[冬]それを幸せと云ふ

___しんしんと、降り積もる雪が、まるで羽根のように見えたから。




指先に触れた白い結晶は、やはり冷たかった。一瞬の感触さえも感じさせずに溶け去るそれには、生き物の温度が熱すぎるのだろうか。縁側から身を乗り出し、伸ばしていた手をもっと、とさらに伸ばそうとすると、声が聞こえた。

「何をしている」

低く冷たいその声は、雪よりもよっぽど冬を表しているようだと思う。ゆっくりと振り向くと、予想通りの人物が格子戸を開けて立っていた。

「なにも」

呟いた声は、いつもと同じように精彩を欠いているだろうか。”あの日”から、喉から上手く音がだせない。掠れている。色も、温度も、見えている世界すべてが。セピア色に染まっている。

「なら、はやく戻れ。冷えるだろう」

夜のような濃い藍色の瞳にみつめられ、嗚呼そうだった、私はそれが知りたくて手をのばしたのだったと思い出した。あまりにもまわりの景色が枯れていて、感覚が覚束なかったから。だから、今の自分に温度はあるのか不思議になったのだ。結果は、一瞬ふれただけで消えてしまった粉雪が示した。寒いと感じることもないのに、私はまだ生き物の熱を持っているらしい。けれどこの疑問に、私はどんな答えを期待したのだろう。喜ぶことも、悲しむことも出来なかった。

てのひらをゆっくりと開く。先程の雪が形見のように残した、少しだけの水が指を伝う。

______このまま此処にいれば、彼の言う通り体が冷えてしまえば。私も熱をなくして溶け去ってしまえるだろうか。あの雪みたいに。


彼はしばらく格子戸の横に立って待っていたが、一向に私が動こうとしないのを見てしびれを切らしたらしい。はぁ、と小さく溜息をつくと、静かに縁側に向かってきて私を抱き上げた。特に抵抗もせずにおとなしくしていると、予想通り彼は私を清潔な布団の上に寝かせて手を話した。存外に優しい手付きで掛け布団を私の体にかけると、それきりもう触れてこない。ただ離れもせず、傍に座り私を見つめている。

30cm。それが私達の距離だった。

(なにを考えているの)

触れもせず、離れもせず。でも私をこの屋敷の離れに閉じ込めたのは彼なのだ。けして外には出られない檻。ならば、此処に私を閉じ込めておいて、触れようともしてこない彼の目的は一体何なんだろう。

そっと顔をずらせば、痛いほどまっすぐな視線を向けられて、目をそらした。今日も彼は、私が眠るまで傍を離れないだろう。いつもそうだ。私が夕餉を食べたあと、夜が暮れたころに彼は来て、朝私が目覚める前に姿を消している。まるで靴屋の小人みたいだ。しょうがないので、目を閉じた。


_____瞼を下ろす寸前、気づいた。雪に手をのばした、もうひとつの理由。降り落ちる粉雪が、舞い上がる真っ白な羽根に見えたのだ。空を大きく羽ばたく白い鳥の、名残のような。触れたくなったのは、近づきたかったのは。仄かな憧憬を抱いたから。もしもこの身がただの鳥へと変われたら、飛んでいってしまえるだろうか。この狭い檻からも、世界そのものからも。何もかも捨てて。


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夢を見た。

それが夢だと気づいたのは、毎晩繰り返し同じ悪夢を見るからだ。

自分が信じていた世界がひっくり返って、絶望に叩きつけられた”あの日”の情景。もう変えられやしないその光景を、まるで忘れないようにただひたすらに夢に見続ける自分の愚かさに、嘲笑が溢れる。もうどうすることもできないのに。心が、ただただすり減ってゆくだけ。

「____っゆきっ、逃げっ_____!」

「いやあああああああ!」

何かを思いっきり殴るような、ぶつけるようなガツン、ゴツンというような音。紅い紅い液体。両親の私へ逃げるよう催促する叫び声。誰かの甲高い悲鳴。地獄絵図をそのまま現実にしたような景色に、私は逃げることも声を出すことも出来ず、呆然と座り込んでいた。がん!目の前の男が何かで殴り、ずりっ、と耳障りな音がして母の体は倒れた。その前方には同じく真っ赤になった父が倒れている。ぴちょん、ぴちょんと液体が跳ねる音が聞こえる。それの正体は、理解したくなかった。母も父も、私を庇うように前にいた。最期まで逃げろと叫んでいた。自分たちは逃げようともしないで。父の固まった手が、こちらに向かってのばされているのを認めたとき、視界がぐらぐらと揺れた。あぁ優しいひとたちだった。小さい頃から感情が鈍く、人とずれていた私を慈しみ、他の子と変わらないように育ててくれた。死ぬ瞬間まで、自分のことではなく子供を案じたふたり。惜しみなく愛を注いでくれた。それなのに、今目前にいるのは人間だったナニカだ。真っ赤な血に濡れたそれは、もう動くことも、話すこともない。ありがとうと微笑んでくれることも。おやすみと頭を撫でてくれることも。

よろよろと頭をあげれば、男が私の目の前に来ていて何かを振り上げていた。動くことも、逃げることも出来ず。いや、その時の私は考えることを放棄したのだ。だってとても悲しかった。衝撃で頭が真っ白になって、世界がばらばらに砕けてしまったみたいだった。いっそ壊れてしまえばいい。私ごと、この現実すべてが。

息の仕方を忘れてしまったみたいに固まったまま、死の訪れをじっと待っていたとき。パンッと乾いた音がして、男が振り上げた腕から血が流れた。

「うあああっ」

パンッ!パンッ!

醜く叫んで取り乱した男の体に、たてつづけて穴が開く。

男の体がずるり、と地面に倒れ伏したあと。何が起こったのかよく分からないまま震えていた私の目に写ったのは、あの冷たく光を一切漏らさに深藍色の瞳だった。とても静かな、夜に佇むような彼を見た瞬間、限界が来た私の意識はふっと遠のいた。



それが彼との、出会いだった。



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あいも変わらず夢見が悪い。最悪の悪夢だ。じくじくと痛む頭を抱え身を起こすと、しらじらとした朝の光が窓から差しこぼれていた。

やはり彼は傍にはおらず、そこにいたという痕跡すらも感じさせず去っていた。昨夜てのひらに触れた瞬間、溶けて消えた雪みたいに。

(なぜ殺さないんだろうか)

両親の死は裏社会の抗争に巻き込まれた結果だったと、あとから聞いた。未だぼうっとしている頭だったが、情報は頭の中に入っていった。彼は両親を殺した男が所属する組織に、敵対する側の人間らしい。敵対する側、といっても警察などではなく、同じ穴のムジナだ。彼も立派に日の下を歩けない身分だ。しかも結構偉い。若頭、といつも彼に付き添っている反社会勢力にしては優顔の男性に呼ばれていたのを思い出す。

