入れなくなる。鈴の人生には俺は必要なくなっていくから。無くしてしまう。失ってしまう。贖罪の方法を。俺の生きる意味を。

それ以上なにも言わない彼女が俺の顔を心配そうに覗きこんでくる。綺麗な瞳。ちゃんと虚ろではなくて、生き物の燿(ひかり)がそこに住んでいる。

(・・・分かっている。間違っているんだ。俺のくだらない感傷や身勝手な罪滅ぼしのために、彼女の人生を振り回すのは、間違っている。ちゃんと分かっているんだ)

でも、でも、でも、モノクロの色彩が浮かぶ。今にも壊れかけの彼女の姿が。どこもかしこも、白黒の葬式。

彼女の両親の骨箱を、陽正の隣においた。俺たちは何も話さなかった。しんとしていて、雨がざあざあと降っていて、世界にふたりだけのようだった。なんの言葉も交わさなかったけれど、俺たちはしばらく共にいた。俺が彼女の家に泊まったのは、あの時が最初で最後だっただろうと思う。ほんの4,5日くらいだったけれど。その間、まるで冬の森のように静かだったけれど、視線をやればすぐ見つけられた。そのぐらい近くにいた。

(酷いことだ。間違っていることだ)

あのままでいたかったなんて。

カモミールの仄かな匂いが鼻を擽る。安心する、草の匂い。_____それと、ほんの微かに、鈴の匂い。

(なあ、どうすればいいだろう?どうすればいいと思う、陽正)

もう決して答えてはくれないかつての親友に聞いた。ああ巫山戯た質問もあったものだ。俺のせいで彼は死んだのに。

当たり前のことで、陽正の声は聞こえてこない。幻聴でもいいのに。

代わりに浮かんだのは、あの青空の手前で宙に浮いた女子高生。

もう生きるための誰かがいなくなってしまった悲しい人間の結末。



俺はもう、とっくに、どこかおかしいのかもしれない。

だってあの時の景色が、神聖でなにか眩しいものに感じたんだ。




||



最近秋久さんの様子が変だと感じる。どうしてだか、いつもぼうっとしている。何よりおかしいのは、自分から決して鍵を開け、この家に入って来ようとしなくなったことだ。私がドアを開いて招き入れるまで、彼はドアの前で佇んでいる。前までは、一応インターホンは押していたけれど、すぐに自分から鍵を開けて入ってきていたのに。まるで、合鍵を渡す前か渡したばかりの頃に戻ったみたいだ。いや、そのときよりも酷いかもしれない。いつも必ず鳴らしていたはずのインターホンを鳴らさず、ただずっとそこで待っているのだ。私が気がつくまで。雨が降っていても、何時間でも。もしかしたら気づいてほしいわけではないのかもしれない。でもそれなら、どうしてずっとドアの前にいるのだろう。ずいぶんマシになったと思ったのに。今の彼は、兄が死んでしまったあの頃のように色を失っている。途方にくれて、迷っているよう。私はその様子を見ると、苛々としてしまう。ふたりとも、兄が死んだばかりの頃に戻ったみたい。理由を聞いても、「なんでもないよ」と苦笑しながら答えるだけ。なんでもないわけないだろう。ちゃんと笑えているとでも思っているのだろうか。酷くちぐはぐで、虚しい表情をしているくせに。ああ、苛々する。総じてそんなものだから、彼と私の間の空気は悪くなった。ギスギスさせているのはほとんど私だけど、秋久さんも申し訳無さそうにするばかりで何も言わないので、彼にも責任はあると思う。本当になんなのだ。急に、他人のように彼が遠くなった。あるいは、それが正しい距離感なのかもしれないけれど。



その日は、ひらひらと桜の花弁が舞う街道を、彼とふたりで歩いていた。

買い物に行くので荷物持ちをしてほしいと、無理を言って引き連れてきたのだ。彼は流されやすい。思えば、何か変化があったときはいつも私がこんな風に押し流していた気がする。彼は歩きながら、ぼんやりと空を眺めていた。白が混ざった、淡いパステルブルー。上に雲がかかっているかのような、曖昧な青空だった。今の彼の瞳のように、空漠で薄い、どこか綺麗な。

