[秋]あの朝に咲いた花
『女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい。」
と思い切った声でそういった。
「百年、私の墓のそばに座って待っていて下さい。
きっと逢いに来ますから。」
自分はただ、待っていると答えた。』
__________________夏目漱石『夢十夜』
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過ぎゆく季節の中で、秋が一番好きだ。紅葉が綺麗だとか、夕日が美しいとかそんな趣のある理由ではなく、ただ、秋の空気が好きなのだ。朝、外に出たときに風ともいえないような空気の流れの、ほとんど感じない匂いを嗅ぐと、ぎゅっと胸がつまるあの感覚。痛みに似た、郷愁のような情感が湧き上がる瞬間が、どうしようもないほど俺は好きだった。秋の朝の、冷たいというにはやさしくて、涼しいというには静かすぎる空気に触れると、懐かしくて、淋しくてなきたくなる。けれどあっという間に秋が過ぎ去ってしまうと、その感覚を思い出せなくなるのだ。切ないほどの心情を、忘れてしまう。心が震えたことは覚えているのに。だから秋がきて、またあの空気が吹くたび、たまらなく嬉しくなる。あぁ良かった、また出会えたと。それでもこんなふうに感傷が胸に押し寄せてくる理由が、俺にはよく分からない。彼女に聞けば分かるだろうか。自分以上に秋を愛していた、たった10歳で時間を止めてしまった女の子は、答えを知っていただろうか。
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その病室を訪れるのに、特段深い理由はなかった。ただその頃の俺には放課後、遊んだり喋ったりする友達がいなかっただけの話だ。小学校中学年の男子という生き物はイタズラや悪ふざけに精を出すお年頃で、スカートめくりや泥んこ遊びなどに興じるよりも、幼馴染である彼女の病室で読書でもするほうが、よっぽど俺の性にあっていたからだった。彼女は____未亜は、学校に通えないほどの重い病気だった。人生の大半を病室で過ごした。つらくないわけがなかっただろう。けれど記憶の中の彼女は、いつも笑っていた気がする。泣き顔が思い出せないくらいに。俺は彼女が寝ているベッドの傍で、いつも本を読んでいた。太宰治に村上春樹、カフカにシェイクスピア。いくつもの活字に未亜の隣で触れていた。未亜はたびたび俺に話しかけてくるから、気が向いたら話していた。俺と未亜の感性は、幸いなことに合っていた。会話をするのは、存外に楽しかった。俺たちはいろいろなことを話していた。お互いのいろいろなことを。
未亜は秋が好きだった。病室の窓から見える中庭の木々が、紅と黄色に染まる頃が。真ん中に立っている銀杏の木の黄色の扇形の葉が、時折窓から入ってくる時、とても嬉しそうにしていた。
きれいだねえ、と心から嬉しそうに話すから。どうしてそんなに秋が好きなんだと聞いたことがある。そんなに喜んでも、けしてその木の元にはいけないのに。外に出て、紅く染まる美しい風景を、見ることは叶わないのに。どうしてと。そしたら彼女は、また微笑んで答えた。
「あんなふうに、散れたらいいと思っているの。だって、きれいでしょう?」
秋は命が終わりに向かう季節だ。木の葉は枯れ、動物たちが眠りにつく冬に向かうその季節で、木々の葉は紅々と染まっている。まるで最期の一瞬に、より美しくあれるように。命そのものを、燃やすように。ああいうふうになりたいのだと語った彼女は、自分の終わり方をもう決めていたのだろうか。受け入れていたのだろうか。分からない。俺はそんな気持ちで秋の紅葉を見たことはないから。ただ、淋しいと思った。散ることばかりで、咲こうとはしないのだと分かったから。終わりばかりを考えてしまうのは、生き方として、哀しくはなかったのだろうか。もう聞けない質問を、秋がくると俺は何度も思ってしまう。どんぐりが落ちて、紅葉と銀杏で道が染まる頃。未亜が好きだった季節。ねえ、きれいだよと言って銀杏をひらひらと俺の顔の前でふっていた。真っ白な病室の中。思い出す。
彼女が死んだのは、秋の終わり頃だった。
そんなたわいのない会話をした、2,3週間後のことだ。
冬が来る前に、未亜は逝ってしまった。
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ガヤガヤとざわめく教室がうるさい。