同時に、私の命は彼に救われたであろうことも理解した。けれど分からない。此処に私を置いておく理由が。ひとひとりを養うなど、どう考えても手間だ。そのままそこに放っておくか、最悪口封じに殺すか。

それが裏社会における普通ではないのか。間違っても、片っ端からこんなふうに巻き込まれた一般人を保護したりはしないだろう。

(______別に、)


あのまま死んでしまっても良かったのに。



彼が私を閉じ込めた理由が、優しさに近いものだと分かってしまいそうで嫌だった。事実、あのまま放っておかれれば私は間違いなく数日で野垂れ死んだだろう。なにもする気がおきなく、ふらふらと彷徨って。

どんな理由であろうと、彼の行動で自分の命は繋ぎ止められている。

そう理解することが、とてつもなく惨めで痛かった。


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「朝ごはんですよー。浦辺さん、起きてますか?」

この静かな空間に場違いなほど明るい声が響いた。格子戸開けて、お盆を片手に入ってきたのは、先程少し思い出していた彼に付き添っているあの優顔の男性だった。

「相変わらず細いですね。ほら、たくさん食べて肥えて下さい」

少しの揶揄いを含んだその柔らかな声音は、やっぱり裏社会には似合わない。落ち着いた雰囲気を醸し出す人だから、私の世話役に選ばれてしまったのだろう。

(確か・・・名前は、三黒と言っていたっけ)

ペコリと座ったまま小さくお辞儀を返すと、三黒さんは困ったように微笑み、カタン、とお盆を部屋の隅に置いた。器から、仄かに湯気が立っている。

「ちゃんと食べてくださいね」

若頭が心配しますから。そう言って三黒さんは格子戸をすっと閉めて静かに去っていった。暫くそのまま座っていたけれど、湯気が薄くなっていくのを見て、冷めてしまうとお盆に手を伸ばした。食欲があるわけではない。”あの日”から、味を感じないのだ。それでも残してしまえば、せっかく作ってくれた人と無駄になる食材に申し訳なくて口をつけていた。はじめの頃、まったく食べ物を口にしなかったことを思い出す。彼は何も言わず、ただじっと私をみつめていた。哀しそうだと、思った。表情ひとつ崩れていないのに。言葉をかけずにずっと見つめるその視線に根負けして、のろのろと箸を動かした。食事を取るようになって以来、彼が食事の時間に私のもとへ来ることはなくなった。


そよそよと風が啼く音がする。縁側の向こうに目をやると、優しい陽の光が庭に差し込んでいた。昨夜降っていた雪は、もう溶けてしまったらしい。だけれど水滴に濡れている草花が、確かに氷の結晶がこの庭に舞い降りていたことを示していた。また降るだろうか。降ってほしい、と思った。宵闇の空から舞い降りてきて、葉がすべて落ちてしまった木や深い緑色の草花を銀白色に染めてしまう雪景色は、とても綺麗だった。うつくしいものは好きだ。心を空っぽにして、何も考えないままずっと見ていられるから。また降ればいい。降って、そして今度は積もればいい。世界そのものを真っ白にして。

その情景を思い描くように目をつむり、冷たくも清らかな朝の冬の空気を吸い込んで、そっと吐き出した。


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満天の星空、という言い回しを考えた人は、いつどこで、誰とこんな夜空を眺めたのだろうか。ゆったりと縁側に腰を掛け、きらきらと紺色の空に瞬く星々を見ながら、ふとそんなことを思った。いくつもの星たちは隣の光に負けないよう、強く輝いている。僕を見て、という声まで聞こえてきそう。どんな言葉でも言い表せないほどの美しさを、頑張ってたったの5文字におさめたその人の隣に、寄り添ってくれる人はいただろうか。この壮大な景色の前に、たった一人では淋しいと感じる。心細くて、誰かのぬくもりが欲しくなる。ずっと昔から、私にとって冬の星空とはそういうものだった。美しいと感じると同時に、切なくなって泣きたくなる。人はとても美しいものを見ると、時々哀しくなるのだと教えてくれたのは、写真家の父だった。いつか父に聞いたことがあった。どうして写真家になったのかと。____やっぱり、写真を撮るのが好きだから?父は少し笑って、うーんと言ってから答えた。

「写真を撮るのは勿論好きなんだけどね、でも一番は美しいものを、ずっと見ていたかったからかな」

何度も巡り過ぎ去る季節の、その刹那を。もう二度と出会えないような、心震わす一瞬を。煌めくその光景に出会った時、ずっと手元に置いておきたくて、何かで表現して誰かに伝えたくて、せめてシャッターをきるのだという。撮らなければいけないような気がするんだ。そう笑っていた父の顔は、何かを愛おしんでいるように見えた。

「けど今度は困ったことに、そうやって撮った写真が、十分の一ほどもその美しさを伝えられていないんだよ」

もっとうまく表現したくて、自分がみた世界そのままを写し取りたくて、ひたすらに写真を撮っていたらいつのまにか写真家になっていたらしい。どこかとぼけた理由が、父らしかった。穏やかに、季節を愛する人。美しいものに誰よりも憧憬を抱いていて、静かにその世界の彩りを眺めていた。しわが刻まれた優しいその手が、カメラのシャッターをおすことは、もう二度とない。唇を噛みしめると、乾いた肌の感触がした。見上げた空に浮かぶ星々は、変わらず綺麗なままそこにいた。人は死んだら星になるのだと、どこかで読んだ覚えがある。ならば父と母もこの夜空のどこかにいるのだろうか。澄んだ魂を持っていても、穏やかな彼らのことだ。周りの星に遠慮して、その清らかな光をおさえているかもしれない。父にとって、もっとも美しい人はきっと母だったことだろう。母はあまり喋らない人だった。けれどその静けさは冷たさ故ではなく、深い慈愛故だと彼女の人柄に触れてみたらきっと分かるだろう。倒れそうな人にいちはやく気づき、そっと後ろから支えるような人だった。そして大丈夫になると、何も言わずに去っていくのだ。自分が他人のためにしたことを、けして知らせずに。淡い光のような人だった。過ぎゆくものたちと、上手につきあえる人だった。失くしたものを、失くしたままで大切にできる母を、きっと父は誰よりも愛していた。飼っていた猫が死んでしまった時、私は全然泣けなくて、でも胸が空っぽで、涙が出ないことが申し訳なくてぽつんとうずくまっていると、母は優しく頬を擦ってくれたのだ。そこにないはずの涙を拭うように。