どこを見ているの。聞きかけて、鶯の鳴き声が高く響いた。ざあっと風が吹く。

一瞬だった。

ふいに上を向いていた彼の目が逸れ、ふらり、と車線に飛び出したのだ。

「っ!」

ちょうどトラックが走ってきていて。狙ったのかは分からない。まるで立ちくらみでもしたように道路に出ていったから。重さもなんにもないみたいに。

「秋久さん!」

無我夢中だった。必死で彼の手を掴んでこちら側へと引っ張る。彼は何の力も働かせていなかったようで、体はぐらりと私の方へ倒れてくる。

トラックが、彼の顔の僅か10センチ先を走っていった。

「はあ、はあ、」

全力で走った後のように、息が切れていた。体中冷や汗がでて、寒気が止まらない。いつのまにか手放していた荷物は地面に散らばり、私達はふたりとも歩道に座り込んでいた。

「・・・?え、・・・あ」

漸く気がついたように、秋久さんはハッとした。ぼんやりしていた目が、僅かに明晰になる。彼は呆然としていた。自分が今何をしたか、理解できないみたいに。そうしておろおろして、やっと言葉を絞り出す。いつものように、肩を縮こまらせて。

「・・・ごめん」

そんな言葉が聞きたいんじゃない。

いつだって、そう。彼は何かあるたびに私に謝る。でも違う、聞きたいのは謝罪じゃない。いつだって、私が求めているものとは的はずれな言葉を返すから怒らせているんだと、この人はいつになったら気づくのだろう。

「・・・」

言いたいことはたくさんあるけれど、ひとまず私は立った。このまま此処に座り込んでいても、邪魔なだけだ。

「荷物」

「え」

「荷物、拾ってください」

「あ、・・・うん」

彼もよろよろと立ち上がる。影法師のような、頼りなげな姿だった。この人はこんなにも薄く淡かっただろうか。

「・・・話は、家で聞きますから」

そう言って、彼の手を荷物を持った方とは逆の手で掴む。滑らかで、何の温度もしない。彼はびくっと少し震えたが、振りほどこうとはしなかった。そのまま、ふたりで私の家まで歩いていった。幼い子供が、共に手を繋いで一緒にかえるように。




||


自分が何をしたのか、よく覚えていなかった。気がついたら、彼女と一緒に道に倒れ込み、少し先をトラックが駆け抜けていった。ぼんやりと、飛び出しかけたんだろうなと思う。どうしてあんなことをしたのか、まったく身に覚えがないけれど。

ひらり、ひらりと薄い桜の花弁が振り落ちてきていた。この街道に植わっている桜は、鈴の家の桜と違って白色に見える。ひらり、ひらひら。桜の花瓣が鈴の頭の上にかかり、ふとあの女子高生が飛び降りた景色がフラッシュバックした。

”どうしてあんなことをしたのか分からない。”

_______本当に?

もしかしたら、もうずっと気づいていることなのかもしれなかった。認めてしまえば、何かが終わる確信があるから、見ぬふりをしているだけで。下を通る人達のことなんて気にもとめずにただ花を降らせている桜木を眺めて足を止めようとして、鈴に引っ張られた。彼女は待ってくれようとはしないみたいだった。力づくで、秋久を連れて帰ろうとしていた。繋いだ手は自分と違って、あたたかった。彼女のぬくもりを消したくなくて振りほどこうとしたのに、できなかった。きっと、意気地なしだからだろう。

_____この温度が、ずっと前から救ってくれていたことを、覚えてしまっていた。



 

||


買ってきたものをしまって、二人分のお茶を用意して、テーブルについた。

私は早速話を切り出した。

「それで?最近様子が変だった理由はなんですか?」

「なんでも・・・」

「いきなり飛び出しておいて、なんでも無いはないでしょう」

ここまできても誤魔化そうとする秋久さんを、牽制する。彼は口を閉じ、開きを繰り返して、何かを留まっているようだった。話し方を知らないみたいに。ややあって、秋久さんは口を開いた。

「・・・この、前。このあたりで、女子高生の飛び降り自殺があっただろう」

「聞きました。私の母校の生徒だったらしいですね」

それからまた、一瞬止まって。

「俺、飛び降りたのを見て・・・。それで、なんだか」

瞳が揺れていた。どうしたらいいのか分からないと、訴えているようだった。言葉が纏まらなくて、喉の奥に突っかかっている。それでも、吐き出そうとしているのは彼の心の一部だった。