今は6時間目で総合の時間だ。それで、何をしているのかといえば10月下旬に行われる合唱コンクールで歌う自由曲の選曲について話し合っていた。学級委員のメガネにおさげの女子は一生懸命クラスをまとめようとしていたが、みんなは好き勝手に話している。俺はそんな教室の様子をそっと目で撫で回してから、困っている学級委員の手助けをすることもなく窓から運動場をみおろした。周りに木なんてあるはずもないのにどこから飛ばされたのか、枯れ葉が一枚地面におちていて、周りには砂と石しかないからそれが酷く目立っていた。春や夏と比べて色褪せている景色を見やって、ふと、もう蝉は鳴かないんだなと思った。少し前までしつこいくらいにうるさく鳴いていたのに、今はもう、その面影をほんのちょっとも残さずに消えてしまっている。死んだのだろうか、そう思った。生き物は死ぬときに、いったいなにを思って死ぬんだろう。人のように、恐れたり悲しんだりはするのだろうか。蒸し暑く、どこもかしこも燃えている生命の音で溢れていた、青々とした季節を回想する。夏が終わると、それが嘘のように静かになるから、俺は未亜の言葉を思い浮かべるのだ。
秋は、死にゆく季節だと。
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輪廻転生を未亜と話したのは、いつのことだったか。ミーンミーンと鳴く蝉を覚えているから、たぶん夏のことだったと思う。
未亜が死んだ年の。中庭の木が鮮やかな緑に色づいて、外はやかましいくらい生き物の音で溢れているのに、病室はとても静かだった。空調がよくきいていて、涼しかったけれど、未亜は夏の暑さを知らないのかもしれないと思うと、なんともいえない気持ちになった。
ねえ、と未亜は窓の外の夏の情景を眺めながら言った。
「生まれ変わりって、あると思う?」
突然の質問に、息がつまった。その頃、未亜の体は衰弱が激しくなってきた頃で、もう長くはないかもしれないと、未亜の家族に聞かされていたから。未亜は窓の向こうをむいていて、どんな顔をしているのかは見えなかった。なんて答えればいいか分からなくて、いいかげんな言葉を返してしまった。
「さあ・・・あるんじゃないの」
日本の不思議なところは、天国も地獄も信じて、輪廻転生も信じて、幽霊も信じるところだと思う。死んだらなにもないと思う人だっている。俺もそんなあやふやな死生観で生きてきたため、生まれ変わりだって、もしかしたらあるかもしれないと思う程度だ。
「・・・未亜は」
「ん?」
「生まれ変わりたいの?」
未亜は振り向いたけど、すぐには答えなかった。んーと言葉を濁して、曖昧に微笑んだ。
「・・・そうかもね」
「未亜、」
「ね、私が生まれ変わるまで待っていてくれる?」
寂しさに満ちた儚い顔で笑うから、何かを言おうとして、続く未亜の言葉に遮られてしまった。何を言おうとしていたか思い出せないから、きっと中身のない取り繕った言葉を掛けるところだったのだろう。ふと未亜の細い手首が目に止まった。下にあるベッドのシーツよりも白くて細い。今にも折れてしまいそうで。ああ嫌だな。嫌だな。未亜がいなくなるのは、嫌だな。死んでしまうのは、もう会えなくなるのは、哀しい。とても。
そんな気持ちとは真逆とも言える答えを、俺は未亜に返していた。
「・・・うん」
待つよ。
きっと世界で一番虚しい約束なのに、未亜は笑った。
心から嬉しそうに。
「蒼汰は生まれ変わったら、何になりたい?」
そんなことは、考えたこともなかった。それに、
「そもそも、生まれ変わったあとの記憶って継続されるのか」
俺が俺のままで転生しなければ、その問いは無意味なものではないだろうか。
「頭が覚えていなくても、魂は覚えているよ、きっと。心から強く願ったら」
未亜は分かったような顔で笑った。
「・・・未亜は?」
他のナニカになりたいと、心から強く願っているのだろうか。
「私?・・・私は、そうだなあ」
視線を少し遠くにやって、そして俺の方に向き直してから未亜は言った。
「鳥になりたいかな」
「鳥?」
「うん。それから、虫になりたい。猫になりたい。魚になって水の中を泳ぎ回りたいし、蝶になって花の蜜を吸いたい。もう一度人になって、たくさん運動したり歌ったり、本を読んだりもしてみたいなあ」
夢というには叶いそうになくて、叶ったとしても哀しさが先立つ願いだった。それでも未亜は、柔らかな微笑みを浮かべて言った。
「ねえ私ね、生まれ変わるには49年かかると思ってるの」
いきなりなにを言うのか。また突拍子もない事を、と思った。
「・・・それ、49日、じゃないの」
しかも生まれ変わるまでの日数じゃなくて、死んだ人が親しい人とお別れをするために現世に留まる日数だったと思う。
そう俺が未亜に言うと、
「うん、だから。だから、死んだ人間がこの世界にお別れする時間が49日なら、またこの世界に生まれてくるまでの時間は、49年なのかなって」
と未亜は呟いた。
なにがだからなのか分からない。説明に必要な筋道を途中でいくつかすっとばしている。そんな根拠も論拠もないデタラメ、否定してしまうのは簡単だったけれど。
けれど。
本当に、嬉しそうに笑っていたのだ。
こんな他愛のない会話が、楽しいというように。
だから、つきあってやろうと考えた。どうせ日常の会話にひとつに零れ落ちた、戯言だった。そもそも、死んだ後のことは誰にもわからない。未亜の言葉を完全に否定することはできない。それがどれだけむちゃくちゃな論理でも。