なかないで、と母は言った。泣いていないよと答えたけれど。母は目元をさげたやわらかな表情のまま言ったのだ。

私には泣いているように見えるわ、と。

____あんまり悲しいから、心が凍りついてしまって、きっとお水をだせないのね。

その声があたたかくて、愛おしさに満ちていたから。

思わず抱きついてしまった。少し離れて様子を見ていた父は、そばに来て、母と私を静かに抱きしめた。

まだ十にも満たない、幼い子供のころの話だった。

そういえば、私はあの時も泣けなかったな、と思い出した。

今ふたりが死んだ時も、同じように泣けていない。

やっぱり薄情なのかもしれない。ふたりは否定するだろうけど。

宵闇を宝石箱に変える星々の隙間、きっと父と母はふたり一緒にいるだろう。ぴったりくっついて離れずに。

戻りたいな。そう思った。まだ三人だったあの頃に。置いてけぼりをくらったみたいだ。戻れないならせめて、瞬いているふたりの星の傍に、いってみたかった。




ぼんやりと空をみつめていると、横から声がかかった。

「そろそろ部屋に戻らないと、風邪ひきますよ」

声のほうに目をやると、縁側の手前に立っていたのは三黒さんだった。

_______あの人は?

いつもこの時間帯に来る彼ではなく、少し戸惑う。

声に出して尋ねたわけではないが、疑問に思ったことが伝わったらしい。三黒さんが微笑みながら伝えた。

「若頭は、今夜大事な取引があるのでね。かわりに、俺がお嬢さんを寝かしつけるようおおせつかりました」

ちょっとおどけたように話し、三黒さんは目元を和らげた。

「さ、冷えるので部屋に戻ってください。お嬢さんになにかあったら俺が若頭にどやされます」

三黒さんは楽しそうだ。その様子を惚けたように見ていると、手をさしだされたのでぱっと掴む。三黒さんは彼のように私を抱き上げたりはしない。丁寧な物腰だが、接触も極力避けるよう意識している。

誰がそうさせているかなんて、深く考えずとも分かることだ。

「どうして」

言葉が漏れた。ずっと頭の中を回り続けている疑問。

ん?と首を傾げた三黒さんにそのまま吐き出す。

「どうして_______殺さないんでしょう」

誰が、とは言わなかった。けれど、三黒さんにはその意味が分かっただろう。ずっと不思議だった。どうして私は生きているのだろう。人は一人では生きていけないから、息ができているのは生かされているからだ。私は彼に生かされている。そんなことはもう知っている。でも何のためになのかが分からない。

三黒さんは、さっきよりも優しい瞳をして答えた。

「それは、直接若頭に聞いてください」

俺に答えることはできません。

そう言って、三黒さんは廊下の奥へと消えていった。


聞いたら答えてくれるのだろうか。そこにどんな意味があるのかを。

_____私はその答えを、知りたいのだろうか?

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夢を見ていた。遠い日の夢を。あの、世界が銀色だった夜の夢。

どうやら、机に頬杖をついたまま眠ってしまっていたらしい。頭を軽くふって、こめかみをおさえる。昨夜の取引のことで仕事が長引き、彼女の元へ行く時間どころか睡眠をとる時間さえなかった。きちんと布団で眠らなかったせいか、どうにも意識がはっきりしない。とはいえ、仕事はどうやら終わっているようだ。どうにかこうにか終わらせてから、眠気に耐えきれず意識をうしなったのだろう。よくやった自分、と心のなかで呟く。

「若頭、そんなところで寝ないでくださいよ」

隣から声を掛けられ、そちらの方へ向くと自分の側近、三黒が呆れた顔をして立っていた。やれやれとでも言いたげだ。

「そんなんじゃ、お嬢さんに寝ろ、とか言ってもどの口がって話ですよ」

唐突に自分が拾ってきた女のことを話にだされ、むっと顔をしかめる。もともと彫りが深く無愛想なので常人には怖がられる顔立ちで厳しく睨んでも、子供の頃から俺の世話役を努めていた男には通用しない。肩を小さく竦めると、ちゃんと食べてくださいねーと声を掛けて書斎を去っていった。

はあ、と息をついて扉をみやる。

三黒にだいぶ心配をかけていることは自覚している。

飯はまともに食わず、睡眠もあまりとらない。父の跡を継ぐことが正式に決まり、度重なる仕事に忙殺されている。ただここだけの話、今はこの忙しさがありがたかった。少しでも暇だと、余計な事を考えてしまいそうで。

窓の向こう側では、藍に黒を塗り重ねたような空の上で、銀白の満月が凛と輝きを放っていた。舐めたらばきっと冷たいだろうな、という色合いだった。嗚呼あの夜もこんな景色だったと思う。痛いくらいの静寂で、降り積もる雪と厳かな月明かり。温かさなんてかけらもなくて、眩しいのに、泣きたくなるほど寂しかった。冷え切った手と手を繋いで、ちゃんとそこにあることを確かめあって、真っ白な世界を見つめた。ふたりきりだった。

あの時はじめて、こんな世界で生きていく理由が見つかった。

彼女は覚えているだろうか、ぼんやりと考える。

答えなんてわかりきっている。彼女は俺が誰だか分からなかった。それが答えだ。緩慢と立ち上がる。別に、どうということもないけども。


あの玲瓏とした美しい夜空を、心に刻みつけて片時も離さず抱えてきたのは俺だけだったと、実感することは酷く虚しかった。



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あの日、俺は嫌で逃げ出したのだ。全てから。

12歳かそこらの頃だったと思う。俺は家のことや大人たちから逃げるように、自宅から飛び出した。嫌だった。どうしようもなく。汚れたことをしている実家。頭の長子として日々大人たちの欲望や愛憎が濁っている視線に晒される生活。どうして俺が、という腹立たしい気持ちもあったが、何より疲れていた。大事な会合があって皆そちらの方へ気をとられていたから、抜け出すのは簡単だった。

どうせすぐ連れ戻されるのだろうが、それでもその時だけは全てを忘れたくて、後のことを考えず衝動のまま行動した。

飛び出したのは1月の中盤で、冬の真っ盛りの時期だった。

あてどなく彷徨い、たどり着いたのは知らない公園だった。ブランコがぽつりとあるだけの。

濃い墨と藍で塗り重ねた夜空から、ひらひら、ひらひら。まるで花弁(はなびら)のように白い雪が舞い降りてきて。青みがかった銀白の満月が、傍らで満天と煌めく星たちに負けないように光を放っていた。

その風景は幻想的で、刹那的で。寒さと冷たさで震えているのか、空の美しさで心が震えているのか分からなくなっていた。けれど。

あの空には俺ひとりの人生や苦しさなんて欠片も届いていないんだと思えば、忌々しく映った。どれほど美しくても、ひとりきりなら意味がないとも思った。ここはひどく淋しかった。雪に吸い込まれて音が消えていくから、生き物なんて存在しないみたいだった。俺も含めて。