ふっと、彼の視線が兄の仏壇の方へと向いた。夢から醒めたように、瞳の焦点が定まるのが見えた。ああ、駄目だ。

「・・・いや。なんでもない。ごめん、おかしなことを言ったね。今日も色々すまない。本当になんでもない。疲れていたんだ」

秋久さんは想定通りの言葉を吐いて、薄く苦く笑った。

(違う)

もう少しだったのに、彼は結局私に心を曝け出したりはしなかった。

(違う、違う、違う)

いつだってこの人は謝っていた。母に、父に、私に、兄に。告げる言葉はそれしかないみたいに。でも違った。鈴はずっと、彼の心からの言葉が欲しかった。どうして悲しいのか、どうして謝るのか、どうして寂しげに笑うのか。その理由が聞きたかった。どうして。どうして?何度聞いても、答えが返ってきたことはなかったけど。分かっていたし、知っていた。彼は兄のことしか見ていない。彼の心の一番大きい部分には、いつも兄がいる。それは鈴だって同じだけれど、せめて一度でいいから本音が聞きたかった。

申し訳無さそうに言われるごめんより、喉が渇いたと衒いもなく言ってくれるようになったことが嬉しかった。ささやかな甘えが、とても。10年以上積み上げて、やっと手に取れた距離だった。戸惑いなく家に入ってこれるようになり、兄に線香をあげたら、ふたりでお茶をする。たまに出かけて、お話する。何年も何年も会っているのに、ゆっくりで、歪で、どこかぎこちない。一緒に帰れはしないけど、それ以上はどこにも行けないけど、それでも鈴はかまわなかった。やさしくて、穏やかで、ぬるま湯に揺蕩んでいるようなその時間が好きだったから。

でもほら、また元通りだ。

彼の瞳はもう鈴を見ていない。平静を取り繕って、下手な笑顔を浮かべている。______その表情が歪だということに、気付ける人間はこの人の周りにあと何人いるだろう?

叫びたかったし、何かを言いたかった気がする。問いただしもしてみたかったが、結局鈴は何も言わなかった。


彼は静かに帰っていった。自分の家へ。



||


あれから5日ほど過ぎた。秋久さんはとうとう、この家に来なくなった。

来なくなった、と言うと正確には違う。彼は、この家に”入って”こなくなったのだ。毎日、気づかないうちにドアの手すりに仏花や線香、果物などが入った紙袋が下げてある。秋久さんは家には入らなくても、毎日来ているようだった。10年以上前、兄が死んだばかりのあの頃に、戻ったみたいだった。彼がこの家に通い始めた最初の頃。けれど今、拒んでいるのは私ではなくて秋久さんのほうだ。何かを恐れているかのように、彼は徹底して私を避けている。



ざあざあと、雨が降っていた。雨音が窓を叩く。春の激しい雨は、春夕立というらしい。

_________今日は、兄の命日だった。

テーブルに携帯を置いたまま見つめること1時間。もうすぐ正午になるというところで、鈴はおもむろにはあ、と溜息をついて携帯に手を伸ばした。

purururu、と電話を鳴らす。1回目、2回目、3回目。・・・5回掛けても、秋久さんは取らなかった。水滴が荒々しく地面を穿つ音が聞こえる。嫌な予感がした。鞄と携帯を掴み、傘をとって家の外へ出る。どこへ探しに行こうとしていたのだろう。こういう時、彼がどこに行くのか、私は全然知らないのに。けれど探す必要は無かった。玄関を出て、目の前に。

庭の一本桜の下に、傘もささずに彼はずぶ濡れで立っていた。



「なに、してるんですか」

彼はただぼうっと雨に叩きつけられる桜を仰ぎ眺めていた。全身ずぶ濡れで、桜の花弁が何枚か髪に張り付いていた。秋久さんの隣の桜木は、もう随分花瓣が雨に叩き落されていて、もう満開の姿は見れないなと思った。