_______人は、信じたいものを信じるものだろう?
いつかの父の言葉が頭に思い浮かんだ。俺が小学校一年生の時、交通事故で死んでしまった父。
だから、俺は「そう・・・かもな」と返したのだ。俺は信じたわけじゃなかった。生まれ変わりも、”49年”も。
でも俺は未亜に聞いた。なんのきなしに。
「結局、おまえは何になりたいんだ」
未亜が一番、なりたいものは。
「え?・・・そうだなあ、さっきも言ったとおり、いろいろなりたいものはあるけど。でも私はやっぱり_______」
その答えの先を、俺は覚えていない。なんと言ったのだろう。
未亜は、何になりたかった?
それを聞いたとき、切なさで胸が震えたことは覚えているのに。
どうして俺は忘れてしまったんだろう。
とても、とても。大切なことだった気がするのに。
ふと、思う。小学生の頃の夏の病室ではなくて、初秋のガヤガヤと騒がしい高校の教室で。
49年待ったなら、彼女は会いに来てくれるだろうか。
他愛ない子供同士のじゃれあいの会話。他でもない子供の頃の俺が心のうちで否定し、絵空事だとひそかに馬鹿にしたのに。
未亜が死んでから6年。今から43年。意味もなく指折りしようとして、やめた。そんなことしてなんの意味があるんだ。
49年経ったって、きっと未亜はいないのに。
ああけれど。
風に吹かれ飛ばされる枯れ葉を見て思った。けれど。
もしももう一度会えたなら、いいと思った。彼女が次に何になって俺の所へ会いにくるのかを考える43年は、きっと素敵な時間だろう。そうやって待って、生きていけば、積み重ねていく人生がもっと素晴らしくなるような気がした。たぶん、彼女を49年も待てる人間なんて俺の他にはいないだろう。飽きないだけの思い出を持ち、待ちきれないほどの執着は持たない俺のほかには。
だから待ってみようか。人生の手慰みに。過ぎゆく季節を眺めながら。
そんなことを考えている俺の知らないうちに、クラスの自由曲は 『COSMOS』に決まっていた。
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君の温もりは 宇宙が燃えていた
遠い時代のなごり 君は宇宙
教室に合唱の歌声が響く。自由曲が決まってから2週間。クラスではパート分けも終わり、本格的な練習がはじまった。最初はやる気のなかった男子たちも、はりきる女子たちにせかされ、今は真面目に練習に取り組んでいる。かくいう俺も、こういう行事に気張るがらではないが不真面目に取り組んで、苛立った女子たちに目をつけられたくないので一応は声を出しておく。
コスモス、と言えば多くの人が秋に咲く花のことを思い浮かべるだろう。実際、俺も自由曲のタイトルを聞いたときはあのピンクと白の花の歌なんだろうなと思った。けれど予想とは違い、自由曲『COSMOS』とは、宇宙の歌だった。あとで検索したところ、cosmos、とは秩序のあり統合された宇宙観を意味する英単語らしい。この知識はとくに何の役にも立たないので、合唱コンクールが終わったらやがて忘却されるだろう。壮大なテーマを主題にしている歌らしく、歌詞も意味深だし、サビの音程は喉がひっくり返りそうになるほど高い。何人かそれで声をつぶしていた。
時の流れに 生まれたものなら
ひとり残らず 幸せになれるはず
・・・しあわせ。
幸せとはなんなのだろうか。未亜はよく笑っていたけれど、それは幸せという証だったのだろうか。なんだか違う気がした。彼女の人生は、幸せというには淋しくて、あまりに空っぽで、不幸というには穏やかすぎた。未亜に聞いたら、きっと楽しかったよと答えるだろう。でも幸せだったよとは答えないだろうと思った。
なんとなく。
この歌詞を書いた人は、どんな幸せを思い描いたのだろう。
ひとり残らずしあわせになれると書きながら、不確かなものを信じたいように最後に”はず”とつけた、見知らぬひとは。