きっ、と空を睨んだ。

あの空が、俺の母さんも連れて行ってしまったんだと思ったら、より憎く感じた。母さんの瞳を思い出す。母さんと、三黒の瞳だけは受け入れられた。優しくて、瞳が慈愛の形にまるまってる目。俺を組頭長子、加茂野雪人ではなく、ただの子供として触れてくれる視線。心地よかった。母さんの側にいる時だけは、他の辛いことも苦しいことも忘れていられた。誰かの不躾な視線や噂も、ときに行われる誘拐や暗殺も。優しく撫でてくれるてのひらが好きだった。「ゆきと」と呼んでくれる穏やかな声色に安心していた。母さんは体が弱いから月に何度かしか会えなかったけれど、世界で一番安らげる時間だった。

ずっと続いてほしかった。叶うなら。

でも、母さんは死んでしまった。一年前に。

病死だった。前々から重い病を患っていたから。

予想は何となくしていたけれど、納得できるかは別だった。

こんなにもあっけなく人は死んでしまうんだなと思った。

今すぐ心臓を体から抉り出したいほど悲しくて堪らなかったのに、母さんの微笑みを思い出して、何故だか涙は一滴も零れなかった。

何があっても冷徹な態度であった父が葬式で微かに震えているのを見た時、ああこのひとも人間だったのだなと思った。


あれから1年。俺は未だに泣けていなかった。


口からはあ、と漏れた息が白く変わって空気に溶けていった。もう手の感覚がなかった。このままここにいたら凍って死んでしまうだろうか。でも別にいいな。そう思った。やりたいことも、生きたい理由もなかった。死んでしまいたい程の絶望も無いけれど、なんとなく生きていただけだった。死ぬ寸前に、ああこんな綺麗な夜空を見れたのだから、役得というものだ。それに、母さんに会いに行ける。



「そんなところで何してるの?」


_____と。俺が早すぎる覚悟を決めようとした時、聞こえてきたのは鈴が転がるような女の子の声だった。

振り返ると、同い年か、俺よりひとつふたつ上くらいの歳の女の子がいた。黒いコートで、白いマフラーを身につけた、薄い氷色の瞳が印象的な少女だった。心配して話しかけてきたのだろうが、あの時の俺にはその親切が鬱陶しかった。とにかく、放っておいてほしかった。迷惑はかけないから。

「・・・何も」

だから、できるだけ無愛想につっけんどんとして言った。俺に関わるな、という態度で。こんな夜更けにひとりきりで子供が公園にいて、何も無いわけがないだろうに。

だけど、少女は微笑(わら)った。ふんわりと、やさしく、雪のように。

「そっか」

そうしてその女の子は、俺に話しかけ続けた。俺に注意するでもなく、親の存在を尋ねるでもなく。ただ綺麗だね、と。当たり前のように。

俺はその問いかけに拍子抜けして、そうだな、と答えたのだった。

_______後から思えば、あの子も俺とそう変わらない年だったのだから、あの時間に彼処にいたのは不審だったと気がついた。あの少女も親に出かけていることを秘密にしていたから、わざわざ尋ねなかったのかもしれない。

少女は微笑みながら話した。謳うように。

「お父さんがね、美しいものはひとりでみると、時々かなしくなってしまうから、誰かと一緒にみるといいよって言ってたの。・・・月が綺麗で、思わず外に飛び出してきたんだけど、今、家にひとりで・・・。だから、あなたがここにいて良かった」

一緒に見られる、と、そう。誕生日に欲しいものがプレゼントされた時みたいに。一等嬉しそうな笑顔で自分を見つめるから、たまらなくなって、顔を背けて一言だけ返した。

「・・・良い父上だな」

本心からの言葉だった。と同時に、この少女が羨ましかった。俺は父からそんな温かみのある言葉なんてかけてもらったことがないから。あの人はいつも、組長としての面を外さなかった。家族として、息子として俺を見なかった。いつも見るのは無感動な冷酷な表情。きっと関心が無いのだろう。子供ながらにそう思った。反抗するように、俺も父を家族とは認めなくなった。俺の家族は母さんだけでいい。でも、母さんがいなくなってしまった今は。

(ひとりきりだな、俺)

鈍い感傷に囚われかけていると、再び少女の声が聞こえた。

「俯いてないで。一緒に見ようよ」

________ねえ、ほら。きれいだよ。

ぐいっと手をひかれて、無理やり顔をあげさせられた。

月白の色をした雪は世界を塗抹し、綺羅と光を跳ね返していて、周りに蛍が幾匹も飛んでいるように明るい。少女は俺の前に立っていて、その後ろに、留紺色に墨を重ねた夜空よりも近くに見える、____月が。

「ひとりでみるより、あたたかいよ」

完璧な円を描いて滔々と照る白金の月を背に、こちらをくるりと振り返った少女の、水晶のようなその瞳と目があって、息が止まった。

__________どうして、そんな、慈しむように。

やさしくて、やわらかくて、まあるい、母さんのような眼。でも母さんの瞳よりずっと、音がしていた。澄んでいて、淡い雪解けのようで、見ていると胸がギュッと痛んだ。

あぁひさしぶりに見た、純粋な慈愛で満ちた瞳。

そうだね、きれいだ。そう返して、泣きそうになった。確かにひとりきりで見ていた夜空よりも、何十倍も煌めいて見えた。お互い手袋なんてしていない、冷え切ったはずの繋いだ手と手から、ぬくもりが伝わる感触がした。

________ずっと、この瞳に俺を写してほしいと思った。

この先一生、この子の薄い氷色の眼を見ていたい。それで俺と、俺を取り巻く世界を見ていてほしい。隣で、離れずに。この澄んだ光は、たとえどんなものを見せても曇らないだろうと思えた。幼い子供の一方的で自分本位な決めつけ。でも、欲しかった。穏やかに照らしてくれる彼女の瞳が、言葉が、その笑みが。ひとりぼっちの自分には痛いほど沁みて、欲しくて欲しくてたまらなかった。

もしも共に自分の人生を眺めてくれたら、今まで見てきた灰色の世界も、きっと、どんなにか。

けれどその願いを口に出すことは許されなかった。子供だったその時の俺には叶える力はなかったし、それは彼女の意見も人生も無視した身勝手な欲望だったから。そんな俺の醜い願望も知らず、その子はきゃらきゃらと笑いながら言う。

「お父さんがね、美しいものをたくさん見なさいって、言ったから、私ね。この夜空みたいな景色をいっぱい見るよ。いつか、旅もして、世界中の”綺麗”を探しに行く。ひとりでも、さびしくても。たくさん感動しながら、たくさんかなしくなりながら、見に行くの。・・・そうしたら、いつか_______」