ひとこと聞いても、彼は返してこなかった。

瞳は、此処ではないどこか遠くを眺めていた。

欠片も気づいてもらえていないことが、酷く悔しかった。だから。

「あきひささん」

そっと、いつかのように手を握った。

ようやく彼は此方を認識したようだった。曖昧なまま、僅かに焦点が合う。

もう今日は、取り繕う気力がないみたいに、泣き笑いの表情を浮かべた。

「・・・俺はたぶん、死にたいんだ。・・・ずっと」

それは、5日前の問いの答えだった。恐らく、今度は掛け値なしに本当の。

「ずっと、気づかないようにしてきたけれど。・・・だって、アイツが助けてくれた命なのに。君がいるのに。それは、ずるいことなんだ。分かってるんだよ」

ええ、ずるいでしょうね。鈴は心のなかで返した。現実に、彼が10年前に自殺していたら、きっと鈴は彼を罵っただろう。何様のつもりだ、と。兄に庇ってもらっておいて、勝手に死ぬなんて、許されること?

・・・いや、今だって、鈴はずるいと思うのだろう。少し理由は違っても。

「・・・でも。もし俺が、いらなくなったら。俺の贖罪が無意味になって、それどころか、・・・迷惑になったら」

秋久が、もうずっと思っていることだった。詫びや感謝を伝えたいなら、毎日墓参りでもすればいい。わざわざ仏壇のある家に毎日入らなくても、別にいいのだ。もしかしたら自分は、こんなにも彼を悼んでいると証明したくて、家へと足を運んでいたのかもしれない。酷く傲慢な自己満足のために、鈴の日常生活に干渉している。あの日、彼女の”普通”の日常的な会話を覗き見てから、余計そう思わずにはいられなかった。

「・・・迷惑じゃ、ないですよ」

「それでも。・・・もう君に、俺は必要ないだろう」

大人になった鈴に、秋久は要らなかった。彼女はもう、自分ひとりで生きていけるのだから。意思ひとつで、どこにでも行ける。誰とでもいれる。そのことを、ようやく秋久は理解したのだった。もう鈴は、家族の葬式で項垂れていたあの頃の少女ではないことを。そして贖罪を生きる理由にしてきた秋久は、それを失くしてしまえば、ただ空っぽだった。些細なことで存在理由も生存本能も揺らいでしまうほどに。秋久に、息をしたい理由などひとつもなかった。途方も無い罪悪感と義務感が、今まで彼を生かしていた。

「・・・それに」

死にたいと思う理由は、他にもあった。

上から降ってきた花弁が目の前を一瞬、掠める。ひらり、ひらり。

あの飛び降り自殺の光景が目に映った。

馬鹿みたいに凄惨で、なのにどうしてか美しかった。

・・・彼女は会いにいけただろうか。秋久は思う。もうこの世のどこにも、一番大切な人がいないゆえに、命を絶った少女。

「死んだら、アイツに、・・・陽正に会える」

もはや隠さない希死念慮を、彼は希った。

鈴は何も言わないまま、彼の頭を抱きかかえて、もう彼が濡れないように頭上に傘をさしてやった。彼はされるがままだった。

鈴はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「・・・お兄ちゃんは、喜びませんよ」

「それでも」

会いたいのだと、そう彼はえづく。

鈴は世界でいちばん愚かだと思った。震える言葉も、冷たい体の持ち主も。

鈴は天国も地獄も幽霊も生まれ変わりも信じてはいない。

だから、生きていくのが辛いから死にたいという言葉は理解できても、死者に逢いたいから死にたいのだという言葉は理解できなかった。

でもこのままだとこの人は、手の届かないところにいってしまうと思った。

だから。

「・・・私は、嫌です。兄がどうでも、貴方がどうでも。私は嫌です」

だからこのまま一生、宝箱に隠しておきたかった想いを告げることにした。

よろよろと、彼が目線を上げる。優しく髪を梳ながら、きっと今一番彼に残酷に聞こえるであろう言葉を吐く。

「好きですよ」

________なんの救いもない秘密だった。

こういう時、死に向かっていく人を止められるような科白(せりふ)を持っていればよかった。兄なら希望に満ちた言葉で止められるのだろう。

鈴は、逆の方法しかとれなかった。

だからほら、彼の体の震えが止まらなくなった。顔を強張らせて、青ざめて、力の入らない体でなんとか鈴から逃れようとする。鈴は、離れないようぎゅっと抱きしめた。

「私は、貴方のことが好きです。だから死なないでください。死なないで」

この一言がどれだけ彼にとって絶望的か、鈴は分かっていた。ずっと分かっていた。告げてしまえば、彼が今以上の罪悪感に蝕まれることくらい、簡単に予想がついた。同時に、その事実は鈴の心も深く深く突き刺した。