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吹く風が冷たくなってきた。ポケットに手を突っ込み、曇り空の下、学校へと向かっていた。10月下旬、もうすぐ冬が来るこの季節の朝は日の光が少ない。まるで、空気の温度と比例しているみたいに。合唱コンクールが3日後となり、俺は今日も早朝のクラス練習のために早めに家を出た。この時期になると、最初はサボリ気味になっていた男子たちも全員出てくるようになり、ピリピリしていた空気も和らぎ、ほどよい緊張感となる。毎年こうなんだな、と思った。中学でもこうだった。どうしてこうも似るのだろう。
もう嫌というほど覚えてしまったメロディを小さな声で口遊む。じゃり、じゃり、気だるく足を進める。
_____と、
「あ、猫」
ひょっい、と目の前を三毛猫が通り過ぎていった。びくっ、として体をそらす。バランスが崩れ、足をばたっと不意な場所におろした。
「あっぶね」
右足は、道端に何故かポツンと一輪だけ咲いていた薄紅色の花の横すれすれの場所にあった。別に、ことさら植物が好きなわけではないが、踏んでしまったら後味が悪い。そっと足をどかして、でもなんでコスモスがこんなところに、と思う。
コスモス。奇しくも、さっき口遊んでいた曲と同じ名だ。意味は違うが。何故花の名前が分かるのかといえば、自由曲の題名を調べたときに、ネットページで写真を見たからだ。和名は秋桜で、10月から11月にかけて咲く花。それだけしか知らない。
ふわり、と微かに吹いた風で花弁(はなびら)がなびいた。
かん、と先程歌っていたメロディの部分の歌が頭の中で再生される。
_________君の温もりは 宇宙が燃えていた
(_____なんで)
ただの花だ。こんなところにたったひとりで咲いている、植物だ。
特別なものでもなんでもない。視界の端に映ってくる、誰もが通り過ぎる背景の一部。
なのにどうして。
「私は花になって、そうしてね。いつか蒼汰に会いに行くよ」
_____どうしていまさら、未亜の言葉を思い出すんだろう。
「___あぁ」
喉から音が漏れた。けれど、意味を持った言葉になりはしなかった。視界が霞んだ。息が苦しい。
会いに行くねと笑った彼女が瞼の裏に映り、世界で一番馬鹿げている考えが頭をよぎった。そんなわけがないのに。だけどもしそうなら。本当にそうであって欲しいと思った、愚かな自分。でも。
会いに来てくれたのなら、きっと死ぬほど嬉しかった。
そっと指先で薄い花弁を撫でる。しばらくそうしていた。それから深呼吸をして、ゆっくりと歩きはじめる。深く吸い込んだ肺に、突き刺さる程の冷たい空気が心地よかった。
またこの時期になったら。淋しくて、切なくて、涼しくて、咲き誇りながら生命が終わる、この季節が巡ったら。
また来年も、彼女は会いに来てくれるだろうか。
そうだったらいいな、と思った。それがただの自分の都合が良い妄想でも、思い込みでも。そうなって欲しいな、と思った。
そうなれば、秋が好きな理由が増えるだろう。
麻痺したみたいに震えている足を動かす。どんなことがあっても、歩き方は忘れないようだった。
空を見上げる。雲の隙間から、細く小さく光が差し込んでいた。温かさは感じない。
今にも消えてしまいそうな、弱い日光。未亜みたいな。
歩きだす。学校へ。あの”コスモス”を歌うために。久しぶりにいい気分だった。
もしかしたら、49年はもう経っていたのかもしれないと思った。
||
いつかきっと、会いにいくから。
鳥になって、虫になって、猫になって、魚になって、蝶になって、人になって。
花になって。
きっと会いにいくから。
だから待ってて。待っててね。
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