そこで少女は息を一旦止め、短く吐き出してから言った。

「______そうしたらいつか、私は泣けるかもしれない」

月光に照らされた微笑みは、今までのどんな笑顔よりもずっと大人びて見えた。叶うといいな、と静かに答えた。強いんだな、と心の中だけで呟いた。

(_____ひとりでも、いいだなんて。)

自分はもう、共に見る景色の美しさを、繋いだ手の暖かさを知ってしまったから、弱くなってしまった。放せなくなってしまった。

でも、手放さなくちゃいけない。もう今夜を堺に会うことはない。彼女を血生臭い世界に巻き込むわけにはいかない。だからもう会ってはいけない。

どうせ手に入らないなら、知らなければよかったと思った。

出会わなければ、この心は凍えて死んでいただろうとも思った。

どっちも本当で、どちらが正しかったのかなんて分からなかった。

それでも生きていれば、同じ世界にいれば、彼女がいつか見た”綺麗”を見れるかもしれない。美しいものを見たときに、ひとり虚しく眺めるのではなく、心の中で彼女に送れる。今日はこんなに素晴らしいものを見たんだと。一方的でも、届かなくても、想いの宛先が出来たことが嬉しかった。その翡翠をもっと濯いだような眼と、同じものを見れるかもしれない。ただそれだけでこの世界で息をしようと思えた。生きていこうと思った。




最後まで名前を告げず、あの少女の名前も聞かなかったのは、意地だったのかもしれない。どうせ手に入れられないのなら、傷跡残しておきたくなかった。知っていたら、きっと誰かに尋ねてしまう。


結局、あのときの俺はどこまでも子供だった。


けれど、今はどうなのか。あの夜を想起させる満月を窓越しに眺めながら考える。

彼女の両親が死んだ日。敵対勢力の一部が、よりにもよって一般人に手を出していると聞いて、一番近くにいた俺が三黒の静止を振り切って駆けつけた。男に銃弾を放ち、倒れ伏したその血溜まりの中で、恐怖と混乱に濡れた薄い氷色の瞳。

一目で分かった。声が絡まり喉から出せず、指先が痙攣するように震えた。それが歓喜からだと気づき、この残酷な状況でそんな感情を抱いた自身を嫌悪した。だが、細かく震える彼女をそのままにはしておけず、連れて帰り今に至る。____自分が関わらなければ、きっと、幸せになれるだろうと漠然と思っていた。あの夢が叶わなくても、穏やかな日常を過ごせる筈だと。世界は思っていたより優しくはなかった。死や暴力は、突然に、圧倒的な力でもって人を踏みにじる。


それなら、攫ってしまってもいいだろう、と。

もう二度と出会えない光だと思っていた。この先ずっと交わることのなかったはずが、ふいにこの手に転がりこんできた。あんなに大切に語っていた彼女の親も、もういない。この世界が先に彼女を見捨てたのだから、俺が貰ってしまってもいい筈だ。

_______けれどそこに、彼女自身の意思はあるのか。

彼女の願いは?人生は?

まったくもって考えてない。自嘲する。俺はあの頃から、ちっとも変わっていない。自分勝手な願望に、彼女をつき合わせて振り回している。そもそも、彼女があの夜の少女だという確証もない。

(間違っては、ないと思うが)

それでも、人違いだという可能性は捨てきれない。なんせ名前も知らないのだから。もしも人違いなら、いよいよもって彼女が可哀想だ。けれど心が、本能ともいうべき感覚が叫ぶ。彼女は、あの夜の少女だと。自分がずっと欲しかったのは、あの淡氷色の瞳をした、あの子だと。

非論理的でなんの証明も出来ない感情が叫ぶ。


(・・・俺は、どうすれば、いい)

星の瞬きが、闇夜の黒に紛れていく。チカチカと目眩がする。

気づいている。彼女の瞳は、確かに濁ることはなかったが静かになっていっていること。亡くなる寸前の母のように。

人違いであろうとなかろうと、彼女を解放すべきだ、自由にしてあげるべきだ。そう、理性は囁いているのに。

どうしようもなく荒れ狂う感情が、その考えを差し止める。




月は神々しく淡々と光を放つだけで、何も答えてくれはしなかった。



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庭の片隅で、赤い寒椿がゆらゆらと揺れている。葉が落ちきった寒々しい桜の木の向こうに、曇った空が見えた。

(今日もこないのかなぁ)

縁側に座り込み、その曇り空をぼんやりと眺めながら考える。

あの、星空をひとりきりで見上げた夜からおよそ二週間。仕事で来れなくなったあの日から、彼は此処に訪れなくなっていた。

どうしてだろう、と疑問に思う。彼はその日まで、毎日毎日、こちらが辟易するくらい通い詰めていたのに。

ひょっとして飽きたのかもしれない。それはそうだろう。滅多に喋らない、いつもただぼうっとしているだけの人形のような私に、飽きない筈がない。むしろ是迄毎日会っていたことがおかしかったのだ。あの人も漸く、私なんかの為に時間を割くなんて馬鹿らしいと気づいたのだろう。

(殺されるのかな、私)

飽きた玩具(おもちゃ)は捨てるもの。そう決まっている。私を生かす理由もないし、死なせたほうが安全な筈だ。どうしてこの離れで生活させられているのかさえ分からないのだ。もし私に興味がなくなったのなら、私は彼にとって不要なお荷物。その未来は簡単に予測できた。

痛いのは嫌だけど、もしもそうなったとしても別にいいか、と思った。どうせ運良く解放されたとしても、こんな状態では餓死一直線だろう。生きる気力も、動く活力もない。最近は彼が来ないので、以前にもましてご飯を食べなくなったのだ。またあの悪夢を見るのが憂鬱で、彼という見張りがいないのをいいことに、明け方まで起きて、縁側で庭を眺めている日も増えた。夢を見ないほどの短い時間は寝ているがそれも一瞬で、おまけにこの真冬の時期に夜中ずっと外に出ている。この生活が良くないことは分かっている。ふとした瞬間に意識が霞み、倒れる回数が増えた。あぁこれやばいな、と思ったのは二日前、床に倒れたまま自力で起き上がれず、十分くらいそうしていた時だ。なんとかしないといけないのは分かっているが、思考が端から沈んでいく。何もする気がおきない。まあこのままでもいいか、と思ってしまう。

「・・・。」

体が怠くなって、どん、と勢いよく後ろから倒れ込む。切り裂くような寒風が、ふいに吹き付けた。視界が白く染まっていく。

(私、私は・・・)

どうしたいんだろう?彼のことをどう思っている?