いつからなのかは、よく分からない。ただその感情に直面したとき、鈴は否定した。遠ざけて、彼自身に八つ当たりもしてみたりもした。結局、なんの解決にもならなかったけれど。好きなのだと自覚しても、想いはちっとも甘くなったり優しくなったりはしなかった。痛みと哀しみが、常に傍にあった。だって、大好きな兄が死んだのは。

「なにかの、間違いだ。そんなの」

震えながらそう言う。そうであったら良かったのにと、何回だって鈴は考えた。何度否定しても忘れたふりをしても、心から消し去ることが出来ないから、今こうして彼の頭を抱きしめているというのに。

「だって、そうじゃなきゃ、・・・可哀想だ。君が」

そうやって、秋久が鈴の心を最も傷つける言葉を吐いても、鈴は手を離さない。

君の兄を死なせた俺に恋するなんて、可哀想だと彼が言う。泣きながら。鈴は否定しなかった。ずっと自分でも思っていたことだったから。

どうしてだろうと、ずっと思っていた。

_______どうして彼なの。

兄はこの人のせいで死んだのに。一度も、もういい、が言えなかったのに。

それでも、迷子のような表情を見たとき、手を繋いであげたいと思った。謝罪よりも笑顔が欲しくて、苛々した。彼がこの家を去っていくとき、寂しくて、思わず手を伸ばしそうだった。出かけたとき、一緒に帰りたかった。今はもう、ひとりぼっちのあの家へ。帰ってきてほしかった。

否定したいのに、消しきれないほど、想いが積み重なっていった。

だけど認めても、言うつもりなんてなかったのだ。こうなることが分かっていたから。あの穏やかで曖昧な距離の時間が続いたならば、それで良かったのに。

「______どうして」

「・・・どうしてでしょうね。でも、だから、秋久さん。死なないでください。私の人生から、いなくならないで。貴方が生きていくのに必要でなくても、私は貴方の傍がいい」

鈴は死にたがりな想い人を生かすために、この恋情を利用することに決めた。一番晒したくなかったひとに、軛(くびき)として使うことにした。こう言えば、彼はきっと苦しんでくれる。自分が死ねば、彼を好きだと言う私がどうなるか分からなくて、三途の川手前で留まってくれる。ひどいことをしていると思った。私は、彼にまた重い十字架を背負わせたのだ。死にたいのに、死ねない呪い。彼は、私が秋久さんを好きになったことすら自分のせいにする筈だ。分かっていて、それでも言った。

苦しんで苦しんで生きてほしくて。

自分の好きを、足枷にした。彼が軽いまま何処かの空へ_______兄のところへ、飛んでいかないように。

実ることすら放棄した心が、どこかで痛いと泣いた気がした。

ぱたり、とそれまで降っていた雨が急に止んだ。傘はいつのまにか手放していた。雲の隙間から、日の光が差し込むのが見える。

__________おにいちゃん。

正しい陽と名付けられた兄を思う。兄はこんな私達を見て何を思うだろう。きっと怒るだろうと思った。オレのことなんて気にせず、ふたりでさっさと幸せになればいいと。それとも呆れるだろうか。ごちゃごちゃと気にせず共に居れば良い、そう兄は言う気がした。そんな優しい人だった。

_________ごめんなさいお兄ちゃん。

でも無理だ。そういう生き方は、ふたりには出来ない。

だって、もしも本当にふたりが一緒になって、幸せにでもなったりしたら。

__________兄の死を肯定したみたいじゃないか。

考えすぎだと、理解している。けれど鈴と秋久はそんなふうに考えてしまう。だからこうしてこんなにも怯えている。だから、あんなにも否定し続けた。兄が生きていたのなら、きっとふたりは数えるほどしか会うことはなかっただろう。それも挨拶程度だ。惹かれることなんて絶対になかった。鈴が共にいたいと願ったのは、失って帰り路が分からなくなった、あの眼だから。性格も歳も生きる場所もなにもかもが違う。兄が生きてさえいれば、ほんの少し人生ですれ違う人だった。お互いに。