彼のこと、自分のこと。これからのこと。考えなければと思うのに、思えば思うほど思考が細切れになっていく。

__________あぁ、でも。

いつか、この部屋から空に浮かぶ月をふたりで眺めたとき。

綺麗ですねと問いかけて、ああと素っ気なく返事をした彼の、その目は。濃藍の瞳に僅かなぬくもりが灯ったように見えて、今でも心に残っている。

_____あのときの目は好き、だったな。

懐かしいような感触がした。なぜか。



意識が呑まれていく思考の隅で、そんなことを思った。



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彼女が倒れたと聞いたとき、頭が真っ白になった。

取引であの離れにいけなくなったあの日から、彼女と向き合う勇気が持てなくてずるずると会うのを引き伸ばしにしていた。彼女に直接会うことはなくなったが、三黒に任せていたのでそう大して問題は起きないだろうと思っていたのだ。食事の量が減ったことは報告を受けていたが、まさか倒れるなんて思いもしなかった。仕事を急いで片付けて彼女のもとへ駆けつけたのは、連絡を受けた3時間後のことだった。

離れの寝室では彼女が寝かされ、三黒と初老の医師が付き添っていた。長年重用している優秀な医師だ。ひとまずほっと息をつき、「状態は」と聞く。ちらり、と医師がこちらに視線を向けて話す。

「原因は重度の貧血と睡眠不足ですな。ストレスもあるかと。今は落ち着いています」

何か返事をするまえに、三黒が俺に問いかけてくる。

「仕事はどうしたんですか?」

「至急のものは終わらせてきた。それより、どうして倒れたんだ」

急かすように質問する俺に三黒は肩をすくめて答える。

「縁側で倒れていたのを配膳係が発見したんですよ。この寒い中、上着も羽織らないで・・・。どのくらい気絶していたかは分かりません」

そっと寝ている彼女の傍に寄り、様子を眺めた。もともと白い肌は一層青白くなり、体は少し見ないうちにやつれて見える程に痩せていた。目を閉じて眠っているとまるで死人のようで、このまま一生目覚めないかもしれないという不安にかられた。青ざめている次期頭首に向かって、三黒は再度問う。

「で、どうして会いにいかれなくなったんですか?」

じっと見つめられての質問に、たじたじになってしまう。三黒は女子供にかなり甘い。彼女がこうなった原因は俺が通わなくなったことだと考え、この機会に訳を尋ねたのだろう。ここ二週間、ずっと何か言いたげにしていた。

「・・・少し、距離をおいて考えたかったんだ。・・・このままでいいのかと」

責められているような心持ちでそう返すと、三黒は呆れたように溜息を吐いた。

「それ、ちゃんと言葉にして彼女に伝えれば良かったじゃないですか・・・」

的を射た正論に、図星をつかれて黙り込んでしまう。それはそうだ。ちゃんと口で言わなければ、余計な不安を与えてしまう。おまけに今、彼女はとても不安定な状態なのだ。振る舞いには十分に気をつけるべきだった。己の心情ばかりに目を向けていて、彼女のことを考えていなかった。

あきらかに俺の落ち度だ。落ち込んでいる様子が伝わったのか、三黒はそれ以上は何も言わず、ふう、と息を吐いて言った。

「とりあえず、ちゃんと話し合ってくださいね。若は、お嬢さんが目覚めるまで付いてやっていてください。仕事はなんとかしておきますんで」

三黒は小さい頃から俺の面倒を見ていてくれていたので、俺にとっては兄のような存在だ。彼女を匿っている理由______あの夜のことも話しているので、何かと気にしていたのだろう。仕事を肩代わりしてくれるようで、有り難かった。

「___ああ。助かる」

ひらひらと後ろ向きに手を振りながら三黒が医師と共に部屋から出ていくのを見送ってから、視線を彼女の方へ戻す。

小さく生白いてのひらが見えて、思わず握ってしまった。ぎゅっと強く握りしめそうになって、起こさないよう慌てて力を緩める。

「・・・。」

再開して以来、初めて手を握った。彼女の手は、あの夜に繋いだ温度よりずっと、凍えていて。今にも死んでしまいそうな感触。ぬくもりを分け与えてやりたいのに、俺の手はいつものように冷たい。



俺はいつだって、おまえのための何かが出来ない。


*******************************


てのひらに温かい感覚がして、ふっと目を覚ました。

久しぶりに、悪夢を見なかったから、寝覚めは良かった。

なにか、とても懐かしい夢を見た気がする。

(わた、しは・・・)

「・・・っ」

息を飲む音がすぐそばで聞こえて、そちらの方へ向くと彼が布団で寝ている私を見つめていた。

一瞬、幻覚か何かかと疑ってしまう。ずっと彼の姿を見ていなかったから。

「だ、大丈夫か?具合は平気か?良かった、目が覚めて。すまない・・・俺のせいで、」

たてつづけの質問に反応できず、きょとんとしてしまう。いつも表情を変えず、まるで冬の氷のように冷たく見えるのに、今は焦っている様子が分かりやすい。

と、ここで戸惑っていることに気づいたように、彼はまた謝る。

「・・・すまない、慌ただしかった。」

どうして謝るのだろう。さっきも、今も。

「・・・私は」

「縁側で倒れていたのを配膳係が見つけた。・・・すまない。ここまで追い詰めたのは、俺のせいだ」

また謝っている。私が倒れたのは自分で体調管理が出来ていなかったからだ。勝手に落ち込んでいたのも私。彼のせいではない。むしろ迷惑をかけてしまったことをこちらが詫びるべきだろうに。

(_____あぁ、でも)

申し訳ないと思うよりも先に、初めて見る彼の様子が気になった。自分を責めるほどに、私はこの人の心に置かれているのだろうか。

滅多に崩さない顔を青ざめさせるほどに。

心配、してくれていたのだろうか。

ずっと彼のことは分からなかった。今でも分からないままだ。どうしてこんな風にしてくれているのに、いきなり来なくなったのか。そもそも何故私をここに繋ぎ止めておくのか。

「・・・すまない。本当に。俺、は」

けれど、震える声色が。苦しげに揺れる、濃藍の瞳が。

この瞬間、今までで一番近くにいるような気がした。

それは現在に至るまで、ずっと私に触れてこなかったこの人が、優しく手を握ってくれているからなのかもしれないけれど。

それでも今なら、聞けると思った。聞きたくて、聞き出せなかったこと。

「ひとつ、聞いて、も、いいですか」

カラカラの喉でつまりそうになりながら言う。

彼は勢い込みながら、答えようとする。

「な、なんだ?何が聞きたい?」

少し息を吸って言葉を吐き出した。この疑問を投げかけるのに、随分時間がかかってしまった。たったこれだけを聞くために、たくさんの勇気をかき集めなければならなかった。

「・・・どうして、私を、ここにおいているんですか?」

はっと彼の息が止まった。まるで彼だけ時間が止まったみたいに、動かない。少し経ってからみじろぎして、口を微かに動かそうとする。きっと迷っているのだと思う。目の中に苦悩と葛藤が見える。もしかしたら、私のように勇気を拾い集めているのかもしれない。話せるだけの、ありったけの勇気を。

(どうか、話して)

お願いだから、この時見せた心の柔らかいところを、傷つけないでほしいと思った。誠実に問うたのだから、ごまかさないでほしいと。

それから彼は暫くして、こう言った。

「・・・少し、長い話になる。聞いてくれるか」

身を起こしてから、こくり、と頷いて返した。



***



たくさん語った。家のこと、母のこと、父のこと、自分の孤独のこと。

________それから、あの満月の夜のこと。

いらないことまで話したと思う。段取りも何もなく、ただ思うままに喋った。恥ずかしい自分語りだ。ひかれてしまったかもしれない。だけど、彼女はただ黙って聞いていた。否定も疑問もなく。薄い氷色の瞳を傾けて。だから、ぽろぽろと溢してしまった。涙のように。

(_______あぁ、でも、これが最後なのかもしれない)

彼女にこうして聞いて貰えること。話を聞いても、彼女は思い出さないかもしれないし、思い出しても俺を拒絶するかもしれない。・・・もしくは、最初から人違いなのかもしれない。何かを吐き出すように淡々と、それでいてがむしゃらに語り終えた後、部屋は幾ばくか沈黙に満たされた。

「・・・。」

何も返さない。やはり、こんな俺は気持ちが悪かっただろうか。

たった一度、それも10年近く前の遭遇を理由に、人を捕らえるなんて。どうかしていると、自分でも思う。_______と。

「つ、きを」

「・・・え」

「月を、見に行こうって・・・思ったんです」

充分すぎるほどの空白の後に、彼女が漸く言葉を発した。けれど、意味がよく分からない。

「あの、日。・・・飼っていた猫の、命日で」

たどたどしながら何かを伝えようとする。その”何か”の正体が分かりそうになって、目を見開いた。

「おまえ、」

(_____まさか)

そうであってほしいと思った。覚えてくれていたのなら、嬉しかった。

でも、何年も経った後でもあの一夜のことを心に残しているのは、きっと俺だけだろうとも思っていた。

「あの日の一年前に、あの子が死んで。体温とか、鳴き声とか思い出したら、淋しくなって。でも、その日に限って、両親は、いなくて」

だから、あの夜、家を出た。窓から見えた大きな月が、とても美しくて、この目で直接見たいと思って。それにあんなに綺麗なところには、死んだあの子の魂もいるかもしれない。そう思って衝動的に飛び出した。でも、途中で。あんまり美しいものは、ひとりきりで見ると悲しくなってしまうと父が言っていたのを思い出して。

「星が、綺麗で。月が、綺麗で。・・・でも、寒くて」

凍えそうなほど寒くて。

「そんなとき、に、私、誰かと・・・手を。繋いだ、ような・・・」

誰かいてほしかった。傍にいてほしかった。世界の秘宝のようなあの夜空を、誰かと分かち合いたかった。ひとりぼっちは、いやだった。

_____あぁそうだ。彼処に誰かいた気がする。手を握ってくれた。温度を思い出せないのは、きっと、彼の手も冷え切っていたからで。

彼に繋がれていたてのひらが、さらにぎゅっと強く握られる。指先が震えているのが伝わった。・・・いや、分からない。両方かもしれない。

長いこと繋いでいるのにさほど暖かくならない片手を思って笑う。

_____もし。

(あなたが、繋いでくれた人なら)

「______嬉しかったんです」

誰にも見つからないところにいた私に、寄り添ってくれたこと。

「心、ぼそかったから」

会話も覚えていないけれど、嬉しかったことだけは、覚えている。

「・・・ありがとう、ございます」

お礼を言って視線をあげれば、彼はなんだか泣き出しそうな表情をしていた。

____ああ、今日はいろいろな彼を見ている。

ずっと変わらない、氷の彫像のように思っていた。今は、氷は氷でも、結晶のようだと思う。すぐに壊れてしまいそうなほどの、脆くて、薄い。

(______ねえ、)

「・・・あなたは、どうしたかったんですか」

どうしたいですか。これから。

「俺、は」

くしゃりと顔を歪ませてから、彼は途切れ途切れに返そうとする。

「俺は、おまえと、もう一度・・・。月が、見たかったんだ。あの夜みたいな、美しい満月を」

ぱちくり、目を見開いてしまう。

「・・・そんなことの為に?」

「ああ、そんなことの為にだ!馬鹿みたい、だろ。・・・自分でもそう思う」

思わず溢れた一言に、彼がやけになったように食い気味に返してきた。馬鹿みたいとは思ってない。

_____けれど、そんな他愛のない子供の我儘のような願いのために、この人はずっと私をここに縫い止めてきたのだ。

この世界に、息をするよう、食い止めてきたのだ。空っぽだった私を。

目を縁側の方に向けると、障子は開いているので庭の様子が見えた。

雪が降っている。道理で寒いはずだ。再び視線を戻すと、彼は項垂れていた。そんな彼に、軽々と告げる。

「いいですよ」

そんな願いなら、いくらでも。

「好きなときに、好きな空を。一緒に見ましょう。此処に来てください」

今度は彼が、目を丸くしたような顔をする。

「え、」

「私は、美しいものは、誰かと見たいです」

その煌めきを、共有したい。ひとりで抱えて持つよりも。

「・・・いいのか・・・?」

彼が恐る恐るといった様子で尋ねてくるので、おかしくなってしまう。それでも反社会組織の人間なのか。子供のような態度に、微笑みかける。

「_____ええ」

彼がさらに強く手を握ってくるので、痛い、と声に出すと慌てて力を抜いてくれた。苦笑しながら彼に提案する。

「ひとまず、自己紹介をしませんか?」

私、あなたの名前も知らないじゃないですか、と言えば、また彼は謝って名を告げた。

「そうだな、すまない。・・・俺は、雪人という。名前は、雪景色の雪に、人間の人だ」

名字は告げなかった。必要がないと思ったから。

彼女はふんわりと笑って自分の名前を諳んじる。大好きな両親がくれた、とても大切な言の葉を。

「______はい。私は、浦部幸と言います。幸せと書いて、”みゆき”です」

名前は書類で知っていたが、彼女の______幸の声で、直接聴くと、感慨が湧き上がった。

あの夜から、ずっとずっと聞きたかった。

これからも呼べる音として。

「あの、ゆきとさん」

「何だ」

「・・・私もひとつ、お願いをしていいですか?」

「言ってくれ」

幸は言おうとした。縁側の向こうの庭で、寒椿に雪が降り注ぐのを眺めながら。もうすぐ宵闇へと様変わる落日の残影を見つめながら。

_________月を共に眺めるという、頑是ない幼子のだだのような願いを、いつまでも叶えることを誓うから。どうか。

「いつもでなくても構いません。たまにでいいから、」

ひとりぼっちは淋しい。いつも傍にいて、一緒に流麗な風景を見てきてくれた両親は、もういなくなってしまった。この悲しさも、淋しさも、共に分け合ってくれる人は、この人しかいない。だから。