この縁が兄が死んだことで結ばれたことをふたりとも知っているから、それがいいものなのだと認めたくはなかった。

認めてしまえば、まるで兄が死んだことが必要だったかのよう。

それだけは嫌だった。ずっとずっとずっと、それだけの理由で打ち消してきた。言葉も想いも。湧き出るたびに何度も。

その行為には痛みが伴ったけれど、鈴は痛みには鈍感だった。

だからこうして、いつもどおりにゴミ箱に捨てる予定だった想いを再利用できる。

彼をこの世に無理やり縛り付けるための言葉を、「好きですよ」の形にして。それは心の奥底でずっと言いたかった筈のものだったのに、口に出した途端最低な思い出へと変化を遂げた。

それでも鈴はかまわなかった。自分でこうすると決めたのだ。

こんなに酷い、決定的に間違っている感情の弔い先にはお似合いだ。

全部私が決めたこと。だからぜんぜん傷ついていない。ちっとも。

「・・・秋久さん」

鈴はまだ震えながら涙を流している彼に言った。たぶん、もっと違う場所で、もっと素敵な時に、もっと純粋な意味を込めて言いたかった言葉を。

死にたいときに死ねなくなる、不自由で最低な呪いとして。

「好きでなくともかまわないから、私と生きてくれませんか」

息が微かに止まった気がした。ゆっくりと、彼が顔を上げる。

青ざめていて、彼の方がよっぽど可哀想に見えた。

体の力は弱く、抱きしめ返そうとはしなかったが、もう鈴の腕を振りほどこうとはしなかった。おとなしく、傍にいる。

たぶんきっと、それが答えだった。

ひらり、ふたりの上に白紅の花弁が一枚降り落ちる。もう桜はほとんど散ってしまったようだったけれど、枝の先に新緑が見えた。

ふと、森の生物の死骸は別の生き物の糧になるんだよと教えてくれた父の言葉を思い出した。切り株から新芽が出てくることがあると言った、小学校の理科の先生の言葉も。笑ってしまった。あるいは、唇を歪に釣り上げただけにしか見えないかもしれないけど。

あぁそれが生命の営みなのだろう。何かが死んで、死んだものを糧にして養分にして、そうやって命のバトンを繋いでいく。春って、つまりそういう季節だ。虫も動物も人も。皆、もういないものから何かを受け取って、前へと歩んでいくんだろう。

ずぶ濡れの彼のてのひらに触れながら、鈴は、きっと私達には無理だなと思った。

私達は死んだ親木を想って、その事実から何かを貰うのが嫌で、芽吹くことすらやめたのだ。ただそこで枯れていくのを待つだけ。花も実もつけずに。

秋久さんの体はまだ冷たかった。寒さゆえなのか恐れゆえなのか分からないが、まだ彼は細かく震えていた。温めたかったのに、私も濡れていて温度が低い。冷たい両手で彼の手首を掴んで、これからこんな日々が来るのだろうと思った。やさしくも温かくも幸せでもなくて、死にたがりな彼を繋ぎ留める日々。この心に刻まれた恋慕を死ぬほど利用して、いつか使い物にならなくなるまで。ふたりでいても、傷つけ合い続ける。そんな人生になると知っていて、それでも鈴はそう決めた。彼を生かすために、彼の心を滅茶苦茶に痛めつけることを選んだ。自分勝手な選択に、彼の一生を付き合わせようと。


共に笑えなくても、隣で泣けるならいいと思った。

寒くて寒くて仕方がなくても、手を繋げるなら充分だ。


秋久を見て、ふわりと鈴は笑う。泣いてるみたいな、はにかみ顔。

その表情を見て、秋久は僅かに目を見開く。雲から少し覗きでた光の筋が、瞳に写って反射した気がした。春宵一刻のような微笑だった。

ピーヨ、と鵯(ひよどり)の鳴く声がした。春陽の空気を纏いながら、鈴は咲う。




この恋に、春が訪れることはないだろう。

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春夏秋冬短編集 閏月 @uruuduki

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