「_______私と、あの縁側で、共に過ぎゆく季節を眺めてはくれませんか」

一緒にいてほしいと思ってしまった。同じ瞬間など一度としてない自然の営みを、風景を、この人と見つめて生きたいと思ってしまった。



桜吹雪が千々に舞い散る桜嵐の春も。

青空が冴え渡り緑薫る、命燃ゆる夏も。

紅葉と銀杏が地面を鮮やかな絨毯へと染め上げる秋も。

純白の雪が降り積もり、玲瓏と月が輝ける冬も。



ずっとその時節を、彼と共に過ごしたいと思った。

ふとした瞬間に見つけた美しさを、一番に言える距離に、ゆきとさんがいてほしいと思った。


彼はふっと、まるで雪のように優しく、日向のように柔らかく微笑んで、答えてくれた。

「それは、俺にとってのご褒美だ」


久しぶりに感じた温かい感情。うれしくて、かろやかで、________なのに。

「ど、どうして、泣いているんだ・・・?」

え、と思って指先を頬に当てると、確かに濡れた感触がした。

彼の方を見れば、ゆきとさんも目から雫が零れ落ちていた。

「・・・ゆきとさんこそ」

「・・・え?あれ、なんでだ」

私達は、泣きながら笑っていた。感情が追いつかないように。やわらかに顔を綻ばせているのに、それでも流れゆくものが止まらない。

こんなに満たされているのに、心の奥から、切ない痛みが浮き出てくる。

私の水滴が指を伝うのを見て、彼の氷瞳からまるで雪解けのように涙が溢れてくるのを見て。しょうがないなと笑った。

_______あぁ本当に、私達はしょうがない。

どんなに幸せでも、満たされていても、心から笑えないのだ。

愛していても、愛されても、お互いの心に残った傷は消えない。

大切な人をなくしてしまった。もう戻ることはない。知っているのだ。

だから泣かずに笑えない。

きっとこれからのふたりの時間は、どんなに穏やかでも、痛みが伴う。そんな風に生きてきたふたりだから。ずっと心に刻みつけるために、傷口から目をそらすことなく見つめてきた。忘れることも、傷を舐め合うことも出来ない。ただ、寄り添いあうふたりでしかいられない。

(ごめんなさい、お父さん。ごめんなさい、お母さん。_____ごめんなさい)

幸せになってほしいと祈ってつけてくれた名前。けれど、両親が思い描いたものではないだろう。いつか世界の綺麗なものを見にゆきたいと夢見た。美しい景色に、美しい人に、美しい生き物に出会いたいと言ったら、ふたりは笑ってくれた。その夢を破ってでも、幸は此処にいたいと思った。世界の美しさよりも、この小さな庭の、四季折々を眺めていたいのだ。広大なひとりより、ちっぽけなふたりがいい。

眼窩に血に濡れたふたりが思い浮かぶ。ああ両親が死ななければ、彼と再会することもなかったのだ。この選択は、両親の死を肯定することかもしれない。その考えは、幸の心を深く鋭く刺した。

(それでも)

それでも、それでも、幸は雪人と生きたいと思った。

恋ではないと思う。たぶん愛とも違うだろう。

きっとこれは依存で、共感で、同情で。

それでも美しいものを、人生最期に見るときは、この人の隣がいいと思った。彼の傍でなら、こんな世界でも、少しだけ息がしやすいのだ。


雪人は、幸のやわらかな微笑に、哀しげな声に、透き通った薄氷色の瞳に、ずっと触れていたいと思った。叶うなら、彼女が死ぬ寸前まで、彼女の見ている世界を共に見たかった。たとえ幸が死んだとしても、雪人は生きていくだろう。果たさなければいけない務めがある。モノクロの色褪せた世界で、寂しく凍えながら、冬眠するように生きていくのだろう。彼女の温度だけ、胸に抱えて。それを愛と呼ぶことは、雪人には出来なかった。もっと哀しくて、救いようのないなにかだ。


________ふたりの間にあるのは、ただただ純粋で透明な、どこか切ない純情だった。


ふたりはいつの間にか30cmの堺を埋めて、寄り添いあっていった。まるで昔からそうだったように。お互いの繋いだ手は相変わらず冷たいままだったが、ふたりは他の温度を知らないので、なによりも温かく感じた。


*******************************


立派な日本家屋のお屋敷から、幼い女の子の声が聞こえる。それから、引き止める男性の声も。

「お嬢っ。お嬢、いい加減、部屋に戻ってください!」

10歳くらいの走る少女を止めようとしているのは、三黒だ。

さすがに中年をとうに通り過ぎた今、子供の体力にはついていけず息が切れている。

対して、濃い藍色がかかった長い黒髪に、翡翠を氷に閉じ込めたような瞳の少女が言い返す。

「いやよ!このお花、おかあさまのところにお供えにいくの!」

少女の手には、白い月桂樹の花が握られていた。春に咲く花だ。

「分かりました!分かりましたからっ。一緒にお供えにいきましょう!ひとりにしたら俺が長に叱られますっ」

そう三黒が言えば漸く少女の足は止まった。

「ほんとう?」

くるり、と振り返って尋ねる。三黒は息を整えながら返した。

「はあ、はあ。・・・ええ、本当ですよ。はあ。ただ、今日は長・・・貴方のお父様が帰ってくる日なんです。心配するので、今日は誰かと一緒にいてください」

「おとうさまが・・・!」

ぱあっと女の子の表情が輝いた。

「わかったわ。今日は私、いい子にしておいてあげる」

少女のおませな科白に、三黒は苦笑する。まったく、子供というものはいつでも可愛らしさ半分、憎らしさ半分だ。それでもかわいがってしまうが。共に手を繋ぎながら少女の母親の仏壇に向かう途中で、ふいに少女は顔を曇らせた。

「どうしたんですか?お嬢」

目ざとく三黒が気づいて、少女に尋ねる。

「お花・・・おかあさま、喜んでくれるかしら・・・」

珍しくしおらしい様子に、三黒は優しく微笑み、少女を抱きかかえて囁く。

「・・・大丈夫。きっと、お喜びになりますよ。_______春花お嬢様」

春の名を冠した貴方が、月の名を冠した春の花を持っていったのなら。




春の日向に咲く野花のように。

雪解けに芽吹いた若葉のように。

あなたの幸せはどうかそうであってと、祈り、名付けた。

あたたかく、きらきらした、陽射しをうけて育ってほしい。



_________そんなふうにあのふたりが愛した貴方が、”春”を持っていくのだから。
